【1】 お姫様
夏の夜だった。
窓越しに見上げた都会の空には力強い入道雲があった。雲の隙間に月明かりは見えたが、星はあまり見えなかった。ジュワジュワと恋に焦がれて休みなく鳴くセミの声だけがいやに大きく聞こえていた。
おもむろに僕は時計に目をやった。部屋の電気を消していたから若干見えにくくはあったけれど、日付がとっくに変わっていたことはすぐに分かった。いつのまに、とは思ったけれど、眠らなければ、とは思わなかった。僕はついさっき起きたばかりだった。
生活のサイクルが崩れているわけではなかった。普段、この時間、僕は仕事をしていた。半年前に開店した、自分の店――バーのカウンターに立っている。接客をしていれば御の字。しかし実際には客足も芳しいものではないので、拭き終わったグラスを無意味にまた拭きながら、無聊の時間を過ごしていることも、まあ、ある。
今日は休業日であった。日もどっぷり落ちた頃に起き出して、のそのそと二十四時間やっているスーパーへと買い出しに出かけて、帰ってきてからは特にやることもなく、新しいカクテルでも試してみるかとシェイカーを取り出してはみるものの、なんとなく思った通り大したものも出来ず、仕方が無いので慣れ親しんだ酒で身体を酔わし、窓際に置いた肘掛け椅子から、しばらく、空を見上げて、蝉の鳴き声に耳を澄ましていた。
そうしている内に時間はいつのまにか過ぎてしまった。正確に何時からそうしていたのかはよく覚えていない。少なくとも、ゆっくりと飲んでいたつもりなのに、ボトルが二本も空いていることだけは分かった。子供の頃に、アリの巣をじっとみているだけで朝から晩まで過ごせてしまった時のような感覚を、少しだけ思い出した。空のボトルが目について、新しいのを取ってこよう、と僕はキッチンへと向かった。
キッチンは綺麗に整頓されていた。僕は何事も綺麗に整理しておかないと気の済まない性格だった。冷蔵庫の中から適当にボトルを取り出して、グラスに注ぐ。銘柄も見ないままあおって、「ああこれはこの前やっと完成した、自分のオリジナルじゃないか」と気が付いた。あまり作り置きのできているものではないので、それは一杯だけで冷蔵庫にしまい、今度は安酒のそれと分かるのを一本取り出して、また窓際の肘掛け椅子へと向かった。
唐突に足がよろけた。眩暈がしたようだった。転ばないように、なんとか足を踏ん張って、耐えた。グラスを割らずに済んでほっとした。
酔っ払っているのだろうか。慣れた酒だから大丈夫かとは思ったが、元々強くはないのだからボトル二本はさすがに厳しいか。と思って顔を上げて、僕はそのまま硬直した。
「……?」
部屋にある光は月明かりのみ。そのか細く白んだ明かりに照らされて、およそこの部屋に似つかわしくない何かが浮かび上がる。
それはそこにいた。今現れたというより、ずっとそこにいたかのようだった。
「はじめ、まして」
とかけてきた声は、風鈴の音のごとく清らかであった。
僕は反射的に軽く会釈をしたものの、そのままの姿勢で首をかしげた。
「君は、誰」
僕はそう聞いた。そう聞くしかなかった。
「私は」と、そこに立った一人の娘は口を開いた。「私は、貴方のお姫様」
一瞬、時が止まったかと思われた。けれど彼女がさらに続けて「貴方は私の王子様」と言ったので、
「とうとう僕の頭もイカれてしまったか!」
と、内心で叫んだ。声にはしなかった。
部屋の電気を付けると、今度こそはっきりと彼女の姿があらわになった。
見た目の年齢は、十四か、十五か。もう少し若いかもしれない。艶やかな紅いドレスを身に纏い、美しい顔立ちはどこか異国風。伸びた睫と大きな瞳は力強く、長くつややかな髪は絹のよう。おそろしくこの部屋にそぐわない。
「で、君は誰だ」
僕は片手にグラスをぷらぷらと持ちながら、ため息混じりにソファへと座った。
「私は貴方のお姫様です」
お姫様なるその娘は、同じ言葉を繰り返す。僕はがっくりと肩を落とした。
「聞き間違いではなかったか……。やっぱり、僕の頭はおかしくなってしまったんだな」
「何をおっしゃいますか。正真正銘、貴方は私の王子様で、私は貴方のお姫様。紛うことなど何一つありません」
「僕は頭が痛くなってきたよ。お酒のせいではなく」
「冷やしますか?」
僕は自嘲気味に笑った。顔を洗ってみたり、目をこすってみたり、などという一連の流れは既に試していた。が、彼女は依然としてそこにいた。
「何者だ、君は」
「ですから私は貴方のお姫様です。何度言わせますか」
もうこの質問に意味はなさそうだった。僕は額をとんとんと叩いた。困ったときの僕の癖だった。
