【13】 遺言
四月の半ば、私は榊原先生に誘われて、都内の飲み屋へとやってきていた。下町にあるような小さな店で、出てくる料理もおおざっぱであったが、榊原先生は好んでここに通っていた。大学時代にもよく来た店だった。
榊原先生と会っている時だけは、少しだけ晴れやかな気持ちになれた。しかし相変わらず、家に一人でいる時は彼女が死んでからずっと変わらない。寒々しいままだった。雪も止まずに、降り続けていた。
「やあ、元気にしていたかね」
「はい」
体力的な意味だけでなら、私は元気であった。しかし、元気にしていたかと聞いた榊原先生自身が、全く元気には見えなかった。顔色はまさしく雪のように白く、目には力が無い。
「飲もう」
「はい」
学生時代の頃のように、私たちはまず大ビールを注文した。乾杯をして、半分を一回で飲み干した。
「こうしてまた君と飲めるとは、嬉しい限りだよ」
「私もです」
お酒がはいると、ほんの少しだけ頬に赤身が差して、榊原先生にも活力が戻ったようだった。
「いくつか、話しておかなきゃならないことがある」と、榊原先生は切り出した。私は黙って頷いた。
「見て分かるとおり、私はあの毒に侵された――わけではない」おや、と私は顔を上げた。「もともと、ガンにかかっていた。死は初めから、すぐそこにあった」
榊原先生は、いつもの薄い笑みを浮かべていた。
「ガン、ですか」
「ああ。ガンと診断されたのは、ちょうど一年前のことだった。余命は一年と宣告された」
「一年……。でも、まだ生きているではありませんか」
「しぶとい性分だからね。でも残念だが、もう死に体だよ。身体は悲鳴をあげている」
よく見ると、ジョッキを持つ榊原先生の手は震えていた。
「もうそんなに、長くはない」
「それでもお酒を飲もう、っていうのだから大したものです」
「私は呑兵衛だからね。酒がなければガンじゃなくたって死んでしまうだろう」
榊原先生はにやりと笑う。
「……話がそれたか。それで、だね。一年前のその時から、私はただ死にゆく者で、成し遂げたい目標も、生きることの目的も、なくなってしまったわけだ。これは中々つまらないことだったよ。死を前にした時というのは、今なにをやっても、一年で全てなかったことになるような気がするから、何のやる気もでないんだ。今まで好きなように生きてきたから、悔いはなかったし、死ぬこと自体は怖くもなかったんだけど、ただただつまらなかった」
「先生らしい」
「そんな折りに、例の事故があった。死亡した三名に、君の彼女の名前があったからすぐに気付いた。彼女は君と同じ私のゼミの生徒だからね。それでちょっと手を回して調べてみたら君がふさぎ込んでいるときた。私はね、思ったのだよ。こりゃあ、私が死ぬ前の、最後の仕事だ、とね」
榊原先生は、そこでぐいっとジョッキを傾けて、のみほした。とても死を間際にした人とは思えない豪快さだった。
私と彼女が出会ったのは、榊原先生のゼミでだったな、と思い出して苦笑した。
「それで、先に一度あの場所に行っていたのですね」
「そうだ。どんなもんか下調べでもしておこうと思ってね、警察にツテがあったから、ちょろっと中に入れてもらったわけさ。まあ私が入れたときにはほとんど現場検証も終わってて、冷めたもんだったけどね。ともかくそれで、わき水に気づき、君へと電話することになるわけさ」
私も追いかけるように、ジョッキを飲み干した。
「最近までずっと、あの花を調べていた。花そのものについては、大体わかったよ。あれは突然変異のようなものだった。詳しいことは報告書を作っておいたから、あとで目を通してくれたまえ。問題はもう一つの方だった」
榊原先生は、どこかうつろな目で語る。
「つまりあの花が持つ毒についてだね。結局成分の解析はできなかった。解析となるとまた分野が違ってね、私は専門ではない。だからこれは仕方がなかった。だが、それがもたらす影響については、素人だって実験をすればすぐに分かる。身体に取り込めばいいだけだからね。が、薬物の実験というのは本来デリケートで、簡単にはできない。けれどね、ここに良い実験台があったわけだ」
榊原先生は、自分の事を指さした。
「どうせ死ぬのだ。早くなろうが大して変わらん。私はあれからね、花の摂取を続けたよ。いくつかの実験生物と一緒に、色々試しながらね。私自身は、存外苦ではなかったよ。実はね、最初に花を食べた後私は一ヶ月伏せったと言ったがね、あれはちょっとばかし嘘なのだよ」
「嘘?」
「一度食べて伏せったのではない。あの時点で、既に何度か食していたわけさ。花は非常に高い依存性を持っていてね、気付いた時には口に入れていて、驚いたものだよ。まあ、私は我慢する気もなかったから、それでいいんだけれどね」
それはどこか、常軌を逸した人間の行動に思えた。けれど榊原先生は、まったく平然と語っていた。そんなところを、私は危険に思いながら、同時に、尊敬していた。
