アリスさん、自動車に轢かれた盗賊を知る
夜は好き
特に雨の夜は心が踊る
路地裏の暗がりも、目抜き通りの人混みも、薄汚い貧困街も、綺羅びやかで明るい貴族街も
何処もかしこも、直ぐ側にある闇がより一層暗くなる
私が生きていられるのは何時だって、そんなヘドロのように暗く淀んだ闇の中だけ
何処までも醜くて汚れ切った私は、光を恐れていなければ呼吸すらまともに出来やしない
それでも、お気に入りの麻茶色の外套を纏って暗い夜の街を歩けば
孤独な閉塞感が、濡れて肌に張り付く髪が、次第に重くなる倦怠感が
その凍えるような冷たさが、心地が良い
誰も私なんかに見向きもしないから
まるで世界から一人だけ取り残されてしまったような気分になる
その事実を、痛烈に実感させてくれる
濁った泥水に沈む足元を見下ろして、その鮮明さに身震いをする事も
飛び散る滴に映らない憧憬を、今は目の前に確かに感じられる
死はきっと誰もが思うよりずっと身近で、とても綺麗で、強烈な衝迫だ
それが憧れだという事も、歪んだ世界に独りぼっちの私はきっと忘れてしまったのだろう
そうして私は思うのだ
今日も無意味に生きてしまった自分を貶んで
夜は好き
特に雨の夜は心が踊る
赤黒い綺麗な水が、汚れた私を洗い流してくれるから
私はこんな夜が好き
『引き伸ばす停滞』より
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文明の利器という言葉を付け加えられて称される物は多々あれど、思いつく中で事移動において最も便利なのは何かと訊ねられた時、私は真っ先に自動車だと答えるだろう。
ガソリンとある程度平らな地面があれば走るし、人だって荷物だって載せられる。
ハンドルを握りペダルを踏むだけで、人が歩く何十倍もの速度で簡単に移動する事が出来るのだ。
普通自動車の運転免許資格が18歳から取得できる日本で、17歳のJKだった私は、運転した事がなくともその利便性は経験と共に十分に知っている。
自動車もバイクも、自転車さえも存在しないこの世界に生まれ変わって、改めてその凄さを痛感したとも言える。
カール・ベンツは偉大なのだ。
ダイムラーもベンツも存在しないこの世界で、歩く以外の主な一般的移動手段と言えば、海上は帆船、陸上は馬車……と、長距離を移動するならば実質一択しか無い。
電車も新幹線もバスも無ければ、空を飛ぶ事も瞬間移動することも普通の人は出来ないのである。
そんなわけで、宿で一泊した後早々にテドロを出発した私達は王都まで馬車に乗って移動する手はずでいた。
中心部へと向かう街道を通り、途中の町や村に寄って観光しつつ、余裕を持って見て七日程で到着するのんびりとした旅である。
帆船に乗って海を行き、馬車に揺られて陸を行く。
そんな、学校の歴史の教科書に載っていそうな前時代的ワクワク体験に、私の心は自然と弾んだ。
何故か馬の扱いも出来てしまうヘデラに御者を任せて、他の者は荷台でゴトゴト揺られながら、澄み渡るような青空の下、だだっ広い草原を眺めて皆でのんびりお喋りをするのだ。
こんな経験、前世の私は知らない。
