【7】 花園
大学を出発して二時間あまり後、私たちは街から少しはなれた山の中にある温泉旅館へとやってきた。
「ここは……」
駐車場に車を止めて降りた後、榊原先生はその旅館になど目もくれず、裏手へと回り、薄く雪の積もった山道を進んだ。枯れた木々が雪をかぶり、太陽の光をささやかに照り返す様は、どこか神秘的だった。私たち以外に人のいる気配はなく、時たまふく風が枝を揺らす音だけが聞こえた。歩き進むと、横手に渓流が現れる。美しい景観だな、と思った。
目的の場所へは三十分ほどで辿りついた。存外に遠いな、という印象だった。木と木の間にロープが引かれ、立ち入り禁止と書かれている。足を運んだことはないが、見覚えのある場所だった。榊原先生は案の定立ち入り禁止という警告が目にはいっていないかのように、自然と中へ入った。私も仕方なく続いた。
「写真くらいなら、新聞かテレビかで見たことはあるだろう」
私は小さく頷いた。ここは例の事故が起こった場所だった。
「知っているとは思うが、鏑木工業はさきほどの温泉旅館からの依頼で、ここに新しい温泉処を作ろうとしていた」
「はい」
「だが機材の崩落――正確には組み立てた足場の崩落事故により建設工事は中止。三名の死者を出し、大きな事故としてメディアを騒がせた。そのうちの一人が、君の恋人だ」
その場所は開けた土地で、建設途中の建物がそのまま放置されていた。実物を見ると思っていたよりも大きなもので、広めの銭湯をそのまま一つ建設しているようにも見えた。建設を再開するかどうかは、今話し合いがなされている最中と聞いている。
「その日はどうやら風が強かったようで、元々固定がゆるかった足場が強風にあおられた結果崩落し、偶然下にいた三人を押しつぶした、とのことだった。この点に間違いなく管理不行き届きはあっただろう。しかし、少しおかしなところもあった。死亡した三人は、本来泊まっていた旅館にいなければならない時間に、この建設現場に近づいていたのだ。しかも、危険だから近づくなという指示があったのにも関わらず、だ」
その話は、あの日彼女の遺体を見たときに、既に聞いていた。
「死亡者三人の内訳は、社員の男性が一人と、アルバイトの女性が二人だ。三人とも真面目でまっとうな人物だったことが、聞き込みや証言で分かっている。特にこの社員の男は、堅実で勤務歴が長く、将来有望な人材だったそうだ」
榊原先生は、どこか愉快げな笑みを口元にたたえながら、建物を回り込むように歩いていた。
「事故の時まで、三人が不審な動きをしていた形跡や証言は一切ない。また、三人が特別仲をよくしていたわけでもないそうだ」建物の裏手までやってきて、そこでやっと榊原先生は足を止めた。「しかし何故か三人は、夜も更けた時間にここへとやって来た。そしてちょうどこの位置で事故に巻き込まれ、死亡した。事故時の目撃者は一人もおらず、理由は結局、謎のまま」
私はぴくっと眉根が痙攣したのを感じた。薄く積もった雪ですぐには気付かなかったが、ここがまさしく彼女が死亡した場所だということは、何度も確認した写真や映像から、明らかだった。
「さてここまでがざっくりとした事故の概要だが、何か補足はあるかね?」
「……いえ、ありません」
「そうか」と榊原先生は頷いた。
「中々不思議な事故だとは、思わんかね」
「そうですね」
どうして三人はその日その時間その場所にいたのか。出るなと言われ、強風ですらあったのに、一般的な良識のある人間が特段の理由もなくしかも遅い時間にわざわざここまでやってくるだろうか。考えるまでもない。そんなことはあり得ない。何かがあったのだ。どうしてもここに来なければならない理由が。しかしそれは私もずっと考えていたし、警察も考えていたことだった。だから当初、これが事故ではなく事件である可能性も、考慮されていた。
「しかし事故現場の検証を何度も行った上での結論は事故です。今後覆る可能性がないとは言いませんが、現代日本の警察は、無能ではありません。彼らの判断は、概ね信用に値するはずです」
実際その日その時間の風向きは、ちょうど建物側から今我々の立っている方向へ向いていたようで、風によって倒れた場合、たしかにこの位置に人が立っていれば、下敷きになることは間違いないとのことだった。また、関係者の誰からも殺害動機や不審なアリバイが見つからなかったことも事故であるとする理由になっていた。警察は事故当時にこの近辺にいた全ての人間の素性を徹底的に調べ上げたし、特に一緒に働いていた人間は全員に対して非常に綿密な聞き取り調査を行っている。その結果、全員が白と判断された。
「警察がどう判断したかは、ともかくここでは置いておこう。私は、君個人の意見が聞いてみたい」
微笑をたたえたまま、榊原先生はそう聞いた。私はまた、少し考える。この件については既に考えられるだけ考えていたので、どう言葉にするかを選ぶだけだった。
「人の行動には、ほとんど必ず理由があります。それも今回の場合、近づくなというルールを破ってまでとった行動です。三人が夢遊病者的症状をもっていない極一般的な人間であるのならば、間違いなく、夜にここを訪れる理由があるでしょう。そしてそれは、極めて高い可能性で事故と関連しているはずです」
「なら、それはどのような理由だと考える?」
