side.ルクタイール 少女は指のささくれをちぎり取るか1
ルクタイール・ゲルドは今朝からずっと気を揉んでいた。
吸血鬼の国、全ての街が完成したのが昨日の事だ。
夜の祝会の準備が始まるまでは暇なのであるが、久方ぶりに自らの身に訪れた自由な時間というものに、彼女はどうしようもない焦りにも似た戸惑いを感じていた。
というのも、長く自由というものに触れていなかった彼女にとって、何も無い時間は不安を覚える程に慣れないものであったのだ。
落ち着かない心持ちで椅子から立ち上がっては、けれども手をついたテーブルの縁を指でなぞりながら何をするべきか頭を悩ませ、結局何も思い付かずにまた椅子に腰を下ろす。
立ち上がっては悩み、座っては悩み、朝からずっと繰り返す自問自答の中で、『さて、何をしようかな?』という簡単な問に対する彼女の答えは未だ出ないまま、陽はそろそろ天上に差し掛かろうとしていた。
(いつまでこんな事してるんだろ……)
最初から数える事などしていないが、きっと数十は繰り返したであろう無意味な反復。
立ち上がったままテーブルの木目を眺めていたルクタイールは、いい加減そんな自分自身に呆れを感じつつ、今日何度目かのため息を漏らしながらオークのウッドチェアにまた腰を下ろした。
そうして、小さな唸りと共にテーブルに腕を投げ出して突っ伏した彼女は、明るい陽が差し込む木組みの室内を眺める。
木製の棚と机とベッドだけが置かれたシンプル過ぎるその部屋は、彼女が作った街の中に建つ彼女の家の自室だ。
憧れや、思い出、そして少しの拘りを詰め込んで彼女が作った真新しいその風景は、けれどもまだ、ルクタイールにはまるで夢の中の光景のように感じられる。
自分の身ひとつとってみてもそうだ。
傷一つない清潔な身体に、シワ一つないまっさらな洋服。
窓の外の暖かい陽気と、心地良い木の香り。
今は汚物に塗ることも、苦痛に唸ることも、空腹に喘ぐ事も無い。
自身を包む確かな現実が、それを実感すればする程、彼女には幻のように思えてしまう。
敬愛する姫様達が、腐った地の底から引きずり出し、死ぬ事でしか生きられないと考えていたボロ雑巾のような自分に全てを与えてくれたあの日から四日経った今でさえ、ルクタイールの心は現実味の無いフワフワとした感覚に包まれていた。
暖かい食事も、柔らかいベッドの感触も、友と交わす楽しい会話も、痛みの無い身体の感覚さえも、彼女は忘れて久しいのだ。
テーブルの木目に沿って指でなぞりながら新品の椅子に腰掛けたままの彼女は、そんな自分をまるで右も左も分からない産まれたての赤子のようだと自嘲した。
これまでの自分の人生とはまるで違った新たなそれは、文字通り、彼女にとっては自身が生まれ変わったと意識するには十分なものだった。
何でも出来る自由な身になり、いざ何をしようかと悩み始めれば、結局何も出来ずにずっと頭を抱えてうんうん唸っているなんて、20を目前にして滑稽な赤子もいたものだ。
そう心中で苦笑する彼女は、けれどもそんな自分を決して悲観する事は無かった。
今の自分をほんの少しだって否定するような事は彼女はしない。
それはルクタイール・ゲルドにとって、この世のどんなものよりも罪深い事であった。
否、それ以上に、今の彼女は悲観していられる余裕が無いほどの喜びや楽しみに満ち溢れていた。
ただ、暫く、彼女には慣れる時間が必要なだけで、それに気が付かない彼女はモヤモヤとした心地にまた短く息をつくのだった。
「ララ達は何してるかな……」
このまま、今夜のお祝いの準備が始まるまでぼうっとしていようかと思い始めた頃、ふとルクタイールの口からそんな呟きが漏れた。
静かな部屋の中に木霊することも無く、ガラス窓から差し込む昼間の陽気に溶けて消えたその言葉に返事をするものはいない。
両手で頬杖を突く彼女が机の表面の木目の数を数えながら何気なく思い浮かべたのは、あの時自分と一緒に助けられた五人の事だった。
ララノア・アグラレス
アドマリアヌ・スルグ・エグルバ
ユリア・ラザレス
リューディア・ロストフ
マチルデ・デミトロ
故郷も、家族も、友人も、知人も、全てを失ってしまったルクタイールにとって彼女達は謂わば郷友のような存在だった。
同じ場所で共に痛みに耐えてきた好というのもあるが、ルクタイールにとって気兼ねなく話せる者は、この三日で特に仲良くなった彼女達位のものであったのだ。
彼女達とは昨日、お互いに作った街を案内した際に顔を合わせたばかりであったが、一度彼女達の事を考えてしまうとどうにも寂しさのようなものが胸中に込み上げてきて、ルクタイールはまた一つ息をつく。
彼女達は久方ぶりの自由な時間を満喫しているのだろうか?
