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ホタルがその身を焦がすまで  作者: あるてぃめっと☆るいるい
A-1
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【2】 綾目彩花

「マスター」と声を掛けられたのは日付が変わってしばらく経った頃だろうか。

「やあ」

 と僕は答える。声を掛けてきた娘は、勝手知ったる風で、カウンターの席に座る。

「最近見なかったね」

「学校の試験だったんだよねー。昨日終わって、今日からしばらくひーまー」

「それはおつかれさま」

 彼女の名前は綾目彩花(あやめあやか)。現在華の女子大生である彼女は、僕の歳の離れた幼馴染みである。大学が近くにあるようで、普段は月に何度もこの店に通ってくれるお得意様でもあった。

「じゃあ、疲れが吹き飛ぶのがいいかな」

「ああうん、そういうのもいいんだけどさ」彩花は僕のちょうど後ろにあった壁のあたりを指さした。「作ったんでしょ? オリジナル」

 振り返ると、先日僕がつくったオリジナルカクテルの告知が貼り付けてあった。僕は頷いた。

「どんなの? 飲みたい」

「彩花にはちょっと度数高いよ。酒弱いでしょ」

「大丈夫だって大丈夫! 一杯くらいなら!」

「仕方ないなあ」度数が高いとはいえ、ほんのすこしである。翌日に響くほどではない。

 僕はさっとグラスを指で挟むと、氷を入れた。材料を棚から取り出す。氷を少し回してグラスを冷やす。氷を取り出す。シェイカーに材料を入れる。僕は格好をつけたパフォーマンス的なシェイクというのが得意ではないので、学んだとおり忠実にシェイカーを振った。

 彩花はそれをじっと見ていた。前にその姿が好きと言われたことがあるので、彼女の前で振るのは、少し緊張する。

「はい、どうぞ」

 出来た酒をグラスに注ぎ、彼女の前に差し出す。

「ありがと」彩花は満足げに笑った。「色はカルーアミルクっぽい? 甘い系?」

「カルーアミルクとは全然違うけど、甘いね。デザートっぽい感じ」

「何入ってるのこれ」

「企業秘密。ベースはジン」

「ふーん、まあ飲んでみよう」

 彼女の唇がグラスに触れる。どことなく色気があるように見えた。

「うん、甘い。悪くないね。……ん?」目をきょろきょろさせながら、彩花はグラスを持ち上げる。「なんか、変な感じする」

「ちょっと独特な味かもね」

 おそるおそる、といった体で、もう一口。

「うん、独特。後から来る感じのが。……なにこれ、面白い。普通のお酒じゃないっぽい」

「普通だよ。他にないものを入れてるってだけで」

「他にないものって?」

「秘密」

「秘密かー。何入ってるんだろ」

 くいくいと指先でグラスを弄びながら、確かめるようにちょこちょこと口を付けてみせる。

「これ、名前は?」

「実はまだ決めてないんだよね」

「ありゃ、そうなんだ」

 お客さんが皆「オリジナルので」と言うのはつまりそういうことである。名前がないのだ。候補はあるのだけれど、なんとなく、迷っている。なんとなく。なんとなく。

「あんまり早く飲んじゃだめだよ。それ、回るの早いから」

「うん、大丈夫大丈夫」

 言いながら、彼女は二口三口と口を付ける。飲みやすいお酒だからそれも仕方ないのだけれど。なにかつまみを出した方がよさそうかな、と棚を開けたところで、

「マスター! おきたー!」

 と奥のテーブルから。3、4時間ほど前に一人で来て、ヤケ酒の体で勢いよく飲んでからそのまま寝入ってしまった常連の女性客であった。小さいビルとはいえワンフロアを使っているだけあって、客は少なくとも広さだけはあった。だから寝てしまったとしても、テーブル席のソファをベッド代わりにすることは全く問題が無かった。最近常連客の中ではそれが半ば定番になりかけていて、たまにそのまま朝まで寝てから、仕事に出る人もいたりする。

