【16】取引
さて、こいつをどうしたものかな、と思った。
私は山上先輩の手足を縛って、倉庫へと担ぎ込んだ。倉庫には酒も補完しているので、普段の店のように薄暗い。店にはクローズの看板を掛けてきた。
「あの、マスター、彼はいったい……」
お姫様が心配そうに私を見ていた。なるほど、外に出て分かるが、彼女は本当に生きた人間のようだ。
「君は私の作り出した幻影だ。言うなれば私自身だ。なら、わかるだろう」
「……」
お姫様は、俯いた。
私は芋虫のように寝転んだ山上先輩の頭から、水を掛けた。
「ぐ……う……」
苦しそうに、先輩は目を開けた。
「おはようございます。よい眠りでしたかね」
先輩ははっとして、すぐに辺りに目を走らせた。動こうとして身体をくねらせたが、頑丈に縛られた身体は、ほとんどうごかなかった。
「無理しないでください、山上先輩。話をしましょう」
「……! 裕一朗なのか……?」
「そうです。今の私は、貴方の知っている裕一朗です」
山上先輩は手足を縛られているというのに、少しだけ安堵したような表情を見せた。
「ところで山上先輩。どうして貴方は花のことを知っていたのですか。榊原先生の研究資料は、ここにしかないもの思っておりましたが」
「資料を見たわけじゃない。父が死ぬ前に、話してくれたんだ。白い花のことと、君が関わっていたことをね」
なるほど、と私は歪んだ笑みを浮かべた。
「だが、まさか本当にそんなものが実在するとは思っていなかった。あまつさえ君が持っているなどとも思わなかった。可能性を疑ったのは、君がまるで人の変わったようになった頃からだ。確信したのは、つい先日。あの絵を見て、だ」
「最初から疑っていたわけだ。しかし私の変化で疑いをかけていたのなら、どうして今更になって私の元へやってきたのです。事故から、もう三年が経とうとしているというのに」
「さてね、私もわからないよ。ただなんとなく、今動かなければいけないような気がした」
私は眉をひそめた。なんとなく、にしてはタイミングが良すぎる。あの酒が店に出て、そして毒の影響が出始める頃にだなんて。いや、それくらいの偶然なら、起こりうる……か?
「裕一朗、今のお前なら分かるはずだ。お前自身が何をやっていたのか」
「私が店に訪れた客に毒をばらまいていた、と言いたいのでしょう」
「そうだ。そして実際に、犠牲者がでている」
「犠牲者ですか」
「店の常連が最近来ないことは把握しているな? そいつらが今どうなっているか、分かっているか」
「さあ。どうなりましたか」
「ヨウコ氏を含めて既に三人が病院にかつぎこまれている。二人は自殺未遂、一人は突然道路に飛び出して跳ねられた。そして他に数名が、体調不良で倒れている」
「ほう、案外大変なことに。山上先輩もよく調べたものですね」
「この店の他の常連に、常連の名前を聞き出して手当たり次第調べただけだ」
山上先輩は、私のことを睨んでいた。
「でもそれ、毒の所為ですかね。証拠なんてないでしょう」
「証拠はない。だが、突然の自殺や、道路への飛び出しなど、麻薬の中毒患者の典型的な症例だ。この店の常連が立て続けとなれば、もうそれは毒の効力と見て間違いはないだろう」
私は薄く笑みを浮かべた。
「分量を考え直した方がいいですね。しばらく、自重することにしましょう」
「ふざけるな。今すぐにでも、持っているあの花を全て焼き払え」
「そうはいきません」
山上先輩の頬がぴくぴくと震えていた。
「いえね、私自身は、正直花のことはもうどうでもいいのですよ。でもね、僕と呼称する今の私が、この花を必要としている。そして私は彼に、既にこの身を明け渡した存在だ」
私自身は、既に死んだ心だった。今私の身体の主導権を握っているもう一人の自分は、突然の自体にショックを受けてその身を潜めた。私はその代わりに、一時的なものとして表へと戻ってきたに過ぎない。その彼が花を必要としているのなら、私はそれを尊重する。
「山上先輩、取引です。何事もなかったことにして、私と縁を切ってください。そうすれば、何もせずに解放します」
それは本心だった。
「ですがもし事を荒立てるおつもりなら――貴方に、これを飲んで頂きます」
私は棚から一つの小瓶を取り出した。それは花を蒸留して抽出した、高濃度の薬だった。