「それを考えるには、三人に共通した事項の存在を明らかにしないと難しいでしょう。しかしその三人は特別仲が良かったわけで無く、また特出した関係もなかったと既に判明しています。その上であえて何か共通の事項があったとするならば、それは何か、外的要因のはずです」
榊原先生は、私の話を楽しげに聞きながら、またどこかへと歩き出した。
「けれどその要因は、私にはわかりません。殺人事件であれば第三者の介入を考えますが、今回はそうではない。警察の取り調べで動機が発見できなかった以上、殺人でないことについては間違いがないと思われます。一点あるとすれば、事故直前に仕事仲間十名程度があつまって宴会をしており、それに三人も参加していたようですが、それだけです。酔っていたとしても理性を失うような三人ではありませんでしたし、三人一緒にここへくる偶然というのも考えられない。そうなると、私にはお手上げです」
三人だけに共通した事項は、今のところ一つも見つかっていない。この三人は今回この場所で初めて顔を合わせた人間だった。出身地も、趣味も違う。共通する事項など、あるわけがなかった。
「動機も関わりもない通り魔的存在の可能性は?」
「街中でならばまだしも、ここは山の中です。こんな場所に偶然現れる通り魔がいるとは考えにくいです」
「うむ。そうだな。……少し話は変わるが。どうして鏑木工業は、この建設工事にアルバイトを、しかも住み込みで雇ったのだろうな」
「建設工事に携わっていた本来の社員の何人かが、体調を崩したためです。聞いておりませんでしたか」
「いや、すまない、知っているよ。確認をしたかっただけだ。そうだね、元々ここで働いていた人間がいたが、体調不良になったから、急遽人員を補充するために、アルバイトを雇ったのだ」
だから高時給の、住み込みのアルバイトがあったのだ。
「何故体調不良になったのだろうな」
「さあ。ここは山奥ですし、長時間の作業は慣れた人間でも堪えたのかもしれません」
「うむ、そうかもしれない」
榊原先生は五分ほど歩いたところで立ち止まった。少し奥まったところにある岩肌で、よく見ると水が流れ出して小さな水流を作っていた。
「あの事故現場から、旅館まで、徒歩で三十分の距離があることは、先ほど歩いたとおりだ」
私は頷く。遠いな、と思ったものだ。
「新しい温泉処がこう遠い場所に建設されることになったのは、元々歩いて向かうことを目的としていたからだ。君も見て思っただろうが、景観の良い道だからね。こんな道の先に温泉があったら、わくわくするだろう」
「そうでしょうね」
「しかし建設工事に携わる者としては、たまったもんじゃないだろうね」
「そうですね」
それは拠点が遠いということだった。整備された道ならまだしも、これを毎日往復するのは、中々大変だ。
「拠点となる旅館との行き帰りで一時間もかかるとなれば、休憩時にも戻ることは時間的にも体力的にも考えられない。道があまり整備されていないこともあって、車での送迎は行われなかったそうだ。であれば、関係者は仕事中、ずっとここにいることになる。さて、ここに湧き水があるな。君が仮にここで働いていたとしたら、どうする?」
「そりゃあ、飲むでしょうね。ここに水があるならば、水を持ち運びする手間が省ける」
毎度水を持って往復するよりは、手ぶらで来た方が幾分か楽になる。
「そうだ。そして実際にそうだった。働いていた者全員が、ここを使っていた。空のペットボトルを持ってきて、ここで汲んでいた人もいたそうだ」
「……? だから何です」
「僕はね、この水に何か含まれているんじゃないか、と考えている」
私は眉をひそめた。「何かって、何です」
「君の言う、外的要因だ」
「先生、それは突拍子もなさすぎる。ただの水ですよ。しかも全員が使用していて、特に健康被害がでているわけでもない」
「普通はそう考える。警察もきっとそう考えた。だが、私は違う可能性を考えた」
「……?」
榊原先生は「このわき水の上流へ行ってみよう」と岩肌を登り始めた。慌てて私もついていく。先生がいったい何を考えているのか、想像もできなかった。
「実は先日私はここに来ていてね、この水を飲んでいるのだよ。持ち帰って、独自に調べても見た」先生の言葉には、楽しんでいるかの様子があった。「そしてね、面白いものを発見したんだ」
ずんずんと、年を感じさせない足取りで榊原先生が傾斜を登っていく。私もついていくのにそう問題はなかったが、どちらかといえば一応年配である先生が不意に足を滑らせて落ちないかどうかが心配で、気が気ではなかった。
それからさらに三十分、私たちはその山を登り続けた。道が道だったので、そう遠くまで来たわけではないけれど、息が少し荒くなる程度には大変であった。
「やはりあった!」
榊原先生は、目当てのものを見つけたのか、開けた場所に辿りついたや否や駆け足になった。
「見たまえ、これを」
ちょろちょろと流れる水流の脇で、木々の隙間から太陽の光がちょうど円形に差し込む場所に、小さく、白い花園が出来ていた。
「なんですか、これは」
「これはね」
先生は満面の笑みで、私を見た。
「新種の、植物だ」
「なっ……」
忘れていた。この先生は、植物科学の研究者だった。
「ほら、面白いものがあっただろう?」