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ホタルがその身を焦がすまで  作者: あるてぃめっと☆るいるい
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18/19

【17】業火

「え?」


 ふいに天と地が入れ替わった。身体が前方にはじき飛ばされていた。

 強い衝撃が背を襲ったようで、逡巡の後に殴られたのだと気が付いた。身体が壁にぶつかって、よろけた瞬間に何かが私の手から落ちた。ライターだった。先輩がそれを拾うのが見えた。

 全身の血が、一瞬で頭へと昇った。

 私は声を出す前に、素早く立ち上がった。

 山上先輩も劣らず素早く花壇の方へと駆けだしていた。

 私は一瞬の中で、自分の甘さを恥じた。この花の脅威を知っている人間が、これを放っておくわけがなかった。甘かった。信じるべきではなかった!

「こんなもの……!!」

 先輩は走りながら、酒瓶を何本か棚から取り上げると、私が追いつく寸前に振りかぶり、花壇へとたたきつけた。ガラスのビンが破砕する甲高い音が、閉め切られた倉庫に反響する。

 砕けた欠片が飛び散り、きらきらと光を反射した。

 中の酒は雨のように花へと降り注いだ。

 何をしたいのかは、一瞬でわかった。

 私は山上先輩から奪ったアーミーナイフを取り出して、その背を切りつけた。だが浅い。屈強な身体をした先輩は、さらに飛びかかろうとした私を腕の一振りで容易くはじき飛ばした。

「調子に乗るなと、言っただろうが……!」

 私はすぐさま体勢を立て直すと、先ほどの小瓶のフタを開け、一気にそれを喉へと流し込んだ。

 強い動悸が身体を襲う。心臓がタービンのように鼓動する。

 血液は爆発したかのように身体中を巡り、目が充血するのを感じる。

 視界が赤く染まった。身体の全てが熱く滾る。

 懐かしい感覚だった。

 初めて毒を飲んだあの日のような、底知れぬ活力の奔流。この世の全てから解放され、もはやどんなことでも出来ると思える全能感。

「山上!!!」

 私はなりふり構わず飛び上がり、大きく振りかぶった腕を渾身の力で叩きつける。

 拳は山上の右腕を捕らえ、そのまま身体を吹き飛ばした。山上は目を見開いた。この身からは到底でるはずもない怪力だった。

「ぐお……っ」

 先輩の巨体は花壇にぶつかり、床に倒れ込んだ。

 苦しそうにうめきながらも、しかしすぐに腕をついて立ち上がろうとした。

 私は勢いを付けて、その横顔に膝を打ち込んだ。山上先輩がぎゃっと声を上げたかと思う間に、私はその首を掴んだ。

「約束は反故となった。残念だが、私は貴方を殺すよ」

 大きく腫れ上がった顔で、山上先輩は歯を食いしばる。

 脳だけが気持ち悪いくらいに鮮明としていた。

「まるで……、獣、みたいだな……」

 私はその通りだ、と思った。

 人間と獣の境界が理性だというのならば、今の私はたしかに獣であった。

「それが……、君の本当の姿か……」

 かすれた声で、先輩は言った。

「くだらないことを言う。人は心の底に誰だって獣を秘めている。表出している部分など氷山の一角に過ぎない。真に人を支配しているのは理性ではない、自我でもない。道徳も倫理も、損得も善悪も関係のない、ただひたすらに盲目的な欲求を満たさんとする、無意識の衝動だ」

 それらはいつだって胸の奥底から私たちを見つめている。表出する人格などというほんの一角よりも何倍も何十倍も大きな獣がいつも私たちをじっと眺めている。

「それも、そう、だな……」

 先輩は苦しそうにしながらも、不敵な笑顔を作った。

 私は手に力を込めた。

 問答は無意味だ。殺せ。


「マスター!」


 しかし私の手はすんでのところで停止した。雪原のような白い肌の、小さな手が私の腕を掴んだ。

「マスター、マスター……、もう、もういいのです……」

 お姫様だった。

 彼女は泣きそうな顔でそう言った。ぎゅっと、か弱いその手が私を押さえていた。

「この男を殺さなければ、君自身が消えるのだぞ」

 私は山上の首を未だきつく掴みながら、ぎょろりとお姫様をみやった。花がなくなれば、その力で見えていた幻のお姫様は、その姿を消すだろう。それは彼の望むところではない。

「もう、いいのです、いいのです。マスター、私は、私はもう十分に幸せでした。消えたって死んだって良いくらい幸せな日々をおくりました……っ。もう、もう、いいのです……」

