side.ルクタイール 少女は指のささくれをちぎり取るか2
お久しぶりです。
明けましておめでとうございます。
仕事の繁忙期を死んだように生きていた作者です。
私は仕事を辞めたい。
馴染みの無い訛り混じりの大陸語で発せられたその声は、変哲も無い女性のものであった。
得体のしれなさ故に、ひょっとすると意思疎通なんて出来ないのでは無いかと思っていたルクタイールは、少なくともその言葉がちゃんと聞き取れて理解出来るものであり胸を撫で下ろす。
どんな相手であれ、言葉が通じる者とそうで無い者では安心感がまるで違うものだ。
彼女のように見た事のない摩訶不思議生命体が相手なら尚更だろう。
そう考えるルクタイールは、宙に浮いたまま此方を見下ろすその人物を注意深く観察した。
真っ黒な服を着て、真っ黒な靴を履き、真っ黒な手袋をつけた、真っ黒な髪の、真っ黒な人。
空間に貼り付けられたようにピタリと宙に浮く彼女は、まるで青い空に写った影のようだ。
その中で、黄金色に煌く両の瞳だけが夜闇を照らす満月のように浮いていた。
黒い人間。そう呼ぶのがぴったりとくる。
否、他に形容しようが無い。
ルクタイール達が見つめる中、彼女は別段何をするでも無く、変わらずに、ただこちらを見下ろしていた。
何かに驚いているのか、口を半分開けて目を見開いたその表情は、けれども少し笑っているようにルクタイールには見えた。
木の葉が擦れる音がまるで不安定な笑い声のように聞こえるのは、彼女の奇怪さが錯覚させる幻聴だろう。
とても不気味で、とても怪しい。
姫様達の関係者だとして、やはり何か危険な存在なのでは無いか……。
そうルクタイールが思い始めた時、ララノアがおずおずと彼女に話し掛けた。
「あのぅ……ど、どちら様ですか……?」
「やっば……超絶美少女金髪巨乳エルフ(ミニスカメイド服ver)に話しかけられてしまった。ああ、きっと私今日で死ぬんだぁ……何だあのけしからん胸は……揉みしだきてえなぁ……」
意を決して問いかけたララノアだったが、浮かぶ黒い人はただ訳のわからない独り言を小さく呟いているばかりで、ちゃんとした返答は無かった。
やっぱり、どうにも不審だ。
声が小さくて何を言っているのかは聞こえ無いが、怪しさも危うさもプンプンだ。
無視されたと思って肩を落とすララノアを傍目に、ルクタイールはますます訝しまずにはいられなかった。
「何かブツブツ言ってるわ……」
「ねえねえ、何て言ってるの?」
「うーん……聞こえないね」
「困りました……」
仲良く並んで、手のひらを日差しよけ代わりに空を見上げるマチルデ達も、反応が鈍い彼女の様子を見てどうしたものかと顔を見合わせる。
怪しい未知との遭遇というのに余りにも味気が無い。
片や空に浮かんだままブツブツと独り言を呟き、片やあれは何だろうかと首を傾げるのだ。
まるで初めて蝶を見つけた子供のようなララノア達の反応に、どうにも呑気なものだとルクタイールは息をつく。けれども、そんな彼女とてどうしたものか判断にあぐねているのが現状であった。
恋人とのイチャイチャデート中に両親と出会したかのような微妙な空気が漂う中、やがてその真っ黒な人物は「お邪魔します」という声と共に彼女達のいるテラスへ降ってきた。
どのようにして浮いていたのかは定かではないが、その着地は何とも乱暴なもので、浮遊感の欠片も感じさせない不安な墜落だった。
自然落下に任せて、ドカッ……!だ。
咄嗟に身構えるルクタイールは、着地と同時に爆発したりするのではないかと戦々恐々だったがそんな事は無く、板張りの床をゆらして降り立ったその人物は、よれた衣服を数度叩いて伸びをする。
枝葉がポカリと大きく空いた空から射し込む陽光が作る明るい陽だまりの中にいて、彼女は人形に切り抜いた暗い夜空のようだった。
木の葉を鳴らす優しい風や、陽に照らされた木の匂いや、そんな周りの全てから何処かズレた歪さ。
明るいもの全てを拒む様に、旗また吸い込む様に、決して混じら無い境界線を伴って彼女はそこにいた。
どう見たってこの世ならざるものだ。
けれども、深く息を吸ってから心地よさげに小さく声を漏らすその姿は余りにも自然で、声も、仕草も、まるで人と変わらない。
そんなあべこべさがその人物にはあった。
やがて彼女は乱れた腰程まで伸びた長い髪を鬱陶しそうに片手で梳きながら、ルクタイール達の前まで駆けて来くると明るい声色で喋り始めた。
「始めまして、こんにちは。『邪悪なる者達』の一人、ルルです。好きなものはオッパイだよ、よろしくね」
「突然何言ってんだこの人」
余りにも独特な彼女の自己紹介に唖然としながらも、何が飛び出してくるかと気を張っていたルクタイールは何だか肩透かしを食ったような気分だった。