それとも、自分と同じように、何をして良いか分からずにやきもきしているのだろうか?
(皆何してるだろ……遊びに行ったら迷惑かな?)
きっと人恋しさというものだろう。
1217個目の木目を数えながら、ルクタイールがうずうずとそんな事を考えていた時である。
不意に、階下から高いベルの音が聞こえて来た。
聞き慣れないその音にビクリと背筋を震わせたルクタイールは、それが来客を知らせる為のベルの音である事を思い出して焦ったように顔を上げた。
誰かが自分を訪れて来たのだ。
そんな事にすら動揺して身体を強張らせた彼女は、部屋の扉を見つめたままどうしようかと息を詰まらせる。
「クティー居ますかー?」
そして、少し遅れて窓の外から聞こえた自身の名を呼ぶ声に、ルクタイールは今度は弾かれたように椅子から勢いよく立ち上がった。
(……ララ!?)
聞き覚えのある声だった。
立ち上がった拍子に椅子が倒れた事も気に留めず、急いで窓に駆け寄ったルクタイールは、それを勢いよく開け放つと暖かく差し込む陽の中に身を乗り出した。
急激に明るくなる視界の中、そうして見下ろした家の前のレンガ道にいたのは、彼女と同じメイド服を身に纏った五人の女性達だった。
背の高いエルフの女性。
狼獣人の幼い少女。
物静かな猫獣人と人間のハーフの少女。
長い髪を左右で結った人間の少女。
そして、スラッとして中性的な印象を受ける人間の女性。
紛れもない、つい先程ルクタイールが考えていた郷友達がそこにいた。
玄関の前に立って何かを楽しげに会話している彼女達を見て、唐突な偶然に運命めいたものを感じつつ、彼女は喜びと困惑が入り混じった声を上げる。
「ど、どうしたの皆?」。
意図せず頭上からかけられたその声に驚いたように見上げた五人は、そして二階の窓から身を乗り出したルクタイールに気が付いたようだった。
「あ、クティ!今お暇ですか?」
「え……?暇……だけど……」
「お茶会のお誘いだわ」
「今から皆でララの所にいくんだ。クティも一緒にどうかな?」
嬉しそうな笑みを浮かべたララノアの質問の意図が分からず戸惑うルクタイールに、リューディアとマチルデの二人が楽しげに要件を告げる。
どうやら彼女達はこれからお茶会をするようで、そのお誘いに来てくれたのだという。
暫く彼女達の言葉を反芻し、そしてそれを理解したルクタイールは次第に自分の頬が熱くなるのを感じた。
言わずもがな、嬉しかったのだ。
そんな自身を、まるで恋する乙女のようだとルクタイールは思ったが、けれども今はどうだって良い。
「行くわ!」
徐々に湧き上がる高揚感を抑えられず、隠す事なく喜びを顔に貼り付けた彼女はそう二つ返事で頷いたのだった。
ララノア・アグラレスの家は六人の中で最も城に近い街にある。
驚く程に巨大な大樹が五本、円を描く様に聳えたつその場所には、ララノア以外にも数十人のエルフの吸血鬼達が暮らしていた。
と言うのも、彼女達エルフは皆樹の上に住居を造り生活するらしいのだ。
地上で生活する人間達からしてみればよく分からない習性であるが、それはエルフ以外の種族にも周知の事実として知れ渡っている事で、勿論ルクタイールも話に聞いた事はあった。
この街の大樹の麓に立って見上げてみれば分かる。
幹をくり抜いて造られた家や、太い枝にぶら下がるように造られた家など、様々な住居が大樹にくっついており、いたる所に吊橋や階段、梯子などの通路が迷路のように張り巡らされている。
昨日、ララノアに案内されて初めてその光景を見た時は、まるでお伽噺に登場する妖精の住処のようだと思ったルクタイールだったが、聞けばこんなに大きな樹は無くともやはり何処のエルフの里も同じようなものであるらしく、彼女達にとってそれは見慣れた光景のようであった。
