【6】 榊原先生
私が世間との関わりを放り投げてふさぎ込んでから、二ヶ月と少しが経った。事件からは三ヶ月が経っていた。いつのまにか年が開けていたことにも気付かず、私は無気力な生活を送っていた。このままでは会社に解雇されてもおかしくはない、と分かってはいたのだけれど、どうしても仕事に戻る気にはなれなかった。
未だに心中の整理はついていなかった。つく気配もなかった。激情はそのなりをひそめていたが、何かきっかけがあればすぐにでも爆発してしまいそうだった。どちらかといえば、そうならないように、私はこうして社会との関係を断絶していた。
解決策も見つかりそうにはなかった。精神病院にかかることも考えたが、私はどうにも精神科医というのを信用できなかった。人の心を、科学で治せるわけが無いと思っていたからだった。
私は、私の心がこれほどまでに弱いということに驚きを覚えていた。私は物心ついてから今日まで、何が起ころうとも常に沈着な人間として生きてきた。人生に波乱とよべる出来事こそなかったが、人並みに死や不幸、もしくは幸せを経験してきたつもりだった。けれど、どうにも周りの人間のように泣いたり笑ったりとすることが私には無かった。周りと少し違うなとは幼い頃に既に気付いていたけれど、だからといって私が変わることはなかった。
私はそうしてそのまま大人になった。だから私は、自分は何があっても動じることのない人間だろうと思って生きてきた。感情がないとまでは言わないが、常に平静を保てる人間だと思って生きてきたのだ。だというのに、こうしていざ事が起こってみると、私の心はいともあっさりとその脆さを露呈した。それがあまりにもあっけないものだったから、私は驚いた。
だがそれだけだった。だからどうなるということもなかった。私がいくら心で泣き叫んでも、激情を振りまいても、彼女が帰ってくるということだけは、絶対になかった。むなしいだけだった。
事件は収束へと向かって順調に進んでいた。一時は三人も同時に死亡することとなった大きな事故としてマスメディアに取り上げられたものだが、他の犠牲者の遺族にもとくに事を荒立てるつもりのある人間はいなかったし、今後の対応も順々に決まっていったことで、早々にこの事件は世間に飽きられた。鏑木工業も、なんとかつぶれることなく存続できるようだった。
全ては丸く収まろうとしていた。
私の心だけを残して。
私に失意だけを植え付けて。
そんな中、私の元へ一本の電話がかかってきた。
『やあやあ久しぶりだね、元気にしていたかい?』
電話の相手は、大学時代にお世話になった榊原先生だった。
「ご無沙汰しております、先生。元気にしておりますよ」
『うむ、君はそう答える人間だね』
「……?」
『いや、失礼した。実は君の事は聞いていてね。元気なわきゃあないと知っていたが、君がどう答えるかついつい聞きたくなってしまった。うむ、変わりないようだ』
榊原先生は、愉快げに笑っていた。心を見透かしたような発言であったが、私はとくに不愉快とは思わなかった。榊原先生は昔からこういう人であったし、言葉に悪意が無いことも知っていた。
「それで、何の用ですか」
『ああそうだった。ちょいと面白いことがあってね。明日あたり、大学に来て欲しいのだよ』
「大学に?」
『うむうむ。明日は平日だが、どうせ仕事もうっちゃっておるんだろ。私も授業があったが休講にしてやったから問題ないぞ』
「はあ」
『気のない返事だな。しかし、つまらない思いはさせん。詳しいことは後で話すがね、きっと君にとって有益であるはずだ』
榊原先生は言いたいだけ言うと、さっさと時間の指定をして、私の答えも待たずに「それじゃ明日!」と友達と遊びの約束でもするかのような軽い勢いで電話を切った。私は少しの間、受話器を持ったまま呆然とそこに突っ立っていた。
「大学か……」
しばらく行っていなかった。卒業してから一度も足を運んでいなかったのだから当然だ。
行く気力はあまりないな、と思った。行くと言ったわけでもないし、このまま何事も無かったかのようにしてもさして問題にはなりそうになかった。明日もまた同じ一日を過ごしていたかった。
「……」
便所で用を足して、手を洗いがてらふと鏡を見ると、疲れた私の顔がそこにあった。元々無愛想だから、他人が見たら変わっていないようにも見えたかもしれない。けれどさすがに自分でならよく分かる。彼女だったら、こんな時、優しい言葉をかけてくれただろうか。
どこかで、情けないな、と誰かがつぶやいたような気がした。
