閑話 タマちゃんの退屈2
さて、幾ら料理が苦手だとソフィアが言えども、自分が教える事など殆ど無いとタマちゃんは思っていた。
何せ、ご飯を炊いて肉を焼くだけなのだから、そんな事は今日び小学生だって出来るだろう。
自分が教える事などたかだか包丁の使い方程度で、幼い子供でも無ければそれすらも短簡な事だ。と。
それよりも、ソフィアと料理を作るという新鮮な状況を彼は楽しもうと考えていた。
勿論、ソフィアの事も可愛い我が娘のように思っている彼の事である。
浮かれ気分に、知らずと頬が緩むのは仕方の無い事だと言えよう。
しかして、そんな彼の考えは、けれどもソフィアがこんな事を言い始めた為に少し予定が狂ってしまう事になった。
「なぁ、主食と焼いた肉だけと言うのは少し寂しくないか?」
教えられた通りに包丁を持ち、恐る恐るといった手付きで肉を切るソフィアのそんな言葉に、研いだ米を釜に移しながら彼は「……確かに」と頷いた。
「そうだなァ……」
ポロポロとシンクに溢れた米粒を拾い集めながら彼は考える。
言われてみれば、肉と米だけの昼食というのは寂しい。
栄養バランスだってきっと良くはないだろう。
我が家の住人達に栄養バランスなんて物が関係あるのかは分からないが、それでも、これが家食である事を鑑みれば、手抜きの極地のようにさえ思える程だ。
そう気付いた彼が「折角ソフィアも手伝ってくれている事だし、もう少し凝ったものを作るのもいいかもしれない。」なんて事を考えたのは、浮かれた心とほんの少しの見栄からだった。
米を炊き、肉を焼く事くらいは出来そうだと考えている彼だが、それが前世の物であれ、現世の物であれ、一般的な料理の作り方など、押し並べてこれっぽっちも知りはしなかったのだから、彼が幾つか思い浮かべてみた「凝ったもの」の作り方なんてものも、当然分かりはしなかった。
けれども、暇潰し程度にと始めた事とはいえ、折角作るなら皆が喜んで食べてくれるような御飯を作りたいと思うのは自然な事だろう。
ソフィアと一緒に作る事になった今、その思いは一入だった。
何だって格好付けたがりな彼は、何時だって格好良い所を見せつけてやりたいのだ。
されども、思う。
「果たして自分に美味い料理が作れるだろうか……?」と。
何せ、作り方が分からないのだ。
調べようにもインターネットも料理本もここには無いのである。
他人が見て諦めるには、十分に無理な状況であると言えよう。
彼とてそう。
分からない。
分からないが…………味噌汁程度なら作れるんじゃないか?
そんな言葉が彼の脳を過った。
数え切れない程口にした事がある、味噌を溶かした汁だ。
味と見た目から、彼が想像出来た作り方は何とも簡単なものだった。
「鍋で水を沸かして具材と味噌を入れる。」
それだけで味噌汁が出来そうな気がするのである。
否、それできっと出来る。
煮物だって、味付けさえそれなりに気を配れば良い。
サラダなんて、野菜を適当に切って混ぜれば完成だ。
焼けば、煮込めば、揚げれば……後は適等な味付けでどうにかなるのでは無かろうか……?
見た目と味が分かっているのなら、それに寄せる事が出来れば大抵の料理が作れるのでは無いだろうか……?
