【14】 僕と、私
ヨウコさんが自殺をはかったと聞いて、店は少しどよめいていた。
「本当に、どうしたんでしょうね……、自殺未遂、だなんて」
自殺はどうやら未遂であったようで、ひとまずは安心であった。
「さて、ね。何を抱えていたのやら」
「誰しも、心に重いものを抱えておりますから。耐えられなくなる人も、中にはいてもおかしくありません」
心配そうにするメイドに対して、僕とお姫様はわりと平静であった。常連になっていた人のそういった行為に心配はしていたが、人なのだからそういうことだってある、とどこかで思っていた。
「そういえば、常連さんの何人か、最近お顔を見ませんね」
お姫様が、ふとそんなことを言った。
「たしかに、見なくなった顔もあるな」
三人で店に出てくるようになってから、二ヶ月と少しが経っていた。たしかに最初の頃にいた常連の数人は、ここ一ヶ月ほど顔をみていない。
「まあ、一ヶ月くらいなら、来ないっていうのも普通にあるとおもうよ」
「それもそうですね」
どの常連だって、別に毎日毎週来るわけではない。半年来なかったら忘れられたかもしれないと思うが、一ヶ月くらいではたいしたこともなかった。
山上が三度目に現れたのは、ちょうど雨の日だった。傘をさすのが下手くそなのか、それとも身体が大きくて傘に入りきらないのか、肩や袖を濡らしていた。
「まだ開店前ですよ」
開店まで、まだ三十分あった。準備が終わって、今日はお客さんも少ないかな、なんてお姫様と話していた頃だった。山上は、「すまないね」と表情も変えず言ったが、実際にすまないとは思ってなさそうだった。
「電気が付いていると、やはり雰囲気がかなり違う」
「そうですね」
開店前なので、まだ店の電気は付いていた。嫌な予感がしていた。おかしな寒気があった。山上は特に席には座らず、じっと店内を見渡していた。
「何か、ご用ですか」
山上は何か考えるように、額に手を当てた。
「常連の一人が、自殺をはかったようだ」
「ええ、ヨウコさんですね」
「どう思う」
「何か抱えていたのでしょう。ともかく未遂でよかった。次がなければいいのですが」
山上は訝しげな目を僕に向けた
「店を開けるのを、少し遅くしてもらえないか。話がしたい」
「開店したって、話はできますよ」
「人に聞かれたい話じゃない」
「なんの話です。事故の話なら、もう終わったはず――」
「それとは少し違う。君についてだ」
山上は僕の言葉を遮るように言った。
「僕がどうしました」
僕は不快感を表してみせたが、山上が動じる様子はなかった。
「君は」そこで山上は口を少し開いたまま、額にしわを寄せた。慎重に言葉を選んでいるようだった。逡巡の後に口をとじてから、一度ゆっくり瞬きをして、軽く鼻で息を吐いてから言った。「幻の世界に生きている」
僕はあからさまに怪訝な目をした。言葉を選んだにしては突拍子のない発言だ。
「突然おかしな事を言いますね」
「目を覚ませ裕一朗」
ぴくり、と目がほんの少し広がった。名前を呼ばれたのは、久しぶりだった。山上は僕のその反応を見逃さない。
「裕一朗。お前は、自分のやっていることがどういうことか、分からないのか」
ゆっくりとした口調で、まるで僕に言い聞かせるようだった。
「僕には、貴方が何を言っているのか分かりません」
少しの間を開けてそう答えると、山上は「そうか……」とつぶやいて、ぎり、と唇を噛んだ。強い感情を、どうにか押しとどめているようだった。
「私のことは、分かるか?」
「山上さんですよね?」
「分かっていないようだ」
言いたいことは、全く汲み取れなかった。
「しかし、うむ、悪いのはお前じゃない。すべては、あれが悪いんだ」
山上は一度深呼吸をすると、ずんずんとカウンターの奥へと向かった。ちょっとどうしたんです、と僕は追った。
「やはり、あったな」
「なんですか」
「これだよ、この花。この白い花だよ。見ろ、よく見ろ。お前の目にはちゃんとうつっているか?」
山上はカウンターの奥に置かれた花瓶と、そこに差してある一際美しい白い花を差しながら、それとはまるで対照的な鬼気迫る表情で言った。
「君は白い花をしらないと言った。しかし、嘘だった」
「べつにただの花ですから。嘘というか、そもそも特別なものだとは」
「これが? ただの花? よく言う。その口で」
山上は鼻で笑うようにそう言うと、ポケットに手を突っ込んで、ライターを取り出した。
「燃やすぞ」
「ちょ、ちょっと、困ります。なんです、なんなんですか」
僕はその手を制した。いったい何をしようとしている。山上は僕に向き直った。
「君はこれを使って、作り出したんだ」
「な、なにをですか」
「幻だ」
この人は頭がおかしくなっているのではないだろうか、とやっと僕は気が付いた。山上はすぐさま花に火をつけようとはせず、そのかわり壁に立てかけてあった絵を指さした。
「この絵が分かるか」
「分かりますよ。僕が昔描いた油絵です」
そこには美しいお姫様と、そして傅くメイドの姿が描いてあった。
「君はこの絵をこの場所に置くことで、周到に客に対してこの像を刷り込んだ。脳内に、その姿を形作らせた」
「は? な、なんですかそれ」
「そして例のオリジナルカクテルなるものに君はこの花の毒を混ぜて、飲ませ、トリップを促し、あたかもお姫様がいるように振る舞い、毒の幻覚効果と併せて、そこにいるように思い込ませた。この薄暗い店内はよくできている。相手の顔や姿をはっきり認識できないようにして、視覚的な違和感を限りなくゼロに近づけた。実に見事だ。上手くやったものだ。そうやって君はここに、『お姫様』という共有幻想を、発生させた」
待て待て待て。何の話だ。
山上の語る話が、僕には全く分からなかった。理解不能といってもよかった。
「帰ってください。貴方は医者にかかった方が良い」
「医者にかかった方がいいのは君の方だ、裕一朗」
山上は一歩踏み出すと、そのまま両手で強引に僕を突き飛ばした。突然のことに、受け身もすぐにとれず、僕は床に倒れ込んだ。
ぶつけた臀部に鈍い痛みが走る。いったい何事か。僕は何をされている。視界がゆがんだ。気味の悪いくらいに歪んだ。混ぜた絵の具のように混濁した景色が見えた。極度の緊張感もあって、見ているだけで吐き出してしまいそうだった。勘弁してくれ、と思いながら、長い時間がたった気がした。
「こいつを燃やせば……」
視界がクリアに戻った時、山上は僕を突き飛ばした姿勢のままだった。少し違和感を覚えた。山上はすぐにライターを握りしめて、そして花に火を――
「……!?」
――つけることは叶わなかった。いや、山上は一瞬目を見開いた後、そのまま糸の切れたように倒れ込んだ。
山上は、口から泡をふいていた。白目を剥いていた。僕は手にしていたチャックのついた袋を、丁寧に折りたたんでポケットへともどした。
「調子に乗りすぎですよ」
袋の中には、この花の放出する揮発性の物質を詰め込んでいた。
「貴方はすでに毒を摂取している。もうすこし時間をおいてから来れば、毒も薄まっていたでしょうに」
僕は――
――私は、山上先輩を見下ろしていた。