「なら、君はどうしてここにいるのかな」
これならまた別の答えがくるだろう、と思ったのだけれど
「貴方が呼んだのではありませんか」
あまりに予想外の答えに、面食らう。即答だった。
「僕が呼んだ……? まさか。そんな覚えはない」
「失礼なお人。あんなに私を求めていたのに」
ますますわけがわからなかった。頭がキリキリと痛んだ。僕はグラスを、ソファ脇に備えてある小さな机の上に置いた。
「なら、聞くけど。僕はいつ君を呼んだのだ」
「いつ? ずっとです。ずっと呼んでいました」
「ずっと? まさか。僕は君を知らないのに」
「いいえ貴方は私を知っています」
「知らないよ。どこから入り込んだんだ」
「私はずっとここに」
僕はこめかみに手を当ててから、腕を組んで、足も組んだ。
「やはり僕の頭が」「違います。そんなことはありません」彼女は僕の言葉を阻止するように割り込んできた。
「なぜ信じてくださいませんか」
「信じるも何も。あまりに現実味がないだろ。この僕の部屋に、君は突然現れた。それだけでも不自然なのに、しかもこれがお姫様と来た。これを非現実でなくて何と言う」
「ですが私はここにいます。貴方と会話をしています。これは現実です」
「だから僕の頭がおかしくなったと言っている」
僕は小さく、ため息をついた。
「最近疲れていたから、きっとそのせいだ」
半年前に自分の店を持ってから、今まで、僕はずっと一人でやってきた。頑張ってきたと胸をはって言える。しかし、立地のせいか宣伝不足のせいか、どうしても客足だけは伸びなかった。少しばかりの常連客は、僕の店を最近流行の言葉を使って「隠れ家のようで良い」などと暢気に言いはするのだが、それは同時に、僕の首を絞めていた。人が来なければ、客商売は成り立たない。あまりにシンプルな真理。隠れ家を売りにするのは良いとして、しかし本当に隠れ家になってしまっていたら商売として破綻する。
僕はグラスに口を付ける。最初は我慢だって出来た。しかし半年それが続けば、たった半年なのに、精神は段々と削られていく。分かっている。なにをするにせよ、商売における最初の一年は忍耐の年。分かっている。だから今だって耐えている。明日も僕は店を開く。けれど気持ちが疲れてしまうことだけはどうしようもなかった。
だから、きっとこれは、彼女は、そんな僕の精神的な弱みが見せた、幻影だ。と、思った。
「私は……ここにいます……」
お姫様を名乗るその娘は、悲しげに顔を俯かせた。僕は眉をひそめて、顎を軽く掻いた。
「そう、しょぼくれないでくれ。僕が悪いことをしたみたいじゃないか」
「貴方は、悪い人です」
悪い人か。と、苦笑する。
「貴方が信じてくれないから、私は悲しくて。……今にも泣きそうです」
「泣かれるのは困るな」
「泣きます」
それは脅しのつもりなのだろうか。可愛いらしい脅しもあったものである。
「まあなんだ、突っ立っているのも疲れる。座りなよ」
しかし僕はおそらくそれに負けた。年端もいかぬ少女と会話をするにしては、すこしムキになりすぎたかもしれない。
お姫様は渋々ソファまでやってくると、ちょこんと隣に座った。少しだけ間が空いていた。
「まあ、そうだな。……悪かった。すくなくともいま、たしかに僕は君と話をしている。今の君は、現実だ」
お姫様の顔がぱっと明るくなった。
「しかし僕も、それをすんなり受け入れられるほど、もう素直な頭は持ってないんだよ。大人になってしまったせいでね」
お姫様はしょんぼりと俯いた。
「えーと。だから、なんだ。悪かった。もう頭がおかしくなったとか言わないから。ともかく泣いたりはしないでくれよ」
「本当ですか? では私のことを信じてくれますか?」
「それは」さすがに即答も出来ず、一瞬言葉をつかえさせると、お姫様、しょんぼり。
「わかった、わかったよ。とりあえず、そういうことにするから」
僕は両手を挙げて、降参のポーズ。疲れていたからか、酒の力も手伝ったからか、本当はもう、どうでも良いような気になっていた。
「そんな顔しないでくれよ、お姫様」
お姫様は少し上目遣いで、軽く咎めるように「いーっ」とやった。
翌朝――ではなく翌昼過ぎ。
気付かぬ内に寝ていたようで、その日僕はベッドではなく、ソファの上で起き上がった。寝間着ですらないところを見ると、昨日の自分はずいぶん気が抜けていたらしい。休日だったから仕方ないか。首の辺りがすこし痛い。ソファなんかで寝ていたから、寝違えたようだった。
「おはようございます」
聞き知らぬ声に、僕は驚いた。