「はいはい」

 僕は小皿にピーナッツを少し盛りつけて彩花に差し出す。

「ちょっと行ってくる」

「はーい」

 ふらふらのお客さんに肩を貸して店を出て、階段を半ばおぶるようにして降り、ビルの前でその背を見送った。千鳥足で若干不安ではあるけれど、家はそう遠くないと聞いているし、無事に帰れはするだろう。この辺は治安も悪くない。そうして店内へと戻ると、今度は彩花が、カウンターにつっぷして寝ていた。グラスは空になっていた。僕の居なくなった隙に一気に飲んだのだろうか。ピーナッツには全く手が付けられていなかったところを見ると、どうもその一杯だけで落ちてしまったらしい。弱すぎる。

「お嬢さん寝ちゃってますねー」と、テーブル席で飲んでいたサラリーマンが数人。「ありゃぐいぐい飲めちゃいますからなー」「俺ぁ甘いのはあんま好きくねーなー」「最近は甘いのが好きな男がモテるらしいですよ」「まじかよ、飲むか」がはははは。「あ、すんません、お勘定で」

 どうやら彼らも上がりらしい。

「毎度ー」

 お勘定を済ませてそれも見送ると、店内には、僕と彼女だけとなった。

 いそいそと、片付けをする。テーブルをクリアにして、グラスを洗って、つまみの皿を洗って、光るくらい綺麗に拭いてから、棚にしまう。終えて、カウンターで一息。

 ちらと、腕を枕にして突っ伏している彩花の顔を打ち見る。警戒心もなにもない、気の抜けた顔だった。口は半開きで、枕代わりの腕に額を載せている。

「寝てると、子供の時と変わらんな」

 僕は一人苦笑した。

 お酒も飲めるようになった。色気も出すようになった。こうして夜に一人で出かけられる。けれどまだまだ二十を過ぎたばかり。寝顔には未だ無邪気だったころの幼い面影を残している。

 ふと、懐かしい時代の思い出がよぎった。

 僕らが野山を駆けていた頃。遊び疲れて軒先でそのまま眠ってしまったような頃。そんな時代もあった。田舎だった。今思えば、あそこは良い場所だった。何もなかったけれど、空気は美味かったし、水は美味かったし、都会よりも大分、暖かかった気がする。人の気持ちが感じられた気がする。都会は冷たい。

 けれど僕は大学に入ると同時に上京した。あの場所に長居をする意味は、当時の僕には感じられなかった。

『僕は、何者かになりたいんだ』

 山の上で、少年の頃の僕はそんなことを言った。幼かった彩花は、よく分かってもいないくせに『すごいね』と笑った。

 何者になりたいのか、その時の僕には分からなかった。とにかく何者かになりたくて、そう言った。何者でもない今が、とても、とても嫌だったのだ。暢気に時間が流れるあの町の空気が、嫌だったのだ。まるで世界に取り残されているかのようで。

 このまま生きていたら、何者にもなれない。そう思った。それが怖かった。だから僕は上京した。

「んん……」

 彩花が喉をならした。まだ起きる気配はない。彼女がここで眠るのは、珍しいことではなかった。来る度ということはないけれど、月に一度くらいは寝ているだろうか。彼女も上京してきて、一人暮らしだ。彼女の実家、というよりお父さんが門限に厳しい人であったけれど、今ではいつ帰ろうと、いつ帰るまいと、彼女にとっては関係ない。都会での一人暮らし。それはとても有り体なのに、なぜかとても、疲れる。理由は分からない。便利なのに、ただなんとなく、疲れる。田舎者だからかもしれない。こうしてここで寝てしまうのは、彼女も疲れているからかな、と僕は思った。だから僕は、彼女がいくら寝ていようとも、起こすつもりはなかった。

 そういえば、前に彩花は、ここは知り合いがいるから安心できると言っていた。その気持ちも、僕にはよく分かった。

「……」

 少しぼーっとしていた。この時間になると、お客さんはもうほとんど来ない。

 そういえば、お姫様はどうしているだろう。不意に思った。特段理由があったわけではないが、なんとなく思い出した。早く帰ってきて欲しいと言われていることもあるし、少し様子を見に行ってみようか。どうせ暇なのだから。

