【12】 夏の終わり
いつしか聞こえる鳴き声はツクツクボウシに変わっていた。ツクツクボウシは夏の終わりに鳴く蝉で、僕は今年の夏も終わりか、としみじみするような気持ちになった。
店は順調だった。お姫様が現れてからというもの、店の客は増え続けた。増え続けた客は、メイドが来てくれたことでさばけるようになった。不安な要素は何一つなかった。僕は幸せというのものを、とても久しぶりに感じていた。
「ご主人様、注文ですよ注文!」
「はいはい」
メイドはもうすっかり馴染んでいて、お客さんの誰からも好かれていた。それはお姫様も同じだった。彼女は相変わらずカウンターの奥に座って、じっと店内を見ていたが、時々話しかけてくるお客さんを、笑わせたり泣かせたりしながら、適当に対応をしていた。
客が落ち着いてきた午前二時。お姫様に相談を聞いてもらっているような悪絡みしているようなヨウコさんに、ちょいちょいと手招きされた。
「この子、すっげーいい子」
「それはよかった」
ヨウコさんの顔は真っ赤で、既に腕を枕にしていた。気を抜けばすぐにでも寝そうである。
「でさーいまさー、なんでマスターが、このバー始めたの、って話になったわけ」
「はあ、なるほど」
「おしえてよーきになるー」
もうダメになってるな、と思って、とりあえず僕はヨウコさんに水を差しだした。
「そうですね、なぜか、と言うと、なかなか難しいのですが」
自分からぺらぺらと話したいことでもなかったが、ヨウコさんもべろんべろんのようなので、どうせ大して聞いてはいないだろうし、子守歌代わりにでも少し話してもいいかなと思った。
「僕、もともと酒が苦手だったんですよ。でも、知り合いの呑兵衛がですね、酒を飲むのは現実逃避だって言ってて。このよくわからない世界を生きるのには、必要なことだって言ってたんですよ。ははあなるほど、と思って。なら僕も酒を飲んでみるか、って始めたのが最初で。でも僕は弱いから、色々な酒を試したんですね。自分に合ってるのはどれだろう、って思って。でも一人じゃわかんないなと思って、近くのバーに通うことにしたんですよ。で、なりゆきでそこで少し働くことになって。そしたらそのまま勢いでバーテンダーの資格取っちゃって。学生の時でしたねそれが。でもそのあとしばらくは普通に働いてたんです。そしたらある日、このビルを譲り受けることになって。でその時、僕ちょうど仕事が上手くいって無くて。じゃあ、場所もあるんだし、バーテンダーの資格もあるし、開いちゃうか。って、思って。それで一年くらい他の店でリハビリして、そのままここを開きました。そんなに大層な話じゃあないですね」
「マスター。ヨウコ、もう寝ちゃいました」
「あら」
ヨウコさんはお姫様の隣で、すやすや寝息を立てていた。最初から聞く気力はもう無かったのだろう。ヨウコさんにとってはやはり子守歌になってしまったようだった。寝かせておこう。僕は常連のために最近用意したブランケットをヨウコさんの肩に掛けた。
「マスター」お姫様が、僕を見てくすくすと肩をふるわせていた。「今の説明、色々、省かれておりましたね」
「ああ」
無意識に、当たり障りのないことを語っていた。
「そうだね」
「本当はどうして、バーを開いたのです」
「どうしてかな」
僕は額をとんとんと叩いた。
「本当は、お酒自体にはそんなに興味、無いんだよね。どっちかっていうと、お酒を飲んでいる時に、心を休めている状態が好きで。羽休めっていうのかな。お酒はそれを助けてくれる。現実を少しの間、忘れさせてくれる。それをさ、自分が提供できたら、嬉しいなって思ったんだよね。お酒に頼る気持ち、分かるから」
それは僕自身も同じだった。この世界は、生きているだけで疲れる。何をしていても疲れる。何をしていなくても疲れる。それは生あるものの無間地獄。生きているだけで幸せだなんて言う人がいるけれど、そんなことはない。それは無責任だからこそ言える言葉だと僕は思う。誰だって、意味なんてよく分かっていないのだ。死にたくないと思ってしまう心を生まれたときから植え付けられて、生きる意味も知らぬままけれど必死に僕達は生きる努力をし続ける。そうするように、すり込まれている。だから勘違いするのだ。生きているだけで幸せだ、なんて。