何処か神秘的だと感じる反面、面倒な事も多そうだとルクタイールには思えたが、エルフ達がこぞってこの場所を造り住みついている所を見るに、彼女達にとってはこの生活スタイルこそが理想なのだろう。
そんなエルフ達の街(?)の中、ルクタイール達は他愛もない会話を交わしながら、ララノアの先導の元、一つの大樹の頂上付近に位置する見晴らしの良い場所に建てられた彼女の家までやって来た。
大きく太い枝の上に造られたそれはツリーハウスと呼ぶには立派過ぎるもので、玄関の裏側にテラスが張り出した二階建ての可愛らしいログハウスであった。
家の頭上はそこだけポカリと枝葉が途切れ、隙間から射し込んだ光が明るくその外観を照らし出している。
ララノアに招かれるまま彼女の家に上がりこんだルクタイール達は、「天気が良いから」と言う彼女の言葉につられテラスに大きめのテーブルを引っ張り出すと、早速用意したお茶と菓子を広げて和気あいあいと他愛もない話を始めた。
「独りの自由な時間なんて、何をして良いか分からないわ」
左右で結った長い髪を撫でるように梳きながら、リューディアが少しだけ恥ずかしそうに言った。
彼女、リューディアは六人の中ではアドマリアヌの次に若い人間の少女だ。
年の頃にして16才と見た目は相応に幼い容姿であるが、天真爛漫が服を着て歩いているかのようなアドマリアヌと打って変わって、彼女の言動からは何処か背伸びをした印象をルクタイールは感じた。
どのような理由があるのかはしれないが、兎角、語尾に「わ」をつけたがる彼女の拘りなんて分かりやすいもので、初めて彼女と話した者は少なくとも少々の違和感を感じる事だろう。
そんな彼女の言葉から察するに、どうやら彼女もルクタイールと同じだったようで、独りきりの自由な時間というものに慣れずにやきもきとしていたようだった。
「リディも?実は私もなんだ」
彼女と思いを共有出来る事を嬉しく思ったルクタイールがそう聞き返せば、リューディアは意外そうに頷いた。
「ええ……意外だわ、クティはそんな事無いと思っていたわ」
「どうして?」
「クティはとてもしっかり者だって印象があったわ」
唐突な、思ってもみなかった彼女の自分に対する評価にルクタイールは驚いた。
これまで生きてきた19年間、自身をしっかり者だなどと思った事は無かったし、そんな事を他人から言われた経験も彼女にはなかった。
褒められているのなら嬉しく思うが、けれども、自分を客観視してそんな事はこれっぽっちも感じ無いだろうと思うルクタイールは、謙遜等でなく首を横に降って苦笑する。
「無い無い。私はどうやら自分で思っていたよりずっと情け無い人間らしくてね……朝から何だか落ち着かなくて、部屋から出ずに椅子に座ったり立ち上がったり、ずっと」
「ふーん。変わった体操だわ」
「…………違うわよ。ソワソワしてたって事」
「ああ」
冗談なのか適当なのか、澄ました顔でティーカップに口をつけるリューディアに、ルクタイールは少し呆れた表情を浮かべた。
背伸びをしているというより、ひょっとすると彼女は元からこういう性格なのかもしれない。
大人びていると言うのか、捻くれていると言うのか……とまれ、年相応に見えないのは確かだった。
「ははは、皆似たようなものだね」
そんなやり取りが面白かったのか、二人の様子を見ていたマチルデがテーブルの中央に置かれた皿に手を伸ばしながら笑う。
彼女はそこからビスケットを二枚摘み取ると、重ねたままのそれを口に放り込んだ。
この場でマナーなど気にする者はきっといないだろうが、そんなものに疎いルクタイールにだって、マチルデのそれはガサツと言うものだと分かった。
行儀が悪いと叱る人もいるかも知れない。
彼女はルクタイールより五つも年上であったが、そうとは思えないさばさばとした性格や口調と所作、そして美人ながらも中性的な外見も合わさって、まるで少年のような人物だとルクタイールは感じていた。