穏やかな気分で荷台に寝転がっていれば、温かい日差しと爽やかな風にうつらうつらとして心地が良く、車輪の振動がダイレクトに伝わって常にガタガタ揺れる荷台すら新鮮に思えて楽しい。
近くにいる魔物を見つけては誰が一番に仕留められるかを競争したり、通り掛かった冒険者の人達と仲良くなったり、ガタガタ揺れるのでお尻が痛いというタマちゃんの為に土魔法で道を平らにしたり、何時の間にかいなくなったと思ったセチアが鳥を咥えて何もない空間から急に現れたり、馬車を止めて休憩すればちょっとしたピクニック気分を味わえたりする。
旅というのは、その全てが新鮮で楽しみに溢れているものだ。
そこかしこが目新しいこの世界の中の、旅という名の非日常。
私にとっては馬車に乗るというちょっとした初体験もその一つだった。
そう、最初は良かったのだ。
急ぐ旅でも無し。
悠々自適、のんびり、平穏とはこういう事を言うのだと思う程に、ゆったりとした旅を満喫していた。
予定など無いに等しい旅の中で、概ね予定通りに進んでいたのだ。
しかし、アクシデントというものは、何時、どんな事にだって起こりうるものだ。
そんな中で、私達の誰もが思いつきもしなかった誤算が一つ生じていたのである。
それは致命的と言っていい程の予想外な見落とし。
何と、馬が事ある毎にビックリして暴れだしてしまうのだ。
こっちに向かって来た巨大なバッタの群れを私が魔法で消し飛ばした時も、次の町までの距離を見る為にエディルアが空高くに飛び上がった時も、ソフィアの翼を見た時も、タマちゃんが大きな笑い声を上げた時も。
私達が何かをする度に二頭のお馬さんがヒヒーンと嘶いてロデオマシーンのように暴れだすのである。
気性の荒い馬の事を暴れ馬なんて言うが、本当に暴れている馬は超怖い。
大きな身体でビュンビュン脚を振り回して、近づくと吹き飛ばされてしまいそう。
その度にヘデラがニ十分くらいかけて落ち着かせるのだが、少し進んでは止まり、少し進んでは止まりの繰り返しで、全然進んでいる気がしない。
こう……何と言うか、じれったい。
当たり前だが、馬は立派な動物なのだ。
ビックリもするし怖がりもする。
度々、私達のせいでビックリさせて怖がらせてしまうのは可哀想だし、運んで貰っている手前何とも申し訳無い気分になってくる。
後、怖い。
端的に言えば、長時間の旅路の中で延々じっと座っている事など不可能な私達には、馬車の旅など無理なのだと言うことが僅か初日にして判明してしまったのだ。
なんて事だろう……。
私達は落ち着きが無いせいで馬車にもまともに乗れ無いのだ。
ショックだ。
こんなショックは小学校の時、通信簿に『京子ちゃんはもう少し皆と仲良くしましょう。クラスで浮いています』と書かれていたのを見たお母さんに腹を抱えて笑われた時以来である。
なんて事だろう……。
……まあ、そんな事はどうでもいい。
兎にも角にも、私達の馬車での旅は早々に終わりを告げたのだった。
仕方がない。
そんなわけで、テドロを出発してから二日目、私達は軽トラに乗っていた。
おやおや?
自動車なんて存在しない筈のこの世界で、何故軽トラックなんてものに乗っているのかな?