……出来そうな気がする。
そして、そんな事を考えている中で彼は妙案を思いついた。
そうだ、カレーを作ろう。と。
以前、アリスの要望で夕食にカレーライスが出た事があったが、その時は皆美味い美味いと言って食べていた。
つまり、皆大好き。
カレーライスだよ。と言って御飯とルーを出せば、それだけで昼食として成り立つのである。
具材を水で煮た鍋に、カレールーの素をぶち込めば簡単に出来そうな気がするし、煮込むだけで何とも世話が無くて良い。
カレーライスなんてものは、彼の前世では小学生だって作れていたのだから自分達二人が作れない道理は無い筈だ。
そんなごく短絡的な考えは、しかし浮かれ気分な彼からしてみれば天啓と思える程の妙な解決策であった。
カレーライスなんて、簡単に作れるに違いない。
何でもかんでもポイポイ具現化しては城のあれこれを充実させているアリスの事だから、きっと地下収納にカレールーも置いてあるだろう。
拾い終えた米粒を洗って釜にペイっと放り入れた彼は、肉を切り終えて満足そうにしているソフィアに振り向いて言った。
「んじゃあ、カレーを作ろうぜ」
そんな彼の言葉に驚いた表情を見せたソフィアだったが、彼女は直ぐに破顔した。
彼女もまた、以前ヘデラが作ったカレーライスを美味い美味いと言っておかわりしまくっていた一人だったのである。
つまり、カレーが大好き。
「……おお、カレーか!!賛成!賛成!あれは美味しかった!」
あの美味しい料理をまた食べられると思い喜んでいるのだろう。
加えて、今度はその料理を自分が作るのだとあって、彼女の気分は瞬時に高揚したようだった。
嬉しそうに目を輝かせる彼女を見て、その素直な反応を彼は微笑ましく思うと同時に、気分を良くした彼は頷きながら目を細めた。
「ハハッ、じゃあソフィアの譲ちゃんは野菜も切ってくんねえ」
「ああ、任せてくれ!」
そうして、二人は早速カレーをつくりはじめた。
楽しそうに笑い、話しながら。
それはまるで仲の良い姉妹のようであった。
しかし、忘れてはいけない。
彼らは二人共、料理などてんでした事がないド素人なのだ。
「……んん?水はどれぐらい入れんだァ……?」
「水の量か?そんなものを気にする必要があるのか?」
「あぁ……まあ、適当で良いか」
水の量なんて適当である。
「なあ、タマちゃん殿。これは火が通っているか?硬いままだが」
「…………分からねぇ……強火にするか。煮込んでればその内火が通るだろ。焦げねえように混ぜりゃあいいんだ」
「なる程な!」
火加減なんて適当である。
「なあ、タマちゃん殿……量を間違えたか?混ぜたていたら溢れそうだぞ」
「………カレーってえのは作ってる内にどんどん量が増えんだ。そういうもんなんでえ。こっちのでけえ鍋に移すかい」
「そうなのか……おお、そうだ!折角だし、沢山作って他の吸血鬼達にも食べてもらおう!」
「おうおう……そりゃあ、流石に足りねえなァ?鍋もう一個分作るかい?」
「なあに、材料は余る程あるんだ!ありったけ作ろう」
量なんて適当である。
「タマちゃん殿、タマちゃん殿。隠し味を入れてもいいか?きっと美味しいと思うんだ」
「お、分かってるねえっ!カレーと言やァ、隠し味だな!コクが出て良いじゃねえか!入れちまえ、入れちまえ!」
「おお!なら、沢山入れておこう!」
「おう、入れちまえ、入れちまえ!」
である。
「私の祈りも加えておこう。戦神乙女の聖なる祈りだぞ!きっと美味しくなる筈だ」
「……ほほぅ?そりゃあ、ご利益がありそうだなァ!やっちまえ、やっちまえ!」
「料理に最も重要なのは美味しく食べて欲しいという気持ちだと、以前リナリアが言っていた。タマちゃんも一緒に祈ろう!」
「良い事言うじゃあねえか!よし来た!」
二人は楽しかった。
方や、我が娘と料理をしているかのような気分になり嬉しくて。
方や、美味しそうな料理に仕上がっていくのが嬉しくて。