「わあっ」驚いた拍子に、ソファから転げ落ちた。僕は目をぱちくりとさせて見上げる。そこには一人の娘が立っていた。
「お姫様」
「はい、お姫様です」
「嘘だろ」と僕。「何がです?」
「夢だと思っていた。いやまて、もしかして今も夢なのでは」
「夢ではないと思いますよ」
お姫様のことなど構わず、僕はすたすた歩いて窓際へ。閉じた窓を全開にして顔を出してみる。まばらな人通り。自動車と自転車と電車の走る音。密集した家と雑居ビル。排気ガスの混じった澄み切らない空気。木なり草なりはよく探せば細々とあるだけで、見渡す限りどこもかしこもコンクリートとコンクリート。それは都会の隅の昼間の姿。いつもの光景。
もう一度振り返る。お姫様が立っている。僕は大きくため息をついて、
「わかった、わかった。もうそれでいい」
あきらめた。
僕は手を軽く握って、額をこんこんと叩いた。
もう何を言っても仕方がない。お姫様はここにいる。それが今、紛れもなく事実だったのだ。夢だの、幻想だの、僕の頭がおかしくなっただのというのはもう昨日ので十分だ。もういい。もういいんだ。抗う事はもうやめよう。僕は静かに、いつもの通りに慎ましやかに、生きるのだ。ご飯を食べよう。そうだご飯だ。僕はキッチンへ向かう。
「あの、ご飯、できていますが」
「は?」
こけそうになった。
「なんだって?」
「ご飯、つくりました。簡単ですが」
テーブルを見やる。たしかに準備が整っていた。
こいつは参ったぜ、と思った。
ベーコンにサラダにご飯と適当なつまみで昼食を終えた頃には、頭の中は疑問で一杯だった。
彼女は幻ではないのか。しかし幻想や幻覚の類いに昼食の準備はできようか。できるわけがない。どういうことだ。そもそもここまで鮮明に会話ができてしまうとなると、もはやそういった類いの域はでているような気がする。なら彼女はいったい何者か。どこの娘か。そもそも昨日はどうやってここに現れた。玄関の鍵は閉めている。窓の鍵は開いていたかもしれないが、ここは三階で、どの窓からの侵入も考えられない。いやいや、彼女が言っていたではないか。僕が呼んだのだと。それなら話は単純だ。僕がこの部屋に入れたことになる。そんな記憶はないというに。
「どうしました?」
僕は頭を抱えていた。このお姫様を僕はどこから連れて来た。これでは本格的にファンタジー、あるいは何かのミステリー。ホラーじゃないだけまだましだった。頭を打った記憶はないのだけれど。
「あきらめたはずなのに、頭が勝手になんやかんやと騒ぎおる……」
お姫様は首をかしげた。可愛い。
「まあいい、まあいい。なあお姫様、僕が君を呼んだと言うのなら、来てくれた君には本当に申し訳ないのだが、ともかく、僕は君を帰してあげたいと思っている。どうだろう」
臭い物には蓋をしろ、とはすばらしい言葉である。細かいことは考えず、さらりと追い出してしまえばなんとでも――
「帰る場所は特にないです。強いていえば、ここです」
あえなく撃沈。我が微かな野望は霞のようにあっけなく霧散した。
「なら君はこれからどうするつもりだ。まさか僕の部屋でこのまま暮らすとでも」
お姫様、押し黙る。
「え、本当に……?」
「……それ以外の、選択肢が、私にはありません」
おーう。と、外国人のように陽気な反応をしてみせる。無反応。
「……こいつは参ったぜ」と今度は口に出して言ってみた。
そこで時計を見ると、仕事の時間が段々と迫っていた。まだ煮えきれない会話を仕方なく切り上げ、僕は風呂に入り、顔を洗って歯をみがき、服を着替えて髪を整えた。髪型はオールバックで乱れなく。バーというのは雰囲気が大事なのである。
「それじゃあ僕は、店の準備があるから、行ってくる」
「お店ですか?」
「そう。ここの下で、僕はバーをやっている」
ここは三階建ての小さなビルであった。僕が所有しているビルである。三階を住居兼店の倉庫として僕が使い、二階がくだんのバー。一階は貸し出して、コンビニとなっている。
「バー! かっこいい! ということは、バーテンダー?」
「そう。でも大したもんじゃないよ」
格好つけてそう言ったつもりはなかった。情けないけれど、現状僕のバーは、本当に大したものではなかったのだ。
自分でアイロンを掛けたシャツの上にベストを羽織り、僕は部屋を出ようとする。が、何かに引っ張られた気がした。お姫様が僕の服の裾をつまんでいた。
「ついてくるつもりか」
「私を一人にしますか」
「言い方がずるいな」肩をすくめる。「でもだめだ。お客さんに変な人だと思われたら、ただでさえ少ない客がさらに減る」
「何故変な人だとおもわれますか」
「そりゃあ……」