 彩花が眠っているので、僕は念のため外から人が入ってこないように入口の扉の鍵を閉めて、裏口から部屋へと戻った。

「あれ」

 が、部屋にお姫様はいなかった。電気を付けてよく見てみるが、リビングにもトイレにも寝室にもいない。

 はて、これはどうしたことだ。と思った。……思ったけれど、その反面で安心している自分がいた。

 お姫様がいない。それはなんと常識的なことだろう。お姫様が部屋にいる、その状態が元よりおかしかったのだ。いない今が正しいのだ。どこから現れたのかも分からないのに、どこへ行ったかなんて分かるわけもない。考えても無駄だ。考える必要もない。ならばこれでいいのだ。

 僕は一人頷くと、部屋の電気を消し、店へと戻った。彩花はまだ眠っていた。

「……?」

 何かおかしいものが目に入った。彩花の横に、人の影。人の影?「わっ」

「遅すぎです」

 それはお姫様だった。

「なんだ、いたのか」

「なんだとはなんです」

「いや、部屋に確認しに行ったら、いなかったから」

「王子様が帰ってきた時、入れ違いで部屋を出てみました。暇だったので」

 なんだ、そうだったのか、と僕は落胆する。王子様と呼ばれたのもスルーしてしまうくらいには。

「だめだって、店に来ちゃあ」

「私をずっと一人きりにするからです」

 時計を見る。午前三時。

「店は午前五時までなんだ。あと二時間ある」

「ぶう」とお姫様は頬を膨らました。

 どうしたものかな、と僕は頭を掻いた。あまり彼女を店に連れてきたくはなかった。とはいえ今はどうせ彩花しかいない。そう大きな問題でもなかろう。ということで、僕はお姫様をカウンターの席に座らせる。

「眠くないのか」

「ちょっと寝てました。でも今起きました。お目々ぱっちりです」

「そうか」僕はグラスにオレンジジュースをいれて、差し出した。

「それ飲んだら、部屋に戻ってろ。な?」

「一人はつまらないです」

「しかし僕もこれが仕事だ、仕方ないだろう」

「なら私も働きます」

「それはいかんのだよ、法律がダメだって言ってるんだ」

 こうした店での未成年労働は禁じられている。もちろん口実だけれど。またお姫様は頬を膨らまして、オレンジジュースに口をつけた。

「でも、帰ってきたら、寝てしまうのでしょう。そして起きたらまたお仕事なのでしょう」

「ううむ、たしかにそうなるけれども」

 仕事が終わればすぐにでも寝たくなる。開店が午後六時で、閉店が午前五時。しかもそれを一人で毎日回しているのだから、仕方ないといえば仕方なかった。

「やっぱり悪いお人。私を強引に呼んだというのに、あとは放っておくだなんて。その上、知らぬ存ぜぬを貫こうとするのだから」

「放っておくことは多少なり悪いかなとも思っているが、本当に君のことは知らないし、存じないんだよ」

「ほら、悪いお人」

 お姫様は目を細めて流し目気味に僕をみやった。そう言われても、と僕は肩をすくめるしかなかった。

 自分の記憶がおかしくでもなったのだろうか、と僕は首をかしげる。ここまで言われると、むしろ自分自身が疑わしくなってくるというものだった。記憶のない日があるだろうか、と考えてみる。昨日は、一昨日は。とさかのぼっていく。

 少なくとも、ここ最近のことはよく覚えていた。過去のことも、一般的な範囲で思い出せる。いくら人の記憶というものが曖昧だとはいえ、特別なことがあればその日のことくらいは覚えているというもので、例えば昨日、お姫様が現れたことは、一年経っても僕は忘れないでいることだろう。

 だというのに僕は、彼女に関する記憶が全く存在しない。彼女は間違いなく、昨日唐突に僕の目の前に現れた。もちろん記憶喪失になった覚えもないし、頭を打った覚えもない。念のため頭を触ってみるが傷跡なんて一つもない。病院にだってそもそも最近はお世話になっていない。