ワイワイと調理する彼らを他人が見れば、まるで姉妹のように映ったかもしれない。
何とも楽しそうで、騒がしく、心温まる光景に見えた事だろう。
そしてニ時間後、果たして美味しそうなカレーが出来た。
「完成か?上手く出来たな!」
「ご苦労さん。意外と簡単だったなァ」
「タマちゃん殿が教えてくれたから、私は初めてまともな料理を作る事ができた!礼を言うぞ!」
「ははっ、そりゃあ良かった。ソフィアの譲ちゃんが手伝ってくれたおかげで助かったぜ。ありがとうな」
ハイタッチを交わし、笑い合う二人。
何とも楽しい時間だった。
成し遂げた満足感と、止まぬ笑顔の余韻。
幸せとは、こういう事をいうのだろう。と、たまちゃんは思った。
この時の彼らは気が付かなかったのだ、果たして自分達が何を作ってしまったのかを。
「おや、良い匂いですね」
二人が味見でもしてみるかと、少量を皿によそっていると、そんな言葉と共にヘデラが厨房に入ってきた。
数字のワッペンが胸についていない所を見るに、オリジナルヘデラのようだ。
きっと昼食の用意をする為に帰って来たのだろう。
彼女は不思議そうに二人のそばまでくると、コンロに置かれた三つの大きな寸胴鍋の中を覗き込んだ。
そこに入っていたのは山盛りのとても美味しそうなカレー。
敬愛するアリスの大好物である。
「これは……お二人がお作りになられたのですか?」
ヘデラは口元に手をやり、驚いたように二人を振り向いた。
ドラム缶の如き大きさの寸胴鍋三つに入った山盛りのカレーを前にして、驚かない者などいないだろう。
「どうでえ?美味そうだろう?ソフィアの譲ちゃんと作ったんだ」
「ああ、きっと美味しく出来たと思うぞ!たまちゃん殿は教えるのが上手なんだ」
そう、楽し気に笑う二人。
そんな彼女達を見てヘデラは微笑んだ。
察しの良い彼女は、きっと自分の代わりに昼食を用意してくれたのだろうというのは直ぐに分かった。
そして、二人がまるで仲の良い姉妹のようで、自分の為に親孝行でもしてくれているかのように思えて微笑ましく感じたのである。
二人共、彼女にとっては世話のかかる娘のような存在だったのだ。
「そうだったのですか……ふふ、お二人共ありがとうございます。とても美味しそうですね」
ヘデラはそんな、彼女達のちょっとしたサプライズがとても嬉しかった。
普段なら何が有ろうと家事の全てを自分が行う事に拘っている、メイドの中のメイドである彼女とて、こんな時は素直に喜ばしく思う。
彼女はその、母性にも似た愛おしい気持ちを密かに胸に留めて置くことにした。
幸せとは、こういう事をいうのだろう。なんて事を思いつつ。
「だろう?丁度いいや、御主人様も味見してくんねえ」
「そうだな!実は私達もまだ味見をしていないんだ。我が家の料理番であるヘデラ殿に一番に感想を貰おう」
そう言って、ソフィアが持っていた皿をヘデラに差し出した。
少量のカレーがよそわれたそれは、二人がついさっき味見をしようとしていたものだ。
二人の好意を嬉しく思いながら、それを受け取ったヘデラは冗談じみた口調で言う。
「宜しいのですか?わたくしの採点は厳しいですよ?」
「はははっ!お手柔らかに頼まァ」
「さあ、食べてくれ!自信作だぞ」
「ふふ、それでは一口頂きます」
自信満々といった様子の二人を見て一度微笑んだ後、ヘデラはその美味しそうなカレーを匙で少し掬ってゆっくりと口へと運んだ。
誰かの作った料理を味見する事など、ヘデラにとっては初めての経験だった。
優しく、楽しく、嬉しい。
大切な誰かが作った料理を食べるのは、こんなにも特別に良い気持ちになるのだと彼女は知った。
そして、カレー。
鼻孔を擽るのは特有の食欲をそそるスパイスの香り。
自然と溢れた唾に、濃厚でいて刺激的なあの味を口内が待ち望んでいるのを感じる。
彼女もまた、カレーが好きだった。
