【11】 毒の花
榊原先生にまた呼び出されたのは、事故現場を訪れた日から一ヶ月後のことだった。いつのまにか冬も終わりを迎えているようで、外は段々と春の陽気に変わっていた。
今回は車に乗せられることもなく、私は先生の研究室へと通された。研究室は学生だった頃に幾度か訪れているが、その時とほとんど変わりがなかった。整理されているようなされていないような適当さに、榊原先生らしさと懐かしさを覚えた。
「さて、君は私のゼミ生だったわけだが、植物についての知識はまだ残っているのかね」
「ゴボウの花言葉は、いじめないで」
「よく覚えてるなあ」と榊原先生はにやけた。
榊原先生は机のある窓際の椅子に腰掛けた。机の上には花瓶が置いてあって、白い花が差してあった。
「では本題だ。ナルコティクスについて講義でやったのは覚えているかな」
私はおやと思った。出だしの話にしては、少し物騒だ。
「麻薬のことですね。よく覚えていますよ」
麻薬。摂取することで一時的に人間の脳に強い影響をあたえる薬物の総称。現在日本では、医学的に使用するものを除き、そのほとんどは使用を硬く禁じられている。
「うむ。そのうち特に講義で取り扱ったものは?」
「アヘン、モルヒネ、ヘロイン」
「昔も思っていたが、やはり君は優秀な生徒だ。そのまま院生になって僕の助手をしてくれれば私も少しは楽をできたのに」
榊原先生はわざとらしくため息をついた。この麻薬についての講義は榊原ゼミの中でのみ行われたもので、刺激的な内容であったから、私はよく覚えていた。「たまたま覚えているだけですよ。印象的でしたから」
「そうだろうか。まあ、いい。少し話を聞きたまえ」
榊原先生は、らしくなく、小さな笑みを浮かべていた。
「この三つの薬物はそれぞれ同じく、ケシからつくられる、というのは覚えているかな。ケシから直接採れるのがアヘンで、アヘンから抽出したものがモルヒネ。モルヒネをさらに精製すると、ヘロインになる。順に作るのに技術が必要になるが、効果は手を加える度に強くなる。三つとも有名な麻薬だね」
「はい」
「これらはどれも一度摂取すれば感覚神経に強い影響を及ぼし、多くの場合多幸感を得ることができる。そのため手を出す人間は後を絶たないが、同時に現れる、幻覚や幻聴、意識の混濁や、錯乱、依存といった症状は、死に至る危険や、場合によっては殺人に至る例もあり、ほとんどの国では禁止されている」
榊原先生は机に片肘をついて、顎をさすった。
「こういった薬物はケシに限らず、いくつかの植物から精製されることは君も知っているだろう。有名なものであれば、コカインや大麻。タバコだってその一種だ。が、実際にはおそらく君や普通の人が思っているよりも、多くの植物に、この類いの毒性は含まれている。アルカロイドって言ってね、植物塩基なんてよばれるんだけど、実に植物の二割くらいには含まれているとのことだ。アルカロイドがいったいどうして植物の中で精製されるのかは諸説あるのだけれど、防御機構としての存在って説でね、つまり捕食されたりするのを防ぐため、なんて言われてる。ジャガイモの芽に含まれるソラニンや、タバコのニコチン、カカオのカフェインなんてのは、聞いたことがあるだろう? あれもアルカロイドの一種だ」
私は大学生に戻ったような気持ちで、榊原先生の話を聞いていた。
「アルカロイドは毒であるから、人体が摂取すれば当然異常をきたす。アルカロイドそのものは生物の多くが毒として保有しているが、特に植物性のものは幻覚症状をもたらすことが多い。原始的な民族ではこれらをつかってトリップし、儀式をとりおこなっていたりするね。日本においても、過去において逸話とされる心霊的現象や巫女、降霊のような事象は、実はこういった幻覚性の作用を利用していることも多い」
前に本で読んだことがあったな、と思い出していた。今でこそ麻薬は禁止とされているが、昔は案外人の身近にあったのだ。
「さて、前振りはこんなものかな」
「前振りですか」
「先日我々が事故現場に向かった際に見つけた花を、君は覚えているかね。これだが」
榊原先生は机の上に置いてあった花瓶を指さした。言われてみればたしかに、この白い花に見覚えがある。
「新種とか、言っていましたね」
「そう。そして実際にそうだった。見たところ虞美人草、いわゆるヒナゲシに似ているが、茎や花弁の形が少し違う。もう少し詳しく見てみなければ分からないが、すくなくとも、新種、もしくは亜種の類いであることは間違いない」
私もその花を少し近くで見てみた。たしかにヒナゲシに似ている。が、私にはあまり違いは分からなかった。
「これがただの新種、もしくは亜種であるだけならばまだいい。しかし、どうもこの花は、それだけではなさそうだった」
「それだけではない?」
「この花は、おそらく。花弁にも、茎にも、葉にも。強いアルカロイドを複数含有している」
私は少し眉をひそめた。強いアルカロイドを保有している。先ほどの話が前振りだというのなら、それはつまり、この花が毒を持っている、ということ。
「おそらくというのは、まだはっきりと調べが付いていないからだ。しかし、ほぼ間違いないと思っている」「なぜです」「先日、私は自らこの花の一部を、食べてみた」