調子が狂うと言おうか。
見るからに不審者で、自らを『邪悪なる者達』などと称しているが、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべる彼女からは邪悪さなんてものは感じ無い。
おまけに初対面でオッパイが好きだなんて公言して憚らないのは、どう受け取れば良いものか……。
わけがわからない。
ルクタイールの率直な心象は、バk…………能天気そうだな。だった。
そんな事だから、恐ろしい存在なのでは無いかというルクタイールの憂いが、早くも奇遇なのでは無いかという考えに変わり始めたのも仕方が無いと言えよう。
近くから見た彼女は背丈も体付きも二十歳前後の人間の女性そのもので、顔もよく見れば目鼻立ちが整った優しそうな美人だ。
ただ、闇のように黒い肌と、綺麗な黄金色に煌めく瞳を除けば、自分達と何ら変わりないようにルクタイールには思えた。
声色や仕草からだろうか、ただ自己紹介をしただけなのに彼女からは不思議と親しみやすさを感じたのだ。
煮え切らないあやふやな表情を浮かべたルクタイールが見つめる中、ララノアとアドマリアヌが彼女と話し始めた。
「ルルさんですか。始めまして、私は吸血メイドのララノアです。ララと呼んでください」
「まじ?ルルとララって凄まじいコンビ臭するね。運命的にしっくりくるわ」
「ふふふ、確かに似たお名前ですね。宜しくお願いします」
「宜しくね」
「ねえねえ!ルルちゃんは何で黒いの?」
「けも耳ロリっ娘よ、気になるかい?これは日焼けだよ。私は日焼けしやすい体質なんだ」
「えぇ〜嘘だぁ〜!」
「ほんまやで。日サロ帰りやねん」
「……?何それ?」
「そこに行くとすぐに日焼け出来るんだ。砂漠みたいなもんかな」
「へぇ〜変わってるね」
「でしょ?格好いい?」
「うん!」
「あぁ〜かわええロリやな」
二人は警戒する素振りも無く平然とした様子でルルと談笑を始めた。
リューディアは腕を組んでララを見つめ、マチルデはニコニコと頷き、ユリアはぽけっと突っ立っている。
そんな中、ルクタイールは少し驚いていた。
社交的で礼節を重んじるララノアは置いておくとして、子供らしく初対面の人に対して人見知りするアドマリアヌが、臆せずに何時もの調子で話し掛けるなんて大したものだと思ったのである。
ルクタイール達だけでいる時は何時も喧しい彼女だが、初めて会う人の前では途端に静かになってマチルデかララノアの後ろに隠れてしまう。
そうして、一言二言交わして怖くないと分かると、今度は何時もの調子で燥ぎ始めるのだ。どうにも、彼女は初対面の人物を相手に話すのは緊張してしまうらしい。
三日前にそんな彼女の意外な一面を見てルクタイールは可愛いものだと微笑ましく思ったが、今日はそれが無いでは無いか。
ささっとララノアの後ろに隠れる事もなければ、そこから顔だけ覗かせてゴニョゴニョと挨拶をする事もないのだ。
今日が特別なのか、話す相手が特別なのか……。
「子供は共感性が強い。相手の人となりをよく見ているし、よく見抜く」と何処かで聞いた事があるが、ならばアドマリアヌと今も楽しげに会話しているルルはどうだろうか。
そう考えるルクタイールだったが、相変わらず得体は知れなくとも、やはり彼女の言動からは「能天気そうだな」「良い人そうだな」程度の感想しか浮かばなかった。それ以上でも、以下でも無い。
所詮は少し話しているのを隣から見ていただけだが、少なくとも彼女の印象は良いものだったのだ。
「ああ……えっと、貴女はエディルア様の眷属か何かなの?」
楽しげに会話する彼女達に横槍を入れるようで少し憚られたルクタイールは、おずおずとした調子で尋ねた。
せめて、確信をもって素性が知れる程度の安心が欲しかったのだ。
そんなルクタイールに対して、アドマリアヌの頭を撫でていたルルは少し考える素振りを見せた後に、ごく真面目な表情を向けた。
「パシリ、駒、下僕、肉奴隷、サンドバッグ、ゴミクズ、好きな言葉で呼ぶと良いよ」
「そんな悲しい事があるか」
あっけらかんと言うルルに、ルクタイールは驚きと呆れと戸惑いが綯交ぜになった、よく分からない表情を浮かべた。
そうして、わけがわからないが、きっと彼女なりの冗談か何かなのだろうと納得する。
後半なんてただの口汚い罵りであったが、その言い様からするにやっぱり彼女は黒死の龍の眷属みたいなものらしい。
『邪悪なる者達』とはその総称なんだろう。
黒死の龍の眷属なんてさぞ恐ろしい存在なんだろうが、ルルを見ているとルクタイールにはどうも形無しに思えた。
邪悪さのかけらも無いでは無いか。と。