それは勿論、ズルして私が具現化したのだ。
馬車が駄目なら車に乗れば良いのよ。という事である。
オフロードカーなんて見たことも無い私が、多少凸凹した土の道でも平気だろうと思い選んだ、お婆ちゃん家にあった白い軽トラック。
田舎なら何処にでもあるような、農家の人がよく乗っているやつだ。
何故か車の運転も出来てしまうヘデラがハンドルを握り、隣の助手席にはタマちゃんが座る。
そして、他の者は後の荷台に乗っていた。
ひと目で分かる。
トラックの荷台に三人も人を乗せて走るのは道路交通法違反だ。
お巡りさんに、ちょっとそこの車止まりなさいと言われて、危ないでしょうがと怒られてしまうだろう。
そもそも私達の誰も運転免許を持っていないし、車検証も無いし、ナンバープレートだって付いていないので、それ以前の問題でもある。
違反のオンパレードだ。
しかし案ずるなかれ、ここは日本では無いのだ。
自動車が存在しないこの世界には勿論道交法も存在しない。
運動神経が抜群過ぎる上に色んな魔法も使えてしまう私達に危ない事などきっと無い。
ドラゴンに衝突しようと、巨大隕石に衝突しようと、どんな大きな交通事故に遭おうともきっと大丈夫な筈。
つまり何も問題無いのだ。
そんなわけで、私達は何も気にせずに、麗らかな陽気の中を、土道に砂煙を上げてゴトゴト進んだ。
自動車は素晴らしい。
正に文明の利器だ。
土が踏み固められただけの道も難無く進むし、乗り心地も馬車の荷台とは比べ物にならないし、近くで騒いでも暴れ出す事は無い。
土煙を上げて爆走してくる鉄の塊を見て、通り掛かった冒険者っぽい人や馬車に乗った人達が大口を開けて驚いているのが何だか面白いし、そんな彼等に荷台から手を降っていると少しいい気分にもなれる。
正に現代に蘇るサムライ。の逆バージョン。
そう、完璧な旅路だった。
「次の町までどれくらいかしら?」
「この調子だと昼過ぎには着いてしまいそうだな」
荷台に座ったエディルアとソフィアがそんな会話をしている。
私は頭にセチアを乗せて車席の天井によじ登り、そこから顔を覗かせて過ぎ行く風景を眺めていた。
顔に当たる風が、髪を靡かせて吹き抜ける風が、爽やかで気持ちがいい。
「ほらセチア、車は速いんだよ」
『凄いねアリス!風になったみたい。狼とどっちが速いかな?』
「きっと狼より速いよ」
『わあ!』
セチアが頭の上で楽しそうに揺れる。
私のセチア君は今日も可愛い。
明るい日差しが差し込む森の中、木々が左右に広がる真っ直ぐに伸びた茶色い道を、流れるようにトラックは進む。
常に前方の道を土魔法で平らしておけば、どんな道でも私が知る自動車の速度で走る事が出来るのだ。
今まで行き交った人や馬車は多々いたが、全てヘデラの超絶ドライビングテクニックで躱すか、向こうが道の端に避けてくれる。
おかげで二日間掛けて辿る予定の道程を、今日の半日で進んでしまったりしていた。
草原を超え、山を迂回し、今は人通りがめっきり減った森の中。
この森はどれ程続いているんだろうかと思い、頭に乗ったセチアと一緒に遥か道の先を眺めていた時だった。
唐突に、前方の木の陰から道に何かが飛び出して来た。
これまでも魔物や動物が車の前に飛び出してくる事はあったが、全てヘデラが魔法でどうにかしてくれていた。
超絶ドライビングテクニックで避けたり、影を操って退かしたり、糸を操って退かしたり。
なので今回も大丈夫だろうと楽観的に思っていたのだが……。
アクシデントというものは、何時、どんな事にだって起こりうるものだ。
やはり車の運転のあれこれに於いて、『だろう』で済ましてしまうのはどんな世界であってもイケないという事らしい。
「おい!!そこのやつら!!止ま──」
バゴンッ!!───
そんな、良く分から無いまま途切れた叫び声の後に、重たい衝撃が車体を一度揺らした。
そして私の視界の端を横切って、後ろへとふっ飛んでいく何か。
車席の上から前を見ていた私には、その衝撃的な瞬間と、飛んでいった物の正体が良く見えてしまった。
