【0】 序章
いつだったか、歳の離れた知り合いの呑兵衛に「人っていうのは、どうして酒を飲むんですかね」と聞いたところ、「現実逃避だよ、現実逃避」と言われたことがある。
美味いから飲むというのは分かる。酒の席自体が好きな人間もいるだろう。けれど彼は酒をそこまで美味いと思って飲んでいるわけではなかったし、どちらかといえば一人で飲むことを好んでいた。
「酒じゃなくたって、美味いものは美味いし、楽しいことは楽しい。だけど酒だけにしかないもんがある。あれは直接頭ン中をいじってくれる。どっちかっていうと、薬みたいなものでさ、感情の。楽しくないのに楽しくなるし、寂しくったって寂しくなくなる。困っている時ならどうでもよくなったりするし、自分が大きくなった気分にも、なれたりする。そういう、感情そのものみたいなのを、飲むだけで都合良く変えてくれるのが、酒。それこそ、魔法の薬」
ははあ、なるほど。と、僕は頷いた。
「でも、現実には楽しくないことがあって、寂しいことがあって、困っていることとか、悩みごととか、あるのでしょう。なら、酒なんて飲んでないで、どうやったらそれを打開できるのか、について考えた方が建設的じゃないですかね」
僕がそう言った時、彼が大きく笑ったのは、今でもよく覚えている。
「たしかに、現実は酒じゃあ変わらんね。変わってくれるのなら、そんなに楽なことはない。それでも酒を飲むってのは、つまりただの逃避でさ。最初に言ったとおり、これは、逃げなんだよ。逃げ。逃避。現実なんて、見たくねー、って思うから。酒飲んで忘れる。そういうもん。……でも、私はそういうの、必要だと思うのだよね。無意味じゃないと思うわけ。病は気から、みたいなやつで。気持ちさえ沈んでなきゃ、このよく分からない世界でも、まあ、生きていけたりするもんだと、思うわけ。これ、弱いなりの生き方」
ふむ、と僕は腕を組んでみた。
世の中理屈よりも感情が優先されることがままあることくらい、若かりし僕も理解はしていた。だから実は考えるまでもなく、彼の言い分はすんなりと、腹の中で消化されていた。腕を組んでみたのは、笑われたのが少し気にくわなかったから、というだけだった。
話題はその後、すぐに変わってしまった。それ以外に、あの時どんな会話をしたのかは、よく覚えていない。
僕は元々アルコールに弱かったから、酒というのをそもそもそんなに好ましくは思っていなかった。けれど、この話をしてからは、なんとなく、口を付けてもいいかもな、と思うくらいには、酒に好意的な気持ちになれていた。
どれだけ飲んでみても、結局強くはなれなかったのだけれど、とにかくこれ以降、僕はことある毎に、酒に挑戦をし続けた。
それから数年経って。
自分でもどうしてそうなったのか、よく分からないのだけど。
とにかく僕は、自分のバーを持つことと、相成った。