「もういいだと? ふざけたことを言う。君がよくても、彼が困るのだ。君がいてやらなければ、いずれ彼もまた私のように壊れてしまう。彼は最愛の人を亡くした私の絶望と、そして寂しさだけを延々と感じながら生きていた。つよい孤独感に常に苛まれていた。だから君が生まれたのだ。彼の側にいるために。それは君がよくわかっているはずだ」

「マスター、マスター……、わかっていないのは貴方です……」

 お姫様はさらに強く私の腕を抱く。

「私を欲したのは、彼ではなく、貴方です……っ」

「何を言っている。私はただの死んだ心に過ぎない。私はもう、何も求めてなどいない」

 お姫様はその頭を振った。長い髪が揺れて、肌をなでた。

「私は貴方のお姫様です。貴方は私の王子様です……。忘れましたか……! あの日、貴方は私に言いました。榊原先生に描いた絵を一緒に見ながら、『君が私のお姫様だ』と、顔を紅くして言ってくれました……。忘れましたか! 忘れましたか……!」

「な……に……?」

 手の力が、とたんに緩む。

 先輩がどさりと床にくずおれて、大きく咳き込んだ。

「その、台詞は……」

 その台詞は。

「貴方の」

 私の。


「――プロポーズです……」


「お前、まさか」

 私の目が泳いだ。まさか。そんな馬鹿な。

 お姫様は、腕を抱きながら、神妙に頷いた。

「はい……、私は、貴方が望んだお姫様。貴方との結婚を誓った――」

 手が震えていた。声が震えていた。身体中が震えていた。全身の毛が逆立った。なんということだ。これは、なんということだ。

「貴方が私を、呼んだのです。死んだ私を、この生きた世界に……っ」

「あ……、あ……」

 それは、ああ、そうか、そういう。

「私はたしかに、貴方の幻想です。幻です。生きてなどおりません。しかし私は貴方の中によみがえりました。楽しかった。とても楽しかった。貴方と過ごした日々を思い出すようで、やり直すようで、とてもとても、楽しかった」

 私は、目を大きく見開いていた。息をするのも忘れるほどだった。

 私も、渇望していたのだ。冷たい心が、真に求めていたのは復讐でも、報復でも、真実を知ることでもなかった。

 足から力が抜けた。それは絶対に叶わぬ願いのはずだった。私はそれを理解していた。理解していたからこそ、絶対にないものと思い込んでいた。けれど、そうではなかった。いたのだ。彼女は、……こんなにも近くに。

 私は、彼女と……、彼女ともう一度……、一緒にいたいと……。願ったのだ……。

「けれどマスター、いえ、裕一朗君。貴方はもう、限界です……」

 その時、ぼうと音がして、長い影ができた。背後で、赤い炎が上がった。

「まて……、やめろ……、燃やすな……、燃やすな……っ!」

「貴方は気付いていた。その身体が既に、毒に侵されボロボロになっていることに。これ以上の摂取が、自らの命を脅かすことに」

 炎は雨のように降り注いだ酒と、揮発したアルコールを糧に、大きく燃え上がっていた。

「何の障害もない麻薬などというものが、あるわけないのです。貴方は毒に、身も心も芯から侵された。けれどなによりこの花を使って生きることの無意味さに気付いていた。貴方はとても理性的な人間だから、夢の中でだけ生きる命を、貴方は求めたその反面で否定もしていた。貴方はどうにか花の毒の楔から解放されたかった」

 そんな、まさか、と私は思った。

 私が彼女を求めていたのなら、花から解放されたいなどと思うわけがない。

「理想は右か左か、求めた何かは上か下か、などという問答は無意味なのだと貴方が一番よくわかっているはずです。右も左も理想とするし、上も下も求めるのです。相反する感情は、人の中に両立します。どれが本物でどれが偽物かなどという論争はそれこそくだらない話で、ただ、どれもが本物であるだけなのです」

「やめろ……、くそ……」

 頭痛がする。耳鳴りがする。歯を食いしばる。身体は締め付けられるようだった。

「だから、貴方はもう一人自分や、そして彼を作り出した」

 彼、といって指した先にいたのは、先ほどの乱闘の痕もなく平然と立つ、山上先輩だった。

「は……?」

 空気が抜けるような声だった。まさか。そんな、まさか。

「山上という人間は」先輩は、落ち着いた声で言った。

「榊原先生の一人息子であり、君の先輩でもあるが、同一人物ではない。そんなに都合のいいことがあるわけないだろう。世界はそこまでせまくはない。しかしそうした設定をもった人物を、君が望んだ。君がこの花から逃れるために」