アリスの好物は自分の好物である彼女だが、事、カレーにおいては違った。
以前アリスに頼まれて作った時、それを見て、茶色くてドロドロとして、お世辞にも美味しそうとも、美しいとも言い難い見た目だという印象を持った彼女だったが、しかし、一口食べればそんな事を考えていた自分を殴ってやりたくなる程にその味の虜となった。
甘く、辛く、コクがあって、刺激的で、ずっと食べていたくなるような奥深い味。
こんな料理が存在するのかと、アリスの前世に思いを馳せる程には衝撃的だったのだ。
それが今、目の前にある。
きっと美味しい。
口元数尺の距離に近づいたそれに、脳が、身体が、自然と反応する。
気分は高ぶり、口角が自然と持ち上がるのが分かる。
味に集中する為か、知らずに閉じた目がその寸前に見たのは、二人の家族の得意気な笑顔だった。
とうとう、開いた口に入れられた匙が舌に乗った。
まだ温かいそれを含み、匙を引き抜くと、ゆっくりと味わうように舌を動かす。
トロリと流れるそれを口全体で味わうのだ。
美味しい。
……と、反射的に開いた口がそう言いかけたと同時に、彼女は強い違和感を覚えた。
それは圧倒的なまでの不快感。
疑問と混乱が瞬時に意識をかき乱し、飲み込んだ言葉を逡巡する。
……あれ?と。
そして次の瞬間。
「ングェゥッ…………」
そんな言葉にならない言葉を漏らして、彼女はどさり……と倒れ込んだ。
落とした皿が割れ、匙が床に跳ねて金属音を鳴らす。
先程までの温かい空気が一瞬にして霧散した。
「「……え」」
突然の事に、側で彼女の様子を見ていたソフィアとたまちゃんが唖然と声を漏らした。
唐突な戸惑いと混乱。
美味しいという言葉を待ち望んでいた二人は、床に突っ伏して動かなくなった彼女をただ見つめる事しか出来なかった。
何が起こったのか分からない。
何故カレーを食べてぶっ倒れたのか、二人は理解出来なかったのだ。
そしてそれはヘデラも同じ。
何故カレーを食べてぶっ倒れ無くてはいけないのか、彼女は理解出来なかったのだ。
されども、原因、理由が分からずとも、意識がある限りは事態の把握は可能である。
自分の身体の事は自分が一番よく分かる。
そして、やがて自身の身体に起こっているそれを把握した彼女は、端的に二人に伝えた。
『身体が痺れて動きません……』
と。
そう、念話を使い何とか状況を伝え無るのが精一杯である程に、口も、足も、手も、指先一つだって動かせない程に、感覚が失われていた。
まるで全身麻酔中に意識だけを覚醒させられたかのように。
まるでピクリとも動かぬ屍に、無理やり魂を詰め込んだかのように。
何故かは分からない。
が、きっと原因はあのカレーであろう。
「「…………」」
それを聞いた料理人二人はどんな顔をしていただろうか。
冷たいタイル張りの床に突っ伏したままのヘデラには、それを拝む事は叶わなかった。
『美味しそうなカレーライスに見えて、実は激不味……更にわたくしのアンチ能力を上回る超即効性の毒物とは……お二人共、流石でございます。これを使えば国の一つや二つ、簡単に滅ぼす事が出来るでしょう』
「「…………」」
ほんの一口食べただけで、とんでも無い能力を持つ真祖のメイドを無力化出来るカレー。
この世のどんな毒物よりも恐ろしいダークマターが誕生した瞬間である。
『……これをアリス様にお出しするおつもりだったのか?こんな物を大量に作ってどうするのか?等のお説教は後程するとして……何とかして頂けませんでしょうか?』
「「…………」」
静かで優しい何時ものヘデラの声が響く、暖かな昼下り。
美味しそうなカレーの匂いが漂う厨房では、複雑に冷えこんだ空気がその場を支配していた。
目には見えない、恐ろしい何かが確かにそこにあった。
その後、ソフィアの手によって回復したヘデラに叱られたのは言うまでもなく、二人共、今後料理は禁止だと言い渡されてしまったのは当然だと言えよう。
トホホ……である。