 それはどういうことか。考えるまでもない。

「君は何かを勘違いしているんじゃないかな。もしくは、嘘をついている」

 僕は何もやっていない。

「まあひどい。貴方が望まれるならば別ですけれど、そうでなければ私は嘘なんてつきません」

 つん、とお姫様はそっぽを向いた。

「いいですけれどね。私、貴方しか頼る人のいない身ですし。なんと言われようと、私は我慢するのです」

 ぐ、と僕はたじろいだ。またも言い方がずるい。これでは僕が悪人だ。

 そこで「うにゃあ」と声がした。彩花が、顔を上げていた。寝ぼけ眼をこすりながら、まだ完全に起ききっていないのか、気の抜けた顔で僕を見て、そしてお姫様を見た。

「ん……?」

 おお神よ。と思った。まさか起きてしまうとは。いやそれも当然か。彩花の真ん前で、普通に会話をしていたのだから。そりゃあどんなに快眠だったって、起きてしまうのも避けられまい。みるみる内に、彩花の表情はまどろみから覚醒へと変わり、普通の顔になるまえにそのまま驚きの顔へ変化して、目線だけを僕に顔を向けた。

「この子、誰?」

 至極、至極当然の質問であった。

「僕が聞きたい」

「はあ?」何を言ってるんだこいつは、という顔をされた。最もな反応である。

「説明をすると中々難しいのだけど」

 どう説明しようかな、と考えた隙に、お姫様、前にでる。

「私は彼のお姫様です。彼は、私の王子様で」「ウェイト、ウェイトだマイプリンセス」「何です、ちょっと口をふさがないでくださいまし」

 お姫様はふがふがと反抗する。僕は彩花の顔色を伺った。ああ、伺うまでもなかった。彩花はこれでもかというくらい眉を寄せて、まるで変質者を見るかのようなさげすんだ目で僕をにらみつけていた。

「違うんだ、彩花。これは違う」

「どう違うの」

「いいか、説明するから、よく聞いてくれ」

 僕は軽く咳払いをして仕切り直す。彩花は、言い分くらい聞いてやろうじゃないの、とでも言うかのように腕を組んだ。

「彼女は、突然僕の部屋に現れたんだ。いいか、突然だ。そして、自分のことを僕のお姫様だと言っている。しかし僕は彼女と面識がない。それなのに、その上、僕が呼んだ、などとのたまうのだ。な? おかしいだろ?」

 少し早口になってしまった。若干の焦りがあったことはいなめない。彩花はしばし僕の目をみつめた。

「おかしいのはマスター。いいえ、ユウちゃん。貴方の頭の中ね」それはどこか優しげな声だった。ユウちゃんとは、僕のことである。「貴方は誘拐をしたのね。そしてそれを、自分で認められていないのだわ」

 あちゃー、と僕は頭を抱える。たしかに、たしかに言われてみればその線もあるかもしれない。この状況だけを見れば、そう思わないこともないかもしれない。僕の頭を疑うのも、自分自身ですら疑いかけていたというくらいだから仕方ない。いやこれは僕の失態だ。説明があまりにそのまますぎたんだ。もうすこしオブラートに包んで、説明するべきだったのだろう。ちょっと事実とそれてでも、もうちょっと分かりやすい説明に変えるべきだったのだ。

 軌道を修正し――

「そうですね、誘拐と言えば、誘拐かもしれません」

――ようとしたのだが、ここでお姫様、あろうことか同意をしてみせる。「は!?」

「ほら、ね」

 彩花はそれみたことかとばかりにため息をついた。まるで嘘をついた子供を諭すかのような態度である。

「私の視力2.0の目はごまかせないわ」この場合視力は関係なさそうだった。「ねえお姫様、貴方はどこの娘?」

「どこの娘……と言われると、なんとも、分かりません」

「分からない……? なるほど、ユウちゃん、貴方畜生ね。記憶までぶっとばす薬を使ったわけ」

 どうしてそうなった。

「そんなわけないだろ。僕は誘拐なんてしていない。いいかい、僕が仮に誘拐犯だったとしたら、もっと上手くやる。それこそ家で縛って外にはださん。だが見ろ、彼女は自由の身だ。このまま走って警察にでも十分いける。なんなら今行ってきても良いぞ。むしろ大助かりだ」