 何を言っている。

「君の先輩である山上ならば、動機がある。君とは懇意の仲だったから、落ち込んだ君を助けたいと思うことがあるだろう。しかし、白い花のことはしらない。榊原先生の一人息子ならば、白い花の話を聞くことはあっただろう。しかし、見ず知らずの他人のために動くだろうか。否、そもそも話自体に現実味がないのに、動くはずがない。……だから、その二人が一つになった存在が、君には必要だった」

 脳の回転が追いつかない。

「そもそも仮にそういった人物がいたとしても、たった二回訪れただけでこうも簡単に真実を突き止め、君の元へ乗り込んでくるわけもないだろう。探偵でもあるまいし。絵を見ただけでそこまで確信を持てるかね。そして君の感情をこうもはっきりと理解するかね。都合が良すぎるというものだ」

 私は荒い息をついていた。冷静になれ、冷静になれ。

「君は自分一人の力ではこの毒を手放すことができなかった。だから私を欲した。全ては君の、独り相撲だ」

「なら……なら……、この火は……」

「私が付けた――わけではなく、君が付けた。さっきまで握りしめていたライターを放り投げてね。私と争っていたのも、一人で暴れていただけさ。とても麻薬中毒患者らしい症状だ。君が既に末期の症状にまで陥りかけているのが分かるだろう」

「そんな……、そんなことが……」

 あるわけ……。

「私の役目はここまでだ。あとはお姫様、任せるよ。この哀れなマスターを」

 山上はそういうと、すうっと虚空に消えてしまった。まるでそこには誰もいなかったかのように。

「裕一朗君……」

「私は……」

 自分が何を求めているのかが分からなかった。毒の花から解放されたい。しかし彼女と――お姫様と、一緒にいたい。

「君も……、消えるのか……」

「そうですね、この花がなくなれば」

 火は段々と燃え広がる。これ以上ここにいては、私もすぐに巻き込まれる。けれど私は、動かなかった。

「私も……、私も一緒に、死のう」

「え……?」

「心はもう、死んでいる。君が死んだあの時に。けれど私は死を恐怖していた。だから別の人格などと作り出して、私は生き伸びたのだ」

 この身体の無意識は、本能として、死を恐怖していた。

「しかし、もういい……。君と再会できたのなら、もう思い残すことはない。君と共にこの世界から消えてなくなる事ができるなら、それは、本望だ。君と一緒なら、怖くない」

 私は長く細い深呼吸をした。既に部屋の酸素は薄くなっているようだった。私はゆっくりと腕を伸ばして、お姫様の事を抱きしめた。本当に幻覚かと疑わしくなるくらい、その身体には実感があった。お姫様はそっと抱き返してくれた。ああ。なつかしい。この感覚は、そうだ。彼女が抱いてくれた時のそれと、同じだ。

「ありがとう、裕一朗君。私のことを覚えていてくれて」

 優しい声だった。よく聞けばその声だって。彼女のものだった。

「私は死んでも幸せものです。私のことをこんなにも思ってくれる人がいるなんて。ああ、私も、死にたくなんてなかった。貴方とずっと一緒にいたかった」

「これからは、ずっと、一緒だ」

 しかしお姫様は首を振った。

「でも、だめです」

「だめ……?」

「貴方は、きっと……、まだ、生きたい」

「生きたい……?」

「毒の花から解放されたいと思ったのは、つまり、まだ生きたいから。花を燃やせば私が消えることをしっていながら、それでも貴方は山上を作り出しました。それは紛れもなく、貴方の胸の裡で起こった、葛藤の表れです」

 私は頷いた。たしかにそうでなければ説明がつかない。一緒にいたいと思う気持ちの反面で、まだ生きたいとおもっていたからこそ、今私はこの業火の中にいる。

「けれど、それももういい。いいんだ。私に生きる価値など」

「どうか生きてください。私はそれを望みます。それに、貴方には生きる価値があります」

 熱され、とても熱かった。しかし、毒を飲んだせいか、痛みや苦しみはあまりなかった。酸素もないのに、頭の中だけがクリアだった。

「貴方に生きて欲しいと思っている人がいます」

「そんな人……」

 その時、ふと、後ろに誰かが立っていることに気付いた。


「もうそろそろここ出ないと、本当に死んじゃうよ」

「え……?」


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