【5】 メイド
その日はその後一緒に映画を見て、夕食を食べて、とデートでもするように過ごして、夜の十時頃になってやっと家路についた。
僕の部屋のあるビルの周りにはこの時間にあいている店はコンビニくらいしかなく、薄暗い。一帯に建っている雑居ビルはどれも電気がついておらず、点々と建ったアパートも、大概が古くさくて人気が無い。それらが並んでいる様はちょっとしたゴーストタウンのようでもある。物騒な場所ではもちろんないが、実際人通りもあまり多くはないので、初めて来た人はこれを見て怖がり踵を返すこともあるくらいだ。おかげで今まで僕の店にも客が少なかったのだけれど、しかし僕はここが好きだった。綺麗な空気も美しい緑もないけれど、この静けさだけは、都会の中で一時現実を忘れさせてくれるような気がした。
「今日は楽しかったか?」
「はい、とても」
お姫様は可愛らしく微笑んだ。
僕達は自然と手をつないで歩いていた。べつに何か意識していたわけではなく、いまも意識しているわけではない。親と子が手をつなぐような、そんな自然さだった。
「とくに、このお洋服が嬉しいです」
お姫様は空いた片手でスカートの裾をつまんだ。
「一生懸命選んで、プレゼントしてくれました。そういう気持ちが、私にはとても嬉しいのです」
僕を見るお姫様の目をちらと見てから、すぐにそっぽを向いた。なんとなく恥ずかしかった。目をそらしたついでに空を見上げると、星はあまり見えなかった。けれど月だけは煌々と輝いていた。ちょうど雲もかかっておらず、よく見えた。
「ん……?」
見慣れたコンビニの光が見えて、家に着いたなあと思ってすぐ、ビルの入口に誰かが立っているのに気がついた。
コンビニに用があるにしては不自然な立ち位置だった。逆光で、容姿が良く見えない。もしやウチにきた客だろうか、と思った。定休日を知らずにやって来て、開いておらずに立ち往生。十分あり得ることだった。
「あの」
そう思ったから、僕は自然に声を掛けた。そして――声を掛ける距離まで全く気付かなかったことに気付いて、驚いた。
「あ。どうもはじめまして。ご主人様」
それは一人の娘だった。若い娘だ。ご丁寧に挨拶をしながらお辞儀をしてくれた。礼儀正しい娘のようだ。
しかし問題はそんなことではない。
「な……なんだ、それ」
その娘は――
「メイドさんです。私」
――メイド服を、来ていた。
「メイドさん!」
お姫様がぴょんと跳ねた。
僕はまた、頭を抱えた。
ともかく外では目立つので、僕は彼女を――メイドを家に上げた。知らない人を家にあげるなんて不用心だ、というのは最もな意見である。しかも深夜にメイド服を着ているようなおかしな人とくれば、まずまず関わり合いにならないでいることが正しい。間違いない。間違いないのだけど、しかし。今の僕に限っては、そうとも言い切れなかった。
「お姫様の次は、メイドさんか……」
なにせ我が家には既にお姫様がいるのである。お姫様がいるのであれば、メイドくらい現れたっておかしくはない。有り体に言えば、僕には耐性が出来ていた。
僕はメイドのことをじっと観察した。黒と白のクラシックなメイド服だった。丈の長いスカートと長い袖は、足も腕も完全に覆い隠していた。家事をこなすのに支障をなくすためか、髪は後頭部のあたりで結いまとめられている。メガネをかけているのも手伝ってか、どことなく知的な女性に見えた。
「はい、ご主人様。私は貴方のメイドさんですよ」
「……ご主人様ですか」
そして気になった点がこれである。このメイドは、あろうことか僕のことをご主人様と呼ぶのである。
お姫様でも手一杯なのに、また、よく分からない者が増えた。僕は考えながら、額をとんとんと叩く。いったい僕の周りで何が起こっている。
そういえば、彼女の台詞はどこかで聞いた言葉だった。そうだ。一週間前、お姫様が現れたときに。「私は貴方のお姫様です」
「なあお姫様、このメイドさんは、知り合いか?」
この二人が共通した存在であるのならば、もしくは逆に、この不可解な現象にも光明が差すのではないか。
「はい。私はこのメイドさんを知っております」
お姫様はとくに考える間もなくそう答えた。即答である。僕は唸った。
「知り合いか。どういう知り合いなんだ?」
「どうと言われると困ります。私と彼女は、姫とメイドです。それだけです」
「姫とメイド……、ということは、過去に世話をしてもらったことがある、とか?」
「ありません。知り合いなだけです」
「ないのか。ううむ、知り合い……、知り合いね」
僕は思考を巡らせながら、顎を掻いた。
「知り合いなら、紹介してほしい。このメイドさんは、何者だ」
「そうですね、元気で明るい方です。何者かは見て分かるとおり、メイドさんです」
僕は目をぱちぱちとやった。これでは何の手がかりも得られていない。
「まあいい。ならメイドさん。メイドさんは、このお姫様とどういう関係だ」
「お知り合いですよ。私はメイドで、彼女はお姫様なので」
「では君は何者で、お姫様は何者だ」
「私はメイドで、彼女はお姫様なのです」
「ぐう……」
お姫様と全く同じ回答だった。これには僕も狼狽した。お姫様が現れたときと、何も変わらない。
「いったいなんなんだ……」
「まあまあご主人様。そう思い悩まずに。すくなくとも私は、ご主人様の気を安らかにするためにやってきたのですからね!」
何を言っているんだ、と反射的に思いながら、これは聞き捨てならない情報ではないかと冷静な自分が目を鋭くしていた。
「気を安らかに?」
「はいっ。ご主人様が疲れていることを私はよーく存じております。私はご主人様のことならなんでも分かります。私はご主人様のためにここに現れたのです」
メイドの言葉と、その笑顔に、僕はすっと目を細めた。
「何故僕のことを知っている」
「うふふ、秘密です」
「秘密……?」
「親が子に対して、お前のことを何でも知っているんだよ、なんて言うのと同じようなものだと思ってくださいまし。そう難しく考えるようなものではありません。私はただただ、貴方の気持ちを、少しでも軽くするためにやってきたのです」
メイドは、にっこりと僕に笑いかけた。「どうか、信じてください」
その笑みは人の心の底を真に癒やす光のようであって、どこかまぶしかった。僕は目を背けた。この女は、何を言っているのだろうか。真意が全くつかめない。けれどすくなくともその言葉は、本心から言っているようにも聞こえた。
「そんなわけでご主人様、ぜひとも私にお世話をさせてくださいませ!」
僕はじっと彼女の目を見つめた。真意を探ろうとした。
けれど、なにも、分からなかった。
「……」
気付いたときには、僕はあきらめたように頷いていた。頭の中はまだぐるぐると回転していたが、すくなくとも今この不思議をどうこうできる気はしなかった。お姫様を既にここで暮らさせている以上、メイドだけを断る理由もとくになかったというのもそうだけれど、不思議の手がかりであるこのメイドをみすみす手放すような真似は非合理的だと思っていた。本当に、いったい僕の周囲ではなにが起こっているのだろう……。
疑問と不思議だけが、増えていくのであった。