「ヘロインなんかよりよっぽど効きますよ。抵抗がない貴方なら、一発で廃人になれることでしょう」
「そいつは、勘弁してほしいな」
山上先輩の顔色が変わった。冷や汗が頬を垂れ、目元が引きつった。榊原先生の研究資料に目を通しているのなら、これが実際にどれほどの影響をもたらすのか、よく分かっていることだろう。山上先輩は、私の顔色をうかがいながら、先ほどからもぞもぞと身体を動かしていた。
「一応伝えておきますが、貴方の持っていた物騒なナイフや、ライターの類いは、既に全てこちらで預かっています」
私は先ほどのライターを、山上先輩に見せる。先輩の内ポケットには、他にも刃渡り十五センチ程度のアーミーナイフが入っていた。いざとなったら私を殺すようなつもりですらいたのだろう。旧知の知り合いを、はっきりと薬物中毒患者として認識している辺りはさすがである。普通の人間ならば、例え相手に奇人の可能性があろうとも、知り合い相手にこのような武装をすることはまずあり得ない。
山上先輩は頬を引きつらせながら、私をじっと睨んでいた。
「君はどうして、人にあれを飲ませた」
「さあ。私の判断ではありませんから、分かりませんね」
「嘘だ。君はおそらく理解している」
私は、鼻で笑った。何の根拠もないくせに、よくまあそんなに力強く言える。
「復讐だな……」山上先輩は、低い声で唸るように言った。「君はあの毒で、最愛の人を奪われた。しかし恨む相手がいなかった。想いのはけ口はどこにもなく、君の中で溜まった。感情というのは、ため込めば腐るものだ。君のそれがいつしかどす黒いものになることに不思議はない。君はそうした感情のはけ口として、せめて、あの毒を使って他の人間にも不幸を与えたら、と考えた」
「さて、ね」
私は何も答えなかったが、言葉は脳にしみこむようだった。
私はふと遠い場所に目をやった。彼は私と分離した別の人格ではあるけれど、私の感情が彼に強い影響を及ぼすことは知っていた。そしてたしかに、私は、誰かに復讐をしたかったことを、否定しない。私も、人の子であった。榊原先生の言葉が思い返させる。
『やはり現実が奇なることなどない。愛した人間の死に激情を発した、というのはあまりに人間的で、そしてあまりに正常な感情の働きだ』
「だからどうしたというのです」
「もうやめろ、そんなこと」
「やめたら、貴方は私との取引に応じてくださいますか」
最大限の譲歩だった。私はもう人に迷惑をかけない。だから、私自身のことはもう忘れてくれ。放っておいてくれ。
山上先輩はしばらく考える様子で、俯いた。どこか諦めたような表情だった。それも当然だ。彼は今、自分の命を掛けている。この小瓶に詰まった液体を飲めば、間違いなく死に至る。そして私ももう悪さをしないと言っている。これ以上の妥協点が、どこにあるだろうか。
山上は、険しい顔で頷いた。
「……わかった。それでいい」
「冷静な判断を、ありがとうございます」
私はほっと胸をなで下ろした。これはこれで良かった、と思った。復讐に身を焦がすのが健全ではないことを理解していた。ここで人を殺してしまうのも避けたかった。これから全うに、もう一人の自分が生きてくれるのならばそれは私も望むところだった。私はどこか肩の力が抜けたような気持ちになりながら、山上先輩を解放した。
解放されると、先輩はしびれていたのか、腕や足を軽く回したあと、立ち上がった。
「これは……」
そして先輩の目に入ったのは、寝転んだ姿勢からでは、よく見えていなかったであろう倉庫の奥側、酒の並ぶ棚の向こうの、壁沿いに設えられた大きな花壇。そこには儚い光に照らされて、怪しげに咲いた真っ白の花が、これでもかというほどに咲き誇っていた。花は倉庫の奥半分を埋め尽くすような勢いで、室内だというのにその美しさに陰りがない。
「よくまあこんなに、作ったものだな」
「中々、育てるのは難しいんですよ、これ。でも、綺麗でしょう」
私と、もう一人の自分と、そして榊原先生の、苦心の結果だった。
「美しい」
ただひとことそういった山上先輩の言葉は、この景色を表現するのに十分で、私は満足した。
「さあ、こちらです」
私は出口の扉へと向かった。もうここに先輩がいる必要はない。
「だが、すまんな裕一朗」