良くも悪くも男らしいのだ。
男装などしようものなら、きっととても似合う事だろう。と、ルクタイールは口には出さないが密かに心に留めていたりする。
そんな彼女がビスケットを美味しそうに咀嚼するのを傍目に、ルクタイールは隣に座っていたユリアに尋ねた。
「そうなの?」
「否定はしない」
彼女は考える間もなく頷いた。
「ユーラは気がついたら私の家のベッドで寝ていたわ」
「ん?」
「忍び込んだ」
「へ、へえ……」
「プライバシーが無いのだわ」
そう、ふくれっ面で講義するリューディアをルクタイールが少し羨ましいと感じたのは二人が仲良く見えたからだろう。
故郷も同郷人も存在しないルクタイールにとって、同じ町出身らしい彼女達が特別親しく感じてしまうのは、きっと、少しだけ羨ましいのだ。
嫉妬でも羨望でも無くて、それは彼女が忘れて久しい複雑な人間らしい感情だった。
「ふふふ、皆考える事は同じですよ。私だって、心寂しいと言いますか、落ち着かないと言いますか……ユリアとリディが遊びに来てくれなければきっと私が皆の所へ行っていました」
「そっか……まあ、私が最後だったのは何だか気に入らないけど」
ルクタイールは小さくそう言って、ティーカップに口をつける。
「あら、ヤキモチだわ。それとも我儘さんだわ」
「ははは、たまたまだよ」
「クティのそう言う所、可愛いですよね」
「……可愛いとか……止めてよ」
「ふふふ、女の子らしいって事ですよ」
「……女の子らしい?」
「確かにそうだわ」
女の子らしい。
(そうかな……?)
ルクタイールにはララノア達の言う事が分からなかったが、そんな和やかな会話の中で、やはり皆が自分と同じような感情を抱いていた事を知り、とても嬉しく思った。
彼女は、そこに絆のようなものを感じたのだ。
同じ事を考え、お互いの事をお互いが思っていたなんて、まるで詩人が詠う物語のようで素敵では無いかと。
友人とは斯くも暖かいものであると。
けれども、同時に、それが元はあの地の底にいたばかりのせいなのだと考えると、何とも言えぬ複雑な気分にもなる。
あの忌々しい年月が自分達の一部を形作っているなど、まして彼女達と自分の一部を繋いでいるなどとは、ルクタイールは認めたく無かった。
彼女達と、もっとちゃんとした、別の出会い方をしていたならば、素直にきっと心の底から喜べただろう。
例えば家が近所だったなら、それとも同じ仕事場だったなら……どんな形であれ、それならば自分は今こんなにも複雑な喜びを感じてはいないだろう。
あの場所で……。
(…………まあでも、もしそうだったなら今こうしてここには居ないか。)
もしそうだったなら、ヘデラ達に助け出される事も、吸血鬼になる事も、敬愛して止まない姫様の下に使える事も、姫様達に出会う事すら無かったかもしれない。
あの場所での事が今ここに至る為の試練だったのかもしれない。というような事をララノアは言っていたが、ならば、そんな意味の無いタラレバは考えるべきでは無いのかも知れない。
過去を否定する事は難しいが、前向きに捉える事は何にだって出来るものだ。
自分達は確かに救われた。
世界一の幸せ者だと、心からそう思える。
しかし、彼女が過ごしたあの冒涜的な地獄は、ほんの欠片だって肯定したくはなかった。
吸血鬼となった今だって、彼女は確かにルクタイール・ゲルドそのもので、そう簡単に忘れられるものでも受け入れられるものでも無かったのだ。
暫くして、ふと楽しいお茶会の席で一人黙ってそんな事を考えている自分に気づいたルクタイールは、どうにも面倒臭い生き物だと心中で苦笑した。
(今は止めよう。楽しい時間にまで悪夢を引ずる事は無いわ)
複雑でモヤモヤとした考えを振り払うように、ティーカップの中身を一気に飲み干した彼女は、しかして気分を変えようとずっと気になっていた事を尋ねる事にした。
