【15】世界のはじまり
榊原先生が亡くなってから一ヶ月後、私は彼から譲り受けたビルに移り住んでいた。フロアを貸し出していた企業は移転となり、榊原先生が経営していた飲み屋もたたむこととなった。一階と二階はそうして空いたまま、私は三階で一人、また静かな時間を過ごしていた。
私の心は、あの時から何一つ変わっていなかった。榊原先生は私のために尽力してくれたようだけれど、私の感情にはなんの響きも与えなかった。冷たく雪の降り続ける世界が、未だここに拡がっていた。それがある意味で、とても理性的な世界に見えた。何をする気も起きず、むなしい時間だけが過ぎていった。
榊原先生はたくさんのモノを残してくれていた。アンティークの品々はもちろん、学術書の類いや、研究の資料といったものがあった。これらは他人に渡したくないもの、だったそうだ。
しかし、特に多いのは酒だった。榊原先生が昔、酒を飲むのは現実逃避だ、と言っていたのが思い出された。今の私には、現実逃避が必要だな、と思った。けれど酒程度では現実逃避もできなさそうだった。
私はのそりと立ち上がって、物置として使われていた部屋に向かった。その一角には、土が盛ってあった。
美しい、白い花が咲いていた。あの日みつけた花だった。毒の花だった。榊原先生はこの花についての研究結果を、私に宛てて事細かに残していた。毒の作用。分量と影響。アルコールとの混ぜ方。揮発性物質について。他の研究資料に興味はなかったが、それらにだけは全て目を通していた。
公表するべきかどうかは考えるまでもなかった。公表しなかった。とても億劫だった。それに私は読みながら、榊原先生からのメッセージを受け取っていた。
その残された資料の書き方がまるで私に、使え、と言っているようだった。
悪魔のささやきではあったのかもしれない。しかしたしかに救いの手でもあるのだろうと私は思った。私のこの感情をどうにかするには、もう頼るしかないと思った。危険であることは当然承知の上だった。が、罪悪感はなかった。人が現実逃避をするために酒を使うのと、何が違うのだろうと思った。報告書には粉状にして摂取することがよいと書かれていたのでその通りにした。花弁、茎、葉、根の四種類によってそれぞれ効果が違うようで、最も力の弱い花弁を粉にするところから始めた。
初めてそれを口にした時、私はおののき震え上がった。この身体に、こんなにも色鮮やかな感情を感受する機能があったとはと戦慄した。灰色がかった雪の世界が、一瞬にして麗らかな春の山野へと姿を変えた。自分が、まるで別人になったかのようだった。
別人か、と私はその言葉にはたとした。私自身は、もうこのままではきっとこの世界で生きていてもなんの意味もなさそうだった。死んでもいいと思っていた。けれど身体には原始的に死を恐怖する本能が組み込まれていた。どうにも私には、自ら死を選ぶことは出来そうになかった。ならば、私という存在が生きる代わりに、意味のある生き方をできる別の人間をまた用意することはできないだろうか。私はトリップをしながら、思った。毒に侵され続けれ、頭の中を全てぐちゃぐちゃにしている今ならば、不可能ではないような気がした。頭の中はふわふわとしていて、本来しっかりと着床しているはずの記憶や、感情が、全て宙に放り出されているようだった。嘘を真実と思い込むことも容易だろうし、あったものをなかったことにすることも容易に思えた。
私は冷静に、別の自分を意識した。とても理屈で語れるものではなかったが、難しいことではなかった。きっと誰の心の中にもあるように、私の心の中にも、自分と、そして自分を客観的に見ている自分という、二つの存在があった。それらはどちらも明確に別れていたものではなかったけれど、精神の中を浮遊するようなこの感覚の中でなら、十分に別物として再認識することのできる存在だった。私はそれを核に、一つ一つ、薬の力に頼りながら、今の自分という存在を埋め立て、不要な記憶を消して、必要な感情を追加し、新しい自分を想像した。段々と組み上がるそれはまるでパズルのようで、私はとても愉快だった。
それからすぐに私は会社に退職届を出した。それは二つ返事で承諾された。その際にいつも世話になっていた山上先輩がねぎらいの声を掛けてきたが、私は適当に流した。
「今度、上京することがきまったんだよ!」
幼馴染みである彩花から連絡がきたのは、私が薬に頼り始めてから、半年後のことだった。
「あれ……、ユウちゃん、雰囲気変わった?」
「変わったかな? どうだろう」
「うん。すごく明るくなって……、大丈夫? あの、事故の件がまだ……」
「いや、大丈夫だよ。全然。それより、彩花がくることを楽しみにしてる」
「う、うん」
私は、自分が別人になっていくことをゆっくりと、けれど確実に実感していた。花の細かいことを忘れても、花の摂取そのものは勝手に続けていた。身体自体が中毒症状に陥っていたからだった。一年が過ぎた頃には、私自身が表側に出ることは、もうほとんどなくなっていた。
私はただぼうっと自分とは違う自分を眺めていた。それは全く自分とは違う誰かなのに親近感の湧く誰かだった。彼はいつのまにかバーを開くつもりになったようで、バーテンダーの修行をしていた。律儀に榊原先生との約束を守っているようだった。覚えてもいないくせに、と思ったけれど口出しをするつもりはなかった。けれどどうも私の感じていた強い憂いは彼にも残っているようだった。私の感じていたどうしようもないという気持ちが、あまりに強かったのだろう、と思った。彼はそれを、花を使いながら制していた。いつのまにか彼には耐性が出来ていたようで、花弁の粉程度では、全く影響がでなくなっていた。
彩花は、彼の、というより私の変化に確実に気付いていた。彼女は私の元に通いながら、彼のことを監視していた。それは善意であり、一人の友人として心配をしていたからであったが、彼は全く気付いてはいなかった。
彼はバーテンダーの修行をする傍らで、花の研究を独自に行っていた。どうやら人にのませる方法を思考錯誤しているようで、それは私にとっても興味深いものだった。あの花の成分で得られる多幸感を、誰かにも分けてあげたいという純粋な気持ちで彼はいるようだった。馬鹿だな、と思った。順調に修行を終えて、このビルにバーを開いた。しかし経営の才能は大してないようで、うまく事は運ばなかった。ストレスが私にも伝わってきたが、どうでもよかった。
そして半年後のある日。
一人の娘が現れた。お姫様と名乗った。幻聴や幻覚にはとうに侵され尽くしていたが、このあまりにクリアな存在は、まるで本当に別の人間が現れたようで、ついに頭がイカれたか、と私も彼も思った。
私はそれが彼の見ている幻覚だと分かっていたが、彼はそのあまりのリアルさに、困惑していた。そしてなにより、お姫様は、彼の、そして私の、理想であり、望んでいた存在だったから、彼はそれを幻覚だと思いたくないと潜在意識の中で願い、理解を拒否していた。そして彼は、その存在を受け入れた。
その後店は繁盛することとなるが、これは間違いなく花の毒に混ざった依存性の効果だった。彼は罪悪感でも感じているのか、分からない振りをしていて、滑稽だった。おそらく彼は、最初からそれも狙っていたように私には思えた。
彼は私の記憶と、毒の作用を上手く使いこなしていた。必要な記憶や知識は残して、罪悪感を感じたり、嫌だと思うものはすぐに忘れるようにしていた。さすがは私の分身で、そういった心の制御は優秀だった。
私はただじっと、彼のことを眺めて居た。