言いよどむ。格好もそうだ。見た目もそうだ。彼女はなんだと聞かれて、僕はどう答えれば良い。お客さんは、きっといぶかしむ。いやそれだけなら言い訳の一つや二つつくだろう。問題なのは、彼女が何者なのかも僕自身分かっていない状態で、仕事場に連れて行くこと。何が起こるか分からないリスクをみすみす背負うわけにもいかなかった。
「バーは未成年厳禁なんだよ。君、まだ大人じゃあないだろう? 今は僕の言うことを聞いて、お留守番をしててくれよ」
とりあえずの言葉をあつらえて、ぽん、とお姫様の頭に手を置いた。率直にいうと傷つけてしまうような気がして言えなかった。一人にするのが申し訳ないという気持ちも少しはあったけれど、仕方ない。お姫様はむすっと頬をふくらました。
「……わかりました。貴方が困ることは私も望むところではありません」その代わり、とお姫様は上目遣いで言った。「はやく帰ってきてください」
僕は「ありがとう、できるだけ頑張るよ」と手を振って、部屋を出たのであった。
掃除をして、椅子と机を整えて、店先に飾ってある花に水をやり、仕込みをして、開店の時間。
午後六時。
開店後すぐに客が来ることは少ないので、僕はカウンターのところへ立って、ぼうっと宙に視線を泳がす。店内は落ち着いて話が出来るように照明をギリギリまで弱くしていて、薄暗い。カウンターの付近以外はメニューも見えない程に暗いので、客がくると、そのテーブルにはキャンドルを置くことにしている。デザイナーに頼んでヴィクトリアン調を意識して派手になりすぎないようにまとめた店のデザインは、僕も気に入っていた。ところどころに置かれた調度品は僕が趣味で集めたアンティークで、一つだけ飾られた油絵は、僕が昔描いたものだった。
ここは僕の理想を集めた場所だった。
「お化けだとか言ってくれた方が、まだわかりやすいんだけどな……」
カウンターに肘をかけながらぽつりと一言、心中の言葉が漏れた。あのお姫様。お化けなのなら分かりやすい。現実的かどうかはさておき、なんとなく納得できる感はある。気がする。
「お姫様、お姫様……なあ」
ううむ、と頭をひねった。お姫様というものに、僕は一種の憧れのような感情をもっていた。昔から。何故、というところに明確な解答は持ち合わせていないのだけれど、綺麗なものや高貴なものに対して無意識に抱く敬意や羨望といった感情と同じようなものだと思う。アンティークを集めたくなる気持ちとそんなに大きくは変わらない。
「理想的な、お姫様」
彼女の姿は、その僕が想像しうる中でも、理想的なお姫様、の像だった。
「なにそれ私のことですかー?」
「うわ」と僕は飛び上がる。
「わ、うわだってうわ、お客さんなのにー!」「ひどいー!」「もっとお客さん大事にして!」
いつのまにか女性客が幾人か、店内へと入ってきていた。顔が赤らんで声の大きいところを見るに、すでにアルコールが入っているようだった。
「すみません、少し考え事をしていました」
頭をすぐに仕事のそれへと切り換える。常連客とはいかぬまでも、一人は何度か顔を見たことがある人物だった。急いで記憶を掘り起こす。こうした小さな店にとって、しかも会話によるコミュニケーションが行われる商売にとって、客のことを覚えているかどうかというのは、存続に直結する非常に重要なファクターとなる。名前はえーと、たしかヨウコさんだったかな。どこかのアパレル系の企業に勤めていると聞いた気がする。年はいくつと言っていたかな。
僕は適当なテーブル席に案内をして座らせる。今日はどうやら友達を三人も連れてきてくれたようだった。
「でなになに、お姫様って」
「独り言ですよ」
「隠語ですか。泡姫的な」「それともマスター、お姫様願望ありますか」
「ありません」
「違うかー」「残念ー」
「残念がらんでください」と会話を当たり障りなくこなしながら、メニューを差し出す。「今日はどうします」
「あそうそう、この前のオリジナルのカクテルをいっちょ」
「ほう、あれですか」
「それがすごいってんで誘われたんですよ私ら」
僕は少し驚いていた。あのカクテルが、客に受けていたということに。僕自身はアレを渾身の一作として扱っているし、美味いとも思っているけれど、オリジナルというのは大抵鉄板のそれに負けるものだから、実際のところあまり期待はしていなかった。それなのに、今日はそれが客を呼んでくれたときた。僕は喜びを隠せない。
「もちろんありますよ。今日一番のお客さんですから。皆さんそれでいいですか」
「わーい」「やったー!」「ぜひそれで!」
「かしこまりました」
そんなこんなで、今日の仕事がはじまった。