「所で、マリンは何で元気無いわけ?」
彼女がずっと気に掛けつつも、尋ねるタイミングを伺っていたのは、じっと椅子に座ったまま余りに静かで不気味な程に彼女らしく無いアドマリアヌの事だった。
昨日まではしゃかりきに元気だったような記憶があるが、今の彼女は俯いたままティーカップの中身をチビチビ啜っていた。
おまけに、彼女の頭の上に生えた耳も萎れたように項垂れているのだ。
らしく無いという言葉は、きっと今の彼女の為にあるのでは無いかと思えて来るほどにらしく無かった。
「ずっとタマちゃんに会えていないの……」
俯き、両手で持ったティーカップに口をつけたまま視線だけを上げて答えた彼女は、やはり、何ともしょんぼりとしていて元気が無い。
ルクタイールはそう言う事かと納得しながらも、どうしたものかと彼女の隣に座っていたマチルデを見れば、彼女は困った様な笑みを浮かべて肩を竦めた。
どうにかしてという事らしい。
(今日で三日目だったかしら……)
彼女がタマちゃんの事をとても慕っているのは知っていたが、三日会えないだけでこれ程に落ち込むとは思ってもみなかった。
昨日の今日でそんなにも変わるものかと思ったが、他人の感情の起伏など分かりはしないものだ。
とまれ、普段喧しい人物が静かに項垂れているというのは何とも気が滅入るものであった。
それも彼女はまだ幼い子供だ。
見ていてこちらまでしょんぼりとしてしまう。
ルクタイールは少しでも励まそうと、なる丈優しい声色を心掛けつつ彼女に話し掛けた。
「なる程……マリンは本当にタマちゃんが好きね」
「……うん」
「きっと、タマちゃんも忙しいのよ」
「……うん」
「早く会えるといいね」
「……うん」
「……」
俯いたまま「うん」としか言わないアドマリアヌを見て、ルクタイールはともすれば自分は人の慰め方を忘れてしまったのではないかと心配になった。
ただ自分が不器用なだけなのか、それとも、それ程に彼女が落ち込んでいるという事なのか……。
頭の中が六歳で止まってしまっているような、幼さを人型に流し込んで固めて作られたかのようなアドマリアヌを慰める方法など彼女は知らなかったのだ。
こんな時どんな言葉を掛けるのが正解なのか、ルクタイールは考えたが遂には思い付かず、やがてバツが悪そうに頭をかいて項垂れた。
他の四人は何も言わず、暫くそんなルクタイールの様子を苦笑気味に眺めていたが、やがてマチルデが自分の前に置かれていた皿を手に取りアドマリアヌの前へと置いた。
「ほらマリン。ボクのケーキも食べて良いよ」
食べかけのケーキでご機嫌を取ろうと言う事らしい。
そんな馬鹿なと呆れたルクタイールだったが、どうやら当のアドマリアヌは違ったようである。
「え、何で?いいの?」
「うん。美味しい食べ物は人の心を明るくするからね。いっぱい食べて元気出してね」
「わぁい!ありがとう!マチルデ大好き!」
「ふふ、ボクもマリン好きだよ」
何て事だろうか。
いとも簡単に機嫌が治ったアドマリアヌにルクタイールは愕然としたが、マチルデから貰った食べかけのケーキを美味しそうに頬張り始めた彼女を微笑ましく眺めた。
彼女はやはり元気な笑顔が似合う。
しかし、子供とは分からないものだ。
そんな事を思いつつ、今度から元気の無いアドマリアヌにはお菓子で餌付けをしようとルクタイールは心に刻んだ。
「あ、そうだ。今日の夜は会えるんじゃない?」
今夜は街が完成した事を祝しての宴会がある。それにはきっとタマちゃんも来るだろう。
そうルクタイールが言えば、すっかり何時もの調子にもどったアドマリアヌが、食べかすを口元につけて喜びの声を上げた。
「本当?会える?やったあ!!」
「良かったね」
「ふふ、楽しみですね。マリン」
「うん!」