トラフィックアクシデントだ。
その事実に少し戸惑いながら私が荷台に降りると、軈て、トラックはゆっくりとスピードを落として止まった。
……うーん。
これは予想外。
私の勘違いで無ければ、今、人を轢いた気がする。
「……何か今、人にぶつかった気がするんだけど」
荷台に座っていたエディルアとソフィアに私がそう訊ねると、エディルアが車の後方を指差して言った。
「ほら、後ろの方で倒れているわ」
と。
見れば、確かに後方の土道に人が倒れていた。
何故か剣を片手に握りしめたまま倒れ付し、ピクリとも動かないその人の周りには赤い水溜りが土に染み込むように広がり、流れ出している。
衝撃映像だ。
血が沢山出ている…………美味しくなさそう。
否、そんな事を考えている場合では無い。
「お……おお!大変だ!血を流しているぞ!」
それを見たソフィアは慌てて荷台から飛び降りて、倒れている人に駆け寄った。
そして私は内心ちょっとしたパニックである。
私は交通事故というものを経験した事が無いのだ。
なんてこった。
こんな時はどうすれば良かったんだっけ……。
うーん……。
確か学校の特別授業で習った気がする。
まずは負傷者を救護して周りの安全を確保するんだったっけ。
二次被害を避けるのだ。
それはソフィアに任せて、私は早く救急車とパトカーを呼ぶことにしよう。
「119番通報って、この世界では何番だっけ?」
「何それ?」
そんな事をエディルアに訊ねた私が、そういえばこの世界には電話も無ければ救急車もパトカーも無いのだという事に気が付いた時、タマちゃんとヘデラがのんびり車から降りて来た。
二人とも人を跳ね飛ばしたというのに落ち着いたものである。
「ありゃあ……血まみれだァ」
「どうやらわたくし達を待ち伏せしていたようです。山賊や盗賊と呼ばれる方々でしょうか?急に目の前に出て来られたので、ブレーキが間に合わず轢いてしまいました。仕方ありません。捨て置きましょう」
「御主人様よぉ、見えた瞬間加速しやがったよなァ……?」
「何の事でしょう?」
なんて事をそっぽを向いて言うヘデラ曰く、この轢かれた男の人は山賊や盗賊と呼ばれる人らしい。
そんな人が私達を待ち伏せしていたというのは、もしかして私達を襲おうとしていたのだろうか?
剣を持っているし……。
うーん……。
捨て置いてもいいのかな?
「盗賊?……ああ、なる程な」
血塗れで倒れていた人を抱え起こそうとしていたソフィアが、何か納得したように言った時だった。
「ヒューッ!!お前ら良くも仲間を殺りやがったなあ?どうしてくれんだ?ああ?」
そんな声が、後ろの方から聞こえてきた。
何だろうと思い声の方向を見れば驚きだ。
何やら道の両端の木々の陰から、同じような格好をした男の人がゾロゾロと沢山出て来たではないか。
真っ赤な上下の服に、あちこちに鉄の板を貼り付けたような良く分からない格好をしている。
冒険者の人が着ているような服だ。
そんな彼等は、手に斧や剣なんかの武器を持ち、何だか気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
どうも跳ね飛ばされた男の人の仲間らしい。
つまりこの人達も盗賊や山賊と呼ばれる人達という事で良いんだろう。
私の知る限りでは、盗賊というのは他人から金品を盗んだり、奪い取ったりする良く無い人達の事だ。
つまり泥棒さん。
こんなに堂々と登場してくる泥棒集団なんて不思議で仕方が無いが、全員武器を持っている所を見るにきっと強盗と言うやつなんだろう。
仲間が車に轢かれたから、怒って報復しようとしているのかもしれないが……。
「おいおい、上玉ばっかじゃねえの!!早くブチ犯してえなぁ!!泣き喚く顔を見てみてえ!!」
「五人もいるじゃん!!ラッキー!丁度、おもちゃが一個壊れたとこなんだよね!」
「お前が使うといつも早えんだよ……分かってんのか?今のやつなんて何しても何も反応しないんだぞ?つまんねえ」