「別に警察になんて行きません。私は貴方に呼ばれて来ました。そして私はここに居たいと思ってここに居ます」

「ユウちゃん、調教までしたの。そういえば貴方のことを王子様とまで言っているのよね。趣味悪いわ」

「ややこしくしおって……っ」僕は頭を抱えるより他にない。

「調教するにしたってそれこそもっと上手くやるよ僕は。まず僕の言うことを聞いてくれるようにするところから始める! こんなに勝手に動くようにはしない」

「それも、そうか」ふむ、と彩花は納得したような顔をした。「ユウちゃんならそんなミスはしないか」

 僕の主張は認められたが、なぜだかとても悲しくなった。

「じゃあ何? どういうことなの?」

「だから……」

 僕は最初と同じ説明をする。今度はもっと丁寧に。かくかくしかじか。

「なるほど、訳が分からないね」

「そう。訳が分からない」

 やっと言葉が通じたようだった。僕はカウンターに両手をついて、項垂れた。疲れた。

「貴方は一体何者なの?」

「ですから、私はお姫様です」

「お姫様、か」

 昨日僕がやったようなやりとりだった。さっき説明したのに。と少し思った。彩花は唇を指先でとんとんと叩きながら、考えるような姿勢。「うーん」と唸りながら、店内に視線を泳がせる。どうせ考えたって答えがでるわけないのに、と僕は肩をすくめた。

 お姫様のオレンジジュースが飲み終わっていたので、僕はそれを下げて、片付けた。

「そうだ、言うのを忘れていた。僕のことを王子様と呼ぶのはやめよう。恥ずかしい」

「ではなんと呼びますか? ユウちゃん? これはあまりしっくりきませんね」

「変なものでなければ、僕は別に何でも良いけれど」

「じゃあ、マスター、で。どうですか」

 それなら呼ばれ慣れている。僕は頷き、ほっと胸をなで下ろす。変なところに落ち着かなくてよかった。

 僕は手近なグラスに水道水を汲んで、飲んだ。疲れて喉が乾いていた。

「どうした?」

 一気に水を飲み干したところで、彩花が首をかしげているに気が付いた。さきほどのような冗談じみたそれではなく、どちらかというと、何かに気付いたかのような、意味ありげな表情だった。

「ううん。何でも無い」

 何でも無いという顔ではなかった。

「そうか」

 しかし僕は特に突っ込まず、頷くだけにとどめた。彩花は頭の悪い娘ではないけれど、考えるのに少々時間がかかることもあった。たぶん何かに気づきはしたが、口にするほどの確信はない、という状況であろうことは見て取れた。そういう時は、とりあえず口を挟まないことが一番だった。彼女は考えがまとまれば、自ずから話してくれる。

「お姫ちゃんは」どうやら彩花はお姫ちゃんと呼ぶことにしたらしい。「ここに住むの?」

「はい。そのつもりです。しばらくは」

「そっか」彩花はにっこりと笑う。「変なことしちゃだめだよ、マスター」

「しないよ」

 年端もいかない娘に手を出すほど、落ちぶれちゃあいませんよ。

「お姫ちゃんもあんまりマスターのこと困らせないようにね」

「困らせるつもりはありません」

 既に困っているような気がするなあ、と小さく笑う。

「良い子」彩花は代金をカウンターに置くと、バッグを肩に掛けて立ち上がった。「それじゃあ、私はこれでお暇するね。後は家で寝るよ」

「そうか、わかった」

「それじゃあねー!」

 彩花は元気に、店を出て行った。お姫様は手を振っていた。

 扉が開いたときに、その隙間から朝日が見えた。夏の朝は早いなあ、と思いながら、ゆっくりと扉がしまるのを見届けて、かけてあった鈴がしゃらんと小さく音を鳴らすのを聞く。カウンターから僕はでる。もうさすがにお客も来ないだろう。今日は店じまいだ。

 お姫様が、僕の顔を見ていた。

「ま、仲良くやろうか。お姫様」

 僕は彼女の頭にぽんとまた手を置いた。

 色々と不思議ではあるのだけれど。

「はい」

 害もあるわけでなし。

 お姫様の、この美しい笑顔が見られるのであれば、それはそれで、と、僕は思った。

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