笑顔で尻尾と耳をパタつかせるアドマリアヌを見て、一体さっきまでの彼女は何だったんだろうかとルクタイールは疑問に思うが、他人の感情の起伏なんて分かりはしないものだ。
子供とはこれほどに難しくも、単純なものなのだろうか。
否、きっとこれが純粋と言う事なのかもしれない。
ルクタイール達はその後も談笑に耽った。
テラスに出ようと言い出したララノアの判断は正しかったようで、昼下りの暖かな陽気の中でするお茶会というものは格別であった。
高い木の上という特別感と、屈託無く話せる友といる安心感。
見晴らしも良く、時折吹く涼しい風が心地良い。穏やかでいて、楽しく、ルクタイールにとって満ち足りた時間だった。
気が付けば、彼女が今朝感じていたフワフワとした何処か現実味の無い感覚は何処かに消えていた。
ララノア達と一緒に居るからなのか、それとも独りでいる心細さがその要因だったのだろう。
軈てティーポットの中身が空になる頃。
ビスケットの乗った皿を片手に、テラスの手摺りにもたれかかって風景を眺めていたマチルデが少し興奮した様子でルクタイール達を手招いた。
「……お!見て見て、姫様達がいらっしゃるよ」
「え?嘘、どこどこ?」
「ほら、お城のてっぺん」
敬愛する姫様がいらっしゃるとあって、急いで手摺りまで寄ってきたルクタイールがマチルデの言う方向を見てみれば、確かに、城の一番高い塔のてっぺんにアリス達の姿があった。
五人はどうやら街を見ているようで、時折何かを話しながら周囲を見渡している。完成したばかりの街をチェックでもしているのだろうか。
数キロは離れているだろうに、その姿をくっきりと視認できる吸血鬼の視力には未だに驚かされるが、遠く離れた場所からでもこうして姫様の愛らしい姿を見る事が出来るのだから、何とも素晴らしい目だ。
ルクタイールは自分の目に心からの感謝を告げつつ、セチアを抱きかかえるアリスの様子を網膜に焼き付けんと凝視した。
(ああ……姫様……何て愛らしくも気品に満ちた高潔なお姿なのかしら……眼福だわ……)
真祖の姫であるアリスは、眷属の吸血鬼達に対しての絶大なカリスマ性を持っている。つまりは問答無用で信頼され慕われるわけだが、それを抜きにしてもルクタイールはアリスの事を特別慕っていた。
人形のように整った可愛らしい容姿、鈴が転がるような可愛らしい声、控えめで可愛らしい仕草、そして何よりも、優しく、儚く、純粋なその人柄。
一目惚れのようなものだ。
手摺から身を乗り出して恍惚とニヤけた表情を浮かべるそんなルクタイールの隣では、アドマリアヌが大声を上げて両手をぶんぶんと振り始める。
「タマちゃんもいる!おーい!!」
「流石に気づかないと思うよ」
「何をしていらっしゃるのでしょうか?」
「観察?」
「それを言うなら偵察だわ」
六人がテラスの縁に並んで集まりアリス達の様子を見つめる。
そんな時だった。
突然として空が暗くなったかと思うと同時に、巨大な何かが爆発したかのような衝撃が辺りを吹き抜けた。
「「「「「……ッ!?」」」」」
ルクタイール達は反応する間もなく、その不可解な波に包まれ、呑まれた。
それは心臓を凍った手で鷲掴みにされたかのような、圧倒的な不快感と恐怖そのものだった。
産まれてから一度も経験したことの無い状況に、わけも分からず息を呑む彼女達は、全身に駆け巡る悪寒と嫌悪に絶えながらそれを見る。
城の上空。
空が軋むように歪み、そこから湧き出るようにして生まれた闇を。
音がやみ、色が失われ、温度が無くなり、空気が止まった。
それが次第に膨れていくにつれて、まるで世界までもが怯えているかのようだった。
気が狂いそうな程の恐怖と憎悪を撒き散らす、余りに圧倒的な力の根幹。
あらゆる苦痛がまるで暴風のように葉茶目茶に襲ってくる中で、ルクタイール達は言葉も無くただ暗くなった空に浮かぶその闇を見つめていた。
あれは何だ?