「とにかくそれで分かったのは、あれがアルコールに強い反応を示すということだった。アルコールと混ぜることで、ある程度コントロールをすることができる反面、混ぜ方を間違えれば、爆発的な効力を発揮する。基本的に、度数の高いものと合わせるほど危険だ。おそらくあの事故では、三人ともそうした度数の高いアルコールを摂取した結果、わき水に混じった微量の成分だったにもかかわらず効力が発現し、トランス状態に陥っていたものと思われる。体調不良を訴えた者達も、おそらくアルコールを強く摂取したのだろう」
そうですか、と私は頷いた。榊原先生が言うのならば事実。……だと思うのに、どこか非現実的で、私は少し上の空で聞いていた。
「もう一つ分かったことは、あれがごく微量な揮発性物質を放出しているということだ。よく植物は、害虫に襲われた際の防御機構としてHIPVs(植食者誘導性植物揮発性物質)という、自分の害虫の、さらにその天敵を誘導する効果を持つ物質を分泌することがあるが、あの花の出していた揮発性物質は、誘因するという意味でこれによく似ている。しかしあの花は、害虫に攻撃された時のみでなく、不規則ではあるが日に数度それを放出していることが分かった。そしてその物質は害虫の天敵ではなく、花を摂取した生物を対象としている。花の毒に侵された生物が、その揮発性物質を取り込むと、毒の持つ効果が、まあつまりトリップの症状の効力が増す。多幸感がさらに大きくなるのはもちろん、幻聴や幻覚といった症状もひどくなる。まるで、操り人形のように、摂取した生物を誘い込むんだ」
理由はまったく分からないがね、と榊原先生は言った。
「あれは悪魔の花だ。仮に人の世に降りれば大混乱は免れない。だから、私は先日あそこにあった花を全て掘り起こして、その後焼き払ってきた。辺りも探してみたがそれらしいものはなかったし、中毒状態である私自身が揮発性物質に反応することもなかったから、とりあえずは、偶然あの場所でだけ発生した変異種とみて良いだろう。少なくとも、今まで一度もみつかっていないのだから、人の世にはしばらく現れないはずだ」
榊原先生の目は、焦点が定まらないのか、時折不自然に泳いでいた。
「ええと、なんの話だったかな。ああ、えっと、そうだ、花だ」榊原先生は、もどかしそうに唇を噛んだ。どうやら脳も、あまりうまく働いてはくれていないようだった。
「いや花の話はもういい」
榊原先生は何かを振り払うかのように、首を振った。
「あ、そうだ。このビル、実は私のビルだってことは、言っていたっけ」
「いえ、初耳ですね」
「この飲み屋は、実は私が経営していてね。まあ金を出してるだけで、人任せなんだけれど。それで、二階にはなんとかっていう会社の事務所があって、三階が私の部屋になっている」
それはさすがに驚いた。
「ここに住んでたんですね」
「そうそう。で、さ。モノは相談なんだがね、このビルを、君に――裕一朗君に、もらって欲しいのだよ」
「どういうことです?」
「遺産相続がさ、面倒くさくて。私は今ほとんど一人で生きているけれどね、一応金はもっててさ、たぶん、よく分からない遺族がいっぱいでてくると思うんだよね。でも、そんなの嫌なわけ。実は一人息子もいてさ、山上聡っていうんだけど、そいつに上げようかなって思ったら、断られちゃって。まあ、離婚した時に妻が連れて行っちゃった子だからね。あいつも遠慮してるんだろうけど。だからさ、もらってよ。このビル。売っても良いし壊しても良いし、好きにして良いから」
私は突然の申し出に、一瞬だけ戸惑った。しかし、断る理由はなかった。
「ぜひ」
「ありがたいね」
榊原先生は、明るく笑った。
「あの部屋には、色々残して置くからさ。全部、上手いこと使ってあげてよ。私が趣味であつめた、アンティークもいっぱいあるし。君、そういうの好きだろ」
私は頷いた。
「君が卒業するときに描いてくれた絵も、残ってるよ」
「懐かしいですね」
卒業を控えたときに、榊原先生がどうしてもというので、渋々私が描いた絵だった。たしかお題は、理想とするもの、だった。
「いい絵だった」
やめてくださいよ、と私は苦笑した。
「死に際にもう一度欲を言うのなら」榊原先生は、一度深呼吸をした。「ここで酒場でも経営してくれると嬉しいね。君、バーテンダーの資格、持ってただろ。そういうの、どうかな」
「悪くないですね」
「よし、決まりだ」
榊原先生は、また大ジョッキを注文した。
「これでもう、思い残したことはないかな」
「なんです、もう死ぬおつもりですか」
「あとはガンガンあの花キメて、イけるとこまでイこうと思ってるよ」
「ひどいお人だ」
榊原先生は、おおきく笑った。
「迷惑もかかるだろうしね、さすがに自重するけれど」そこでふと、榊原先生は真面目な顔になった。「……あとは、君に任せるよ」
何か意を含んだような言い方だったが、よく汲み取れなかった。
ビールがテーブルにやってきた。二つで、私の分もあった。
「さあ、乾杯だ。新しい君の商売繁盛と、そして今後の君の無病息災を祈って」
ぐっ、と榊原先生はジョッキを掲げた。
「乾杯!」