でも、それでも、この世界はそういうものなのだから仕方がなくて、僕達は今日を明日を生き続ける。だから、必要なのだ。何も考え無くて良い場所が。一時現実を忘れられる場所が。僕はその気持ちが本当に本当によく分かるから。こうして、その場所を作ったのだ。
「僕も、僕が休める場所が、ほしいな」
ふと、そんな言葉が漏れていた。それは本心だった。僕は人のためにこうして店を開いているけれど、でもこれは、僕の願望でもあったのだ。こんな場所で、ずっと現実を忘れていたかった。
「でも、君たちがいるおかげで。最近は、ずっと心が安らかだよ」
それも本心だった。彼女たちが現れてからの僕の心は平穏そのものであった。それまでの僕の心は、疲れ切って、冷たくて、ささくれ立っていた。目的もないままに生きることに疲弊して、もがくこともできず、ずぶずぶと泥の沼に落ち込んでいくかのようだった。
お姫様の手が、そっと僕の頬に伸びてきた。
「ご安心ください。マスター」お姫様は静かに言った。「私は、ここにおりますよ」
ありがとう。と、言葉にならないくらい小さくつぶやいた。こんなところを誰にも見られたくないなと思ったが、きっとこんなに薄暗い店内じゃ、誰の目にも見えていないだろう。少しだけ、と僕はその手の感覚をじっと受け入れた。
からん、と扉が開く音がした。お客さんがきたようで、僕は若干焦り気味にお姫様から手を離した。少し、名残惜しかった。
「こんばんは……、って、山上さんですか」
「ご挨拶だな。どうも。今日は普通に客として来た。なにやら取り込み中だったようだが」
「いえ、たいしたことでは」
僕は首を振った。山上はこの前のを頼むよ、椅子に腰掛けながら言った。
「この前に来たときより、大分店が暗いね。他の席が見えないくらいだ」
「そういう趣向ですから」
「悪くない」
いつもの調子で酒をつくり、グラスに注いで差し出した。山上は優しく受け取った。
「このオリジナルのカクテル、名前がないんだってね」
「そうですね、まだ、決まってません」
「どうして。意図的に決めていないのかな」
「どうですかね」山上はこの前のように僕に目を合わせてはこなかった。「たしかに、決めなくてもいいような気はしています」
「そうか」
山上は小さく口を付けた。しばらく、無言のままだった。
「中々、難しいものだね」
「……?」
「私は君と、どう話して良いか分からない」
それは話題が見つからない、というような可愛らしい意味でのものではなさそうだった。山上は笑っているのか困っているのか分からない表情だった。
山上の手が、震えているのが見えた。が、僕は特に何も言わなかった。前に来たときもそうだったが、山上は僕に何か伝えたいことがあるようだった。けれど、その伝え方が分からないようであった。
「どうしたんです? ご主人様」
メイドがひょっこりと横から顔をだしたので、なんと答えようか迷ってから、僕は肩をすくめた。
「困っているようだ」
僕がそう言うと、メイドは一旦僕の顔を見てから、山上の方をちらっと見て、もう一度僕の顔を見てから、口を開いた。
「私がお話を聞きましょうか」
しかし山上は遠慮したというよりは断るように小さく手をあげた。
「君じゃだめだってさ」
「あやま、残念。そしたら、お姫様にお話を聞いてもらうのアリですね。彼女聞き上手ですよ」
メイドが指さした方向、カウンターの奥の席の暗闇に、山上はじっと目をこらした。
「……そうか、さっきはあのお姫様と話していたのか」
山上はしかし、どこか納得いかないような顔をしていた。山上はうわごとのように、何度か「お姫様」とつぶやいた。
「あ」
そして何かに気付いたような顔をしてから、山上は唇を舌で舐めた。
「そうか。……そういう、ことか」
山上は何度か深呼吸をしてから、その後すぐに店をでていった。
翌日、店の常連が自殺をはかったということを知った。
ヨウコさんだった。