「えっ」さすがに驚いて、私は榊原先生の顔を見てしまった。
「精製したものではないから、そこまで強い影響はでないものと思っていたが、実際には想像以上に私の頭を侵してくれたよ。驚くくらいはっきりとトリップした。私は麻薬というのを一度もやったことはないが、たしかに強烈な多幸感もあったね。ヘロインを摂取すれば人間一生分の幸福感を一瞬で味わえる、という表現はあながち間違いではなさそうだった。まあ私はすぐに用意していた鎮静剤を打ったけれど、それでも一週間はまともに頭が回らないくらいにはなったね。この一ヶ月君にすぐ連絡を取れなかったのも、この花の研究が進んでいないのも、つまりはそのせいで伏せっていたからなのだ。いや、久しぶりに本当に死ぬかと思ったよ」
ははは、と榊原先生は暢気に笑いながら言った。私はまったく笑えず、唖然としていた。
「ん? ……鎮静剤を用意していたということは、すくなくとも、口にする前にその可能性を考慮していたということですか」
「いいところに気付くね、その通りだ」
榊原先生は笑顔で頷く。
「私はこの花が、何か特殊な作用を持っていることを最初から考えていた。そうでなければ、説明が付かないからだ」
「説明……?」
「あの事故について、だよ」
はたと、私は停止した。
>「僕はね、この水に何か含まれているんじゃないか、と考えている」
> 私は眉をひそめた。「何かって、何です」
>「君の言う、外的要因だ」
「あのわき水に……、この花の成分がまざっていた、とでも、おっしゃいますか」
「そうだ。そしてそれならば説明もつく。あのわき水を飲んでいた三人は、既にこの花の……、そう、毒に侵されていた。少量を食べただけで人が一ヶ月伏せるような毒ならば、水に混じったものを摂取しただけでも人体に影響を出すことにそう違和感はない。あの場所にあの時間三人がいるためには、外的要因が必要だ、と君も言っていただろう。私もそう考えた。私は消去法であのわき水に何か含まれているものと考えたが、それ自体はなんの根拠もあったわけではない。しかし水を持ち帰って調べた時に、その透明な仮説は現実味を帯びた。水には含まれていたのだよ。本来含まれてはいないはずの、塩基がね」
にわかには信じがたい話だった。私は何度か目をしばたたかせて、話を理解しようとした。
それが実際にアルカロイドか否か、そしていったいどの種類なのかについてはまだわからないと榊原先生は付け足した。
「……では三人は、幻覚でも見て、あの場所まで移動したと?」
「いや、私は幻覚ではなかったと思うね。もしかしたら見ていたかもしれないが、どちらかといえば、依存症状だったのだと思う。花の毒を摂取するために、わき水の場所まで向かったのだ。三人は花の存在をしらなかったが、わき水が欲求を満たしてくれることには気付いていただろう。だからわき水を飲もうとしたのだね。そうであるとすれば、言いつけをやぶってあの時間あの場所に居たことにも少しは説明がつきそうだと、思えてはこないかね」
「信じがたいことです」
私は震えた。そんなことで説明がつくはずがない、と思いながら。
しかしそれは紛れもなく、外的要因になりうるものだった。
「私だって信じがたい。そもそもどうやってその毒が水に混じったのかが分からない。何故あの三人だけだったのかというところもいまだ不明。全員が摂取していたのなら、全員に同じ症状が起こったと考えるのが普通だ」
私は、少し考える。その理由は?
「人によってその作用の度合いが違う……?」
「うむ、十分考えられるね」
薬と同じだと考えれば、その可能性は、たしかに。
「すくなくとも、あのわき水は花の毒を含有していた。そしてそれを三人が飲んでいた。なるほど、そこまではわかります」
私は自分にも言い聞かせるように、言葉をつむぐ。
「でも、それなら、警察が気付くはずでは? 司法解剖というのがあるのでしょう。幻覚までおこしているのなら、体に異常が見つかったはずです」
榊原先生は首を横に振った。
「警察は事件性を否定した。そうした以上、司法解剖は行っていないだろう。警察は事件性がない場合、司法解剖に踏み切ることはほとんどない。実際死因が足場による圧死だったのは誰の目にも明らかだったようだし、それ自体はおそらく事実だ。根拠もない殺人の可能性が一瞬見え隠れした程度じゃあ、人手不足の司法解剖医をあえて使うとも思えない」
榊原先生の言うとおり、私は解剖されていないことを知っていた。なぜなら遺族だからだ。
しかし、仮にこの事故の真相が、本当に花の毒だったとするのならば……。
解剖をしていない以上、警察が気付くことは絶対にない。事実は全て、闇に消える。その現実に、薄ら寒さを私は感じた。偶然あの場所に人がいた。理由は不明。それだけが、残る。
「公表すべきです」
「そうだね、もう少し調べたら、私もそうしたいと――」
その時、榊原先生がどこか痛そうに顔を歪めた。
「大丈夫ですか」
「すまない。まだ、毒が抜けきっていないようでね……、体調が優れないのだよ」
榊原先生は、苦しそうな咳をした。私は、その背をさすった。