理解出来無い。
否、理解しようとする事を自分の中の何かが拒絶するのだ。
理解してはイケないモノ。
まるでこの世の全てに身体の内側を覗かれているような、そんな耐え難く不快な感覚に侵されながら、自身のあらゆる感覚が限界を超えて警笛を鳴らしているというのに、彼女達の身体はピクリとも動かずにいる。
逃げる事も、歯向かう事も出来やしない。彼女達に出来たのは、ただただ耐え忍び、意識を保ち続ける事だけだった。
どれ程経っただろうか。
全身が脂汗でぐっしょり濡れた頃、突如巻き戻るようにその不快感は消えていった。
傷痕を少しでも残す嫌らしさなのか、徐々に薄れ行くそれは波が退く様に似ている。
早く元に戻れと、ルクタイールは奥歯が砕けそうなほどに強く噛み締める中、やがて空が明るさを取り戻すと同時に闇がゆらりと揺らめいて消え去り、世界が息を吹き返した。
風が巻き上げた暖かい午後の日差しを頬で感じられる。
葉のざわめきも、木が軋む音も、ちゃんと聞こえる。
止まっていた血流が再び流れるように、手足の体温と感覚が戻る。
激しく鼓動する心臓の音もちゃんと聞こえる。
辺りに何も変化は無く、自身と他の五人がちゃんと生きている事を確認したルクタイール達は一斉に息をついてヘタりこんだ。
「はぁ……はぁ……すご……」
震える手足と暴れる心臓を落ち着かせる為に、ルクタイールは深い呼吸を繰り返す。
他の五人も同じような様子で、床に崩れるように座り込んで肩で息をしていた。
「うぇええ……気持ち悪いぃ……」
「な、何だったのでしょうか……」
「エディルア様……かな?」
「きっとそう。流石、黒死の龍」
「この世の終わりかと思ったわ……」
彼女達がかつて地の底で経験した屈辱などとは比べ物にならない程の恐怖と苦痛。明らかに人智を超えた何かであるのは間違いなく、マチルデの言うようにきっとエディルアの仕業なのだろうというのはルクタイールにもすぐに察しがついた。
あれが何だったのかは分からないが、兎も角、とんでも無く恐ろしい何かだというのは確かだ。
次第に脈が落ち着きを取り戻してきたルクタイールは、座り込んだまま空を見上げて一つ深く息をついた。
悪い事をすると黒死の龍に魂を喰われるというのは、ルクタイールがまだ幼い頃に両親からよく言われた事だ。
物心ついた時には、それが子供に対して戒める際の脅しであると覚っていたものだが、さっきのアレを見ればそれもあながち嘘ではないのかもしれない。
雲が風に流されて千切れるのを眺めていたルクタイールが「そうだ、姫様を見て気分を高めよう」と思いたち城のてっぺんに目を向けてみると、先程あの闇があった場所に無数の何かが浮かんでいる事に気が付いた。
「……何か沢山浮いてる」
「何だろ。何か、黒い……人?魔物かな?」
隣にいたマチルデもそれに気が付いたようで、ルクタイールの隣で手をついて座り込んだまま怪訝そうな表情で目を細めている。
彼女達が見たのは空に浮かぶ無数の黒い何かだった。
黒い人型、或いは黒い獣、また或いは黒い怪物。形も大きさもてんでバラバラで、黒いということ以外に余りに統一性が無いように思えるそれら。
異様なのは、それらの大半が翼を持っていないという事と、まるで空中に貼り付けられたかのように全く動かない事だ。
浮かんでいると言うよりも、停滞していると言う方が相応しい。
何にせよおかしなもの達だという事に変わりない。
先程は意識を保つ事に必死で気が付かなかったが、ひょっとするとあれらはあの闇から現れたのかもしれない。
そう考えるルクタイールは、ならばあれはきっと黒死の龍の何かなのだろうとは覚ったものの、余りに不可解なそれらを訝しまずには居られなかった。
あれらが本当に先程の闇から生まれ出たのならば、何かとてつもなく恐ろしいもの達なのでは無いかと推測するのは容易だったからだ。
やがてそれらが燃え落ちる火の粉のように辺りに散らばり、その内の何体かが彼女達の近くにも落ちてきた事にも、ルクタイールは不安を覚えずには居られなかった。
「どうしよ……降ってきたわよ」
「どうしようもなにも……何なんだろうね?」
「きっと、エディルア様が何か召喚したんだわ」
きっとそうだろうが、一体何の為に?
あの闇は何だったのか。
今落ちてきているあれは何なのか。
どうにも分からない事だらけで疑問は尽きないが、ルクタイールにとっては果たしてこの後もお茶会を続ける事が出来るのかどうかが最も重要な事であった。
落下してきたものが地面に衝突して地上を吹き飛ばしたり、それとも建物を壊す勢いで暴れ回ったりはしないだろうか……。
不安に思いながら空を見つめるルクタイールは、付近に降ってきた中でも取り分け一直線にこちらに向かってくる一体を見つけた。
鈍く光る金色の目以外まるで闇のような黒一色のそれは、形ばかりは人間のように見えた。
その上、黒いロングコートのようなものを着ているものだから、まるでそらに写った影のようだ。
明らかに人では無いその人物は、軈てルクタイール達の頭上まで来くるとそこで留まり、此方を見おろしながら興奮したように叫んだ。
「ハ……ッ!!こ……これは……!!野生のメイドさんやんけ!!!!」