表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホタルがその身を焦がすまで  作者: あるてぃめっと☆るいるい
B-1
4/19

【3】 初雪

 彼女が死んだ、との連絡を私が受けたのは、ちょうど初雪が降った日のことだった。

 その日は雪だというのに変に暖かかったのをよく覚えている。どことなく異様な空気が、朝から肌をなでていた。

 最初の連絡は本社の先輩からで、朝食を食べ終えた時だった。北海道へ長期の出張にきていた私は、すぐさま先輩の手配してくれた飛行機に乗り込んで、羽田空港へと向かった。空港から電車に乗って二時間弱の後、隣県の駅で降りてタクシーをひろって運転手を急かし、指定された警察署へと転がるように駆け込んだのは日が暮れてからだったと記憶している。

 工事現場での事故、とのことだった。警察署の遺体安置所には彼女を含め三人の遺体が置かれ、それぞれがおなじく、押しつぶされたかのような姿をしていた。一目見ただけですでに生のないことが分かる状態は、私の抱いていた一縷(いちる)の望み、などというものをいともあっさりと砕いて散らした。

 私と彼女は結婚を約束した仲だった。年開けには結婚式をしよう、というところまで話が進んでいた。各々の両親にも挨拶は済んでいたし、拒むものは誰も居なかった。障害となりそうなものも大してなくて、十分に順調に事は進んでいた。ただ一つ不安であったのがお金で、残念ながら、結婚式の資金が我々には少し、足りなかった。思ったよりも結婚式の費用は高く、貯蓄では全てをまかなえない。とはいえ、頑張ればなんとでもなる程度ではあったのだ。両親から借りることもできた。不安なだけで、やはり障害ではなかった。

 けれど。彼女は結婚式の資金を稼ぐために働きたがった。二人でお金を出したいと言った。私にだけ負担を背負わせるのはよくないと。彼女は昔からそういう女だった。私は彼女のそういうところも好きだったので、最初は特に何も口をださなかった。彼女は手際よく時給の良い仕事を探した。そうして、さる山中にて行われる住み込みでの建設工事のバイトを見つけた。

 住み込みの仕事で、しかも山中での工事となると、さすがに私も不安であった。しかしただのバイト。当然、危険な仕事はないと説明も受けていた。彼女は乗り気であった。だから仕方なく、私はそれを承諾した。北海道の出張に私がかり出されることが決まっていたことも、それを後押ししていた。

 事故はその工事現場で起こった。

 組み立てた足場の崩落。それ自体は珍しいことではない。どこででも起こりうる事故だった。テレビや新聞で時たま目にすれば「大変だなあ」とつぶやいて、翌日には忘れている。その程度の、ありきたりな事故だった。それに自分の大切な人間が巻き込まれたというだけのことで。

 彼女の遺体を見たとき、これはとてもベタなシナリオだなあと、泣いている自分とは反対側で、冷静に腕を組んでいた私は思った。婚約者を事故で亡くす悲劇。今時三流の映画だってもう少しひねったネタを持ってくる。だけれど現実はいともあっさりと人を殺し、最初から凝ったシナリオなど用意するつもりはないようで、ただ事実だけを提示した。現実は小説より奇なりなどというのは、ごく一部の例にしかすぎない。現実はいつだって凡庸だ。

 悲しみや悔しさというものを、私は人並みに強く抱いた。私にとって、それは一生に一度あるかないかという感情であった。私は元々、あまり激情を心に抱くような人間ではなかった。彼女に恋をし、初めて抱いた夜だって、私は激情に身を委ねることはなかったくらいだ。

 だから私はこの初めての激情に頭を痛めた。理性より感情が優先されることに驚きを覚えながら、自分が強く深く動揺していることを悟った。頭がいつものように理性的に回らないことに、恐怖すら覚えた。どうにか心を落ち着けなければ、と思った。

 しかし、私は結局その感情をどうすることもできなかった。

 悲しみや悔しさは代替する感情で上書きすることで和らげられることくらい知っていた。もっとも手っ取り早いのは、憎しみや怒りに変えることだということも知っていた。

 けれど残念ながら私には、恨む相手がいなかった。

 労災事故である。一般的には、その雇用主を恨み相手にでもするだろうか。けれど今回の場合、雇用主である鏑木(かぶらぎ)工業なる企業を恨むことは、少々お門が違った。

 事故が起こったのは、工事の終わった後の夜であったのだ。仮に管理が雑だったとしても、そもそもその時間に工事現場に居たことが、おかしい、という時間の出来事であった。危険だから近づくな、という指示もあったことが分かっている。事件の詳細は警察が捜査を行い、後に足場の固定が緩かったための崩落と実際に判明したが、何故彼女らがその時間に工事現場付近にいたのかについては、結局わからずじまいだった。その場にいた全員が、何の因果か、一人残らず、死んでいたからだった。

 ともかく、そうした事実がある以上、鏑木工業だけが悪いというわけでは決してなかった。むしろ、注意不足だったのは、彼女や、一緒にいた同じ仲間なのである。

 その上、その鏑木工業が非常に優良な企業であったということも私の心に追い打ちを掛けていた。彼らは、こちらが見ていていたたまれなくなるくらい、ひたすらに謝り続けた。彼らは小さな企業であったから、この事故は倒産か存続か、社長である鏑木さんにとっては生きるか死ぬか、というレベルの危機的事態であった。当然、必死だった。

 到底恨むことの出来る相手ではなかった。彼らの誠心誠意全力の謝罪は、最近の企業にしては珍しいほどに誠実な対応姿勢であった。それは関係者に情状酌量の余地を与えたし、世間の同情すら買うほどで、これ以上ないくらい、正しいあり方だった。

 けれどその正しさは、私の心にはむなしさを植え付けるだけだった。

 私は項垂れた。恨む相手がいないことが、これほどまでに辛いこととは思わなかった。どうしようもなかった。私は自分のことを常に感情の制御できる人間だと思っていたけれど、悲しみをどこへもぶつけられないこのやるせなさだけはどうしようもなかった。感情的な人間だったらどれほどよかっただろう。この気持ちを無理矢理にでも発散させることができれば、どれほど気は楽だっただろう。鏑木工業が傲慢な態度を取ってくれるというのでもよかった。そうであれば私も気兼ねなく矛先を向けられるはずだった。

 しかし自分が理を重んじる人間だったからこそ、鏑木工業を、もしくはそこにいた人間達を、沸き立つ感情の矛先に据えることができなかった。不幸な事故だった。私はただただ、悲しむことしかできなかった。増え続ける負の感情は何処へも吐き出されず、私の心の底に沈殿していった。先輩も上司も気遣ってはくれたけれど、私が仕事のできない状態になるのにそう時間はかからなかった。

 私はしばらくの間、休暇をとることとなった。家の中でただ一人、じっとしていた。悶々とした感情だけが、ささめ雪のように静かに胸の裡に舞っていた。ときおり風が吹くようだった。

『大丈夫か、生きてるか?』

『死ぬなよ』

 そんな先輩からの留守電が、時々入っていた。私は一度も電話にはでなかった。

 目を閉じて、己の裡側を、私はじっと眺めていた。

 雪はただ己のあるがままあるように、音も立てず、ゆっくりと、ただただひたすらに降っていた。

 降り止む気配はなかった。

 それらが着実に積もっていく様が、ただひたすらに見えていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