「ははは。冗談だよ冗談。うん、眷属で良いよ」と言って、ケラケラと笑うルル。
その呑気な様子に、ルクタイールは肩が凝るのも馬鹿らしいと緊張していた身体の力をぬいた。
悪い人では無さそうだし、アリスが信頼を置く黒死の龍の眷属ならば警戒する必要なんて無いだろう。
落ち着いてみれば、見てくれと言動が少しおかしなだけで優しく親しみやすい良き人物では無いか。
そう考えると、何故彼女を危険視していたのか疑問に思えてくるのだから、人が感じた他人の印象なんて存外適当なものなのかもしれない。
そもそも、姫様達の関係者だという事は察せられたのだから警戒なんてする必要は無かった。
寧ろするべきでは無かったとも。
現に、ルクタイール以外の面子は皆その素振りすら見せなかったでは無いか。
(エディルア様の眷属なら、私達の家族も当然じゃない……)
全く、何をあんなに心騒いでいたのやら……。
あの闇を見たから興奮し過ぎていたのかも知れない。
そんな事を考えながら、楽しげに話すルル達を手摺りに凭れて眺めていたルクタイールだったが、ふと、彼女はある違和感のようなものをおぼえた。
それは、道端に咲いた花の房が落ちるのを見て残念だと思ように、一瞬だけ頭の隅っこを過ぎったほんのわずかな落胆だった。
(ああ、何だ……)と。
ルルが友好的で良かったと思いつつも、けれども当てが外れて少しだけ残念だと思う自分がいるのだ。
彼女達がもし、名前通りの邪悪な存在だったとしたら……。
自分達に害を成す存在だったら……。
吸血鬼になった今は分かる。
ルルはきっと圧倒的な強者だろう。
そんな彼女と、闘ってみたかった。
唐突に何処かから湧いてきたわけのわからない矛盾に、ルクタイールは戸惑った。
あの闇を見たばかりだ。
当然、何が起きても良いようにと警戒心を持ってはいたが、けれどもルルが暴れ始めてそれと戦うなんて事態を望んでいたわけでは無い。
そんなものは彼女が想定した中でも最悪な可能性の一つだった筈だ。
彼女は常に最悪を予想して行動するほど慎重派というわけでも悲観的というわけでも無かったが、人並みの防衛本能と危険予知的な思考を持っていた。
もしかするとそんな事があるかもしれない。だから気を構えておこう。
そんな当たり前な想定で、刺激を求めたわけでも破滅願望があるわけでも無く、決して望んだわけではない。
今となってはそれは無用な心配だったと分かるが、それだけだ。
あの時、ルルと闘いたいなどという考えは持っていなかった筈だ。
けれども、何故かほんの少し、ルクタイールは残念だと感じた。
それは彼女にとって僅かな違和感に過ぎなかったが、胸の隅っこに引っ掛かかったまま剥がれず次第に大きくなるそれに、指先に出来たささくれのような煩わしさを覚えた。
そんなものはふとした感情の起伏だろう。さして気にする事では無い。
楽観的にそう割り切れない彼女は、靄が掛かったようにはっきりとしないそれがどうにも気に入らなかった。
(なんでだろ……)
考えるが、その理由も、原因もてんで思いつかずに、自分の心情すら分からないものかとルクタイールは嘆息する。
暫く、ぼうっと自分の手を眺めていたルクタイールは、また独り考えこんでいる自身に気が付いて呆れたように一つ息をついた。
どうにも、自分はしばしば考え事に耽る癖があるようだ。
取り立てて、今日は朝から多いような気がする。
ルクタイールは「今まではそんな事、無かったのにな……」なんて少し不思議に思ったが、いつからだろうかと思い返してみれば、何て事は無い、今朝からだ。
どうも今日は特別、ぼうっと頭が冴えない日らしい。
それとも、情緒不安定になっているのかもしれない。
とまれ、皆で楽しく話している中で独りだけ黙りこくってぼうっとしているのはおかしいだろうと、邪魔な考えを振り払うように頭を振る。
ルクタイールはそうして、すぐ側から暖かな風に混じって聞こえてきた笑い声に振り向いた。
時折吹く柔らかい風が午後の暖かな陽射しを木の葉と一緒に巻き上げる、見晴らしの良いウッドテラス。
そこには変わらずララノア達と楽しげに話すルルがいた。
黒死の龍の眷属で、能天気そうな黒い人。
相変わらず見てくれは影が立ち上がっているかのようで異質なのに、楽しそうにアドマリアヌの頭を撫でる彼女はやっぱり能天気で、優しそうだった。
(何よ私……危ない人じゃ無くて良かったじゃない)
考えるまでも無い事だ。
危険な目に会う事も無ければ、自分達は呑気にお茶会の続きが出来るのだから。
何だか途端に悩む事が馬鹿馬鹿しく思えてきたルクタイールは、さっき感じた不可解な違和感と一緒に、警戒心を凭れていた手摺りの向こうへ投げ捨てた。