「オラオラ!!お前ら喋ってないでさっさと仕事しろ!!護衛もつけずにこんな所を通る馬鹿なお嬢様達だ!!今日はツイてるぞ!!宴だ!!」
「「「「ウオオオオオオッ!!!!」」」」
何だか分からないが、登場早々にテンションマックスで叫び声を上げる盗賊さん達。
私達をお金持ちだと見て、カモがやって来たぞ!ヨッシャー!みたいなノリなんだろう。
つまり、これは私達を襲う気満々という事で良いんだろう。
なんてこった……。
馬鹿はあなた達だと教えてあげたい。
ふふふ、これで自衛が成立するぞ。
交通事故なんて無かったのだ。
「目視できる範囲内に13名、周囲の森の中に8名、少し進んだ先の森の中に10名隠れています。消しますか?石にしますか?」
ギャーギャー言いながら近づいてくる男の人達には目もくれないで、ヘデラがそんな事を言う。
目視できる範囲内に13名、周囲の森の中に8名、少し進んだ先の森の中に10名隠れているらしい。
ここは森の中で、逃げる場合に道は一本しかない。
つまり囲まれてしまって逃げ場が無いという事だ。
計画的で、用意周到な犯行である。
そしてそれを簡単に見抜いてしまうヘデラさん。
格好いい。
言ってる事が何か洋画とかに出てくる特殊部隊の人みたい。
「こいつも合わせると32か……中々規模が大きいようだな。捕まえて近くの町に連れて行こう。指名手配されている連中かもしれない」
「承知いたしました」
しかして、ヘデラが頷いた次の瞬間、男の人達は極細の糸に全身をぐるぐる巻きにされて口も塞がれたまま、私達の目の前に転がっていた。
瞬き一つで全員捕まえてしまったのだ。
さっき車で轢かれた人も併せてピッタリ32人。
道が大きなミノムシで埋まってしまっている。
うちのメイドさんは凄い。
超格好いい。
「ングムゥウ!?んむ……ムグググゥグ??」
「ングッムググ……ッ!!んムムッ!!」
「ンムゥ……ングムググゥググゥ……」
そんなムグムグと驚きの声を口々に上げて、地面でジタバタ藻掻いている盗賊さん達。
皆驚愕の表情を浮かべてとても驚いてくれているので、最早何だか気分が良くなってくる。
どうだろう、うちのメイドさんのメイドマジックは。
返り討ちである。
私達の誰もその場を動いていない中での、何とも呆気ない逮捕劇に惚れ惚れしてしまう。
近くの町まで連れて行くという事なので、それなら私が次の町に着くまでこの人達を異空間にしまっておこうとしたその時だった。
「……てッ!!手前らァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
唐突に、驚く程の叫び声が上がった。
喉を潰してしまいそうな程の絶叫。
耳を塞ぎたくなる程の咆哮。
悲痛さと張裂けんばかりの怒気を孕んだそれがタマちゃんのものだと分かったのは、彼がぐるぐる巻になって転がる盗賊さんの内の一人に馬乗りになり、物凄い剣幕でまくし立てながらその人の顔を目茶苦茶に殴り始めたからだった。
そう。
顔を殴っているのだ。
しかもグーで。
衝撃である。
「この糞ったれ共がぁアアアッ!!何て……ッ!!何て事をやってんだァアアアッ!!!!」
「ンッグウゥ!!グゥウウウウッ!!」
「えぇ……」
それはいつものやる気なさ気な態度と雰囲気からは想像も出来ない程に強圧的で、小さな少女のような見た目には余りにも似つかわしく無い程に鬼気迫るものだった。
振り上げた拳を何の躊躇いも無く、まるで親の敵のように振り下ろす彼の顔は、非道く怒りに歪んでいた。
……正直、あまりの事に、私はドン引きである。
縛られて動けない人のマウントを取って顔面を目茶苦茶に殴りまくる小さなメイドさんの姿は、あまりに猟奇的だ。
どうしてしまったんだろうタマちゃんは……。
私の頭から驚いて落ちて来たセチアを抱き止めれば、キューと鳴きながら私の腕の中で丸まってしまった。
ふふふ、こんな時でも私のセチア君は可愛い。
「おお!?ど……どうしたんだタマちゃん殿……?」
「なに?そんなにムカついたの?」
私達が唐突に変