【10】 プリンセス・メアリー
それからしばらく、僕達はいつも三人で降りてきて、店を開いた。
懸念は杞憂だったようで、客足は衰えることもなく、どちらかと言えば少しずつ増えていった。思った通りお姫様とメイドがいることは好評のようで、それが口コミで拡がった結果のようだった。当然忙しくもなっていったけれど、メイドさんの働きもあって、店は順調にまわっていた。
「マスター」
その日いつものように昼間寝ていた僕を、お姫様が起こしに来た。玄関のチャイムがなっていた。
「ご来客のようです。ビルの前で、待っているようですが」
「来客……?」
珍しいことだった。僕はこの土地にほとんど知り合いを持たなかった。だから僕を個人的に訪ねてくる人間はとても少ない。初めは彩花かと思ったが、それならばお姫様も来客とはいわず、彩花だと伝えるはずだ。僕は首をかしげた。誰だろう。なんとなく、ろくなことではなさそうだなと思ったが、僕はとにかく身なりだけ整えて、ビルを降りた。
外はかんかん照りで、蒸し暑かった。コンクリートが光を照り返し全方位から日光を浴びせかけられているようで、僕は一歩出てすぐに顔をしかめた。
「どうも」
そんな中、暑さなど感じていないかのような涼しい顔で、男が一人立っていた。案の定、見覚えのある人物ではなかった。男の声は腹の底によく響く低い声で、その大きな体と相まってか若干威圧的に感じられた。ビジネスマンのようなワイシャツにスラックスといった出で立ちであったが、引き締まった体格を見るにどちらかというとボディガードのような印象を受けた。名刺を差し出してきたので、僕はそれを受け取った。
「山上さん……ですか」
勤め先は、どうやら商社のようだった。体の調子が悪いのか、少し頭痛がした。
「事前の連絡もなく押しかけてしまって申し訳ない。少しお話を伺いたいのだが、今は大丈夫だろうか」
有無を言わせぬ口調だった。あまりこういう相手は得意ではない。
「ええ、まあ、構いませんが」
「ありがとう。……この近くに喫茶店か何かはあるかね」
「喫茶店というか、ウチがやってるバーならありますが」
「バー?」山上は二階を見上げる。店の看板を見つけたようだった。「ほう。ぜひ、邪魔しよう」
山上は店に入ると、一度立ち止まって興味深そうに店内を眺めた。開店時間ではないので、店内は逆にいつもよりも明るい。
「良い趣味だ」
「どうも」
カウンターの席に案内したのだが、おやと、山上は奥に掛けられた絵を見て立ち止まった。
「この絵は……」
それは、僕が昔描いた油絵だった。山上はじっとそれを眺めていた。そんなに大層な絵ではないので、ちょっとばかり恥ずかしく思った。絵から離すようにそそくさと山上をカウンターの椅子に座らせ、僕はカウンターの中へと入った。山上は客ではなかったが、どうもこうしないと落ち着かなかった。
「何か飲みますか」
「それは後にしよう。私は話をしにきたのだ。まずはそちらを片付けたい」
何も出さないというのも据わりが悪かったので、とりあえず僕は水だけ出してやることにした。山上は小さく礼を言った。
「話というのは、他でもない。例の建設工事の、事故についてだ」
山上はカウンターの上で手を組んで、じっと僕の目を見据えた。さっきまでよりも、はるかに鋭い目付きだった。
「……今更その話ですか」
一度口を閉じて間を置いたが、山上は黙って僕のことを見ているだけだった。
「その件について、話せることはもう話しましたよ、警察に」
「ああ。この事故に関わってしまった全ての人間は、事故直後警察による事情聴取をされている。当時貴方も、そこで話せることは全て話したことだろう」
「……」
「しかし私はもう一度、その時の話を聞きたい」
僕も山上も、相手から目を離さなかった。
「山上さんは、警察の方ですか」
「違う。警察ではない。名刺を見てもらえれば分かるとおり、私はしがないサラリーマンだ。私は個人的に、この事件について捜査をしているにすぎない」
「事件……? 物騒な言い回しですね。あれは、事故だったのでは?」
「失礼」と山上は言ったが、否定も肯定もしなかった。
「この件について、貴方の知っていることを聞きたい。話していただけないだろうか」
「正直、あまり思い出したくないことですし、話す義務もありませんね」
山上は深く頷いた。
「気持ちは察する。しかし、どうかお願いしたい。私にできることならばどんな礼でもしよう」
山上の目は真剣で、なにか強い意志があるようだった。
「山上さん、貴方は一体……」
「私は、真実を知りたい」
「僕の話が参考になるとは思えませんよ」
「それでも構わない。少しでも、真実に近づけるなら……」
強い瞳に、僕は根負けした。おそらくこの男は、不幸な形であの事故にかかわってしまったのだろう。そうなると、無下にもできない。
仕方ない。あたりさわりない程度に、話すとしよう。
話は三十分程度でおわった。事故当時のことと言っても、僕が人に話すようなことはそんなに多くはなかった。僕はたしかに関係者ではあるけれど、部外者といってもさしつかえなかった。話の内容もどちらかというと、事故当時のことよりも事故についてどう考えているかというところばかりになってしまった。
山上はじっと話を聞きながら、いくつかの簡単な質問をするだけだった。
「ありがとう。話してくれて」
「いえ。こんな話で、参考になりますかね」
「十分だ。私はどちらかというと、警察の発表したものではなく、自分の耳で事の次第を聞きたかっただけだから」
そうですか、と僕がつぶやくと、話はそれで終わった。僕もそれ以上踏み込もうとは思わなかった。
「さっきから気になっていたのだが。その後ろの、創作のカクテル、というのは」
「ああ、これですか。最近つくったものでして。飲みますか?」
「ぜひ」
僕は軽く頷くと、いつものようにそれを作って差し出した。山上は僕のことを眺めて居た。
「ふむ」山上は一口含むと、舐めるように咀嚼していた。
「独特の味はするが……、これは、プリンセス・メアリー、だな」
わざと材料を隠しながら作っていたのだが、ばれてしまったようだった。僕は素直に首肯した。
「ほとんど別物になっているが、分かるよ。私は甘い酒が好きでね、アレキサンダーやプリンセス・メアリーはよく飲んだ」
アレキサンダーとは、ブランデーをベースにカカオリキュールと生クリームを混ぜたものである。プリンセス・メアリーはそのベースをブランデーからジンに変えたもので、かつてさるお姫様のために創られたカクテルだった。僕はその名前が特に気に入っていて、甘いものが得意ではないくせに、昔からよく飲んでいたものである。だから僕はこのプリンセス・メアリーをベースにオリジナルカクテルを創った。それはほとんど必然だった。
「山上さんは、お酒をよく飲まれる方ですか」
「そこそこ、かな。昔よく酒の話をする人がいてね」
山上は何かを思い出すように小さく口元に笑みを浮かべた。
「しかしこの独特な味は何だろう。全く、分からない。いったい何が入っている?」
「それは企業秘密です」
山上は小さく笑った。「それもそうだな」
「ところで、マスター」
カクテルを飲み終えた山上は、少し真面目な声になった。
「白い花を、知らないか」
「白い花?」
「心当たりはないか?」
山上の目が、また鋭いものに戻っていた。僕は少し考える。
「ないですね」
「そうか」
山上はふっと表情を緩めると、それでもういいのか、代金を置いて席を立った。去り際、山上は何かを言おうとしていたようだが、よく聞き取れなかった。聞き取らせるつもりもなかったようだった。