翌日、結局私は大学を訪れた。
榊原先生が有益であると言う以上、何かあるには違いなかった。ふさぎ込んだままでいるのも良かったが、それではきっとこの先もこのままになってしまう。それはあまり生産的とも合理的とも思えなかった。だから私は非常におっくうな気持ちを無理矢理理性で抑えて、家を出た。
久しぶりに再会した榊原先生は昔と変わっておらず、「君なら来ると思っていたよ」と白い歯を見せて笑うと、早々に私を車に乗せて大学を出た。
「どこへ向かうんですか」
「ついてからのお楽しみだよ」
てっきり大学で何かするものと思っていたので面食らったが、私はちらと先生の顔を見るだけにとどめた。
「君とはひさしぶりに会ったが、少しは大人になったじゃないか。ええ? ゼミで君を請け負っていた身としては、子の成長を見るようで嬉しい限りだよ」
榊原先生は植物学を専攻する研究者で、私が大学時代に所属していたゼミの先生であった。約三年ほどの付き合いではあったが、無愛想だった私を何故か気に入ってくれたようで、よく飲みに連れて行っては様々な話を私が辟易するくらいに聞かせてくれたことをよく覚えている。人生の中でも特に濃い関係を築いた相手だった。
「大学生の頃はまだ幼い顔つきをしていたがね、今は中々精悍で凜々しい顔つきに変わっている。うむ、私の若い頃を思い出すよ」
「適当言いますね。先生の若い頃の写真を私は見たことがありますよ。私とは全然違ったじゃないですか」
「そういえば見せたことがあったな」と榊原先生は愉快そうに言った。「うむ、たしかに私は君ほど無愛想じゃあなかったからね」
無愛想で無いどころか、どの写真も満面の笑みだったのを私は思い出していた。精悍で凜々しいというよりは、明るく元気なムードメーカーといったような風体で、少なくとも私とえらく違ったことは間違いない。
「まあ、私が若い頃精悍で凜々しかったという話はともかくとして」どうやらそこは譲れないようだった。「しかし君の内面は大して変わっておらんようだ。大人にはなっているが、その無感動な目は、当時と全く変わらないよ」
「どうですかね」
「うむ、言いたいことは分かるよ。今まさに君は、自分は無感動ではなかった、と思っていることだろう。おそらく普段のそれとは大きく違った感情に心を支配されているはずだ。ああ、どうだね、実際君は今、それをどう思っている?」
私は窓の外をじっと眺めながら、答えを考えた。先生はとくに急かさず、のんびりと車を走らせていた。
「自分で思う以上に、心は脆いものだな、と」
「うむ」と先生は満足げに頷いた。さしかかった信号が赤に代わり、車が停止した。
「今回の件で君が傷心していると聞いた時、私は全く不思議とは思わなかったよ。当時同じゼミにいた他の生徒諸君の大半は、君をまるでロボットのようだと言っていたがね、いや、君自身も、自分の心に似たような感想を抱いていたことだろうがね。しかし、私は気付いていた。君はれっきとした人間で、正しく心を持っているとね」
車が発進する。私はぼんやりと窓の向こうを眺めていた。
「君をよく飲みに誘ったのは、実験でもあったのだ。あの頃にも言っていたかもしれないがね、何をすれば君が感情を表に出すのか私はとても興味があったのだ。君のようにずっと表情を変えない人間は中々珍しいよ。だから色々な話をして見せた。あの手この手を試したのだ。結果的にその時は、君は大した感情も表には出してくれなかったけれどね」
そういえばそんな話をしたな、と私は懐かしく思った。榊原先生は好奇心の塊のような人間で、気になった事を納得するまで調べたり、実験したりしないと気の済まない性格だった。
「が、結論は中々凡庸なものだったね。やはり現実が奇なることなどない。愛した人間の死に激情を発した、というのはあまりに人間的で、そしてあまりに正常な感情の働きだ。私が搦め手を色々と考えていたのが馬鹿らしくなる。恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がすということさ」
榊原先生は、楽しそうに一度笑った後。一度ため息のような深呼吸をして、真面目な顔になった。
「だから本当に、今回の件については心中を察する。慰めの言葉も思いつかん。君の感情をそこまで動かすことのできる女性は、この世にそう多くはいなかっただろう。君が彼女と出会い、そして愛をはぐくんだことは、もはや、奇跡だ」
車が街を抜けて郊外へと出た。空は澄んでいた。私は少し窓を開けた。風が頬に当たる。
冬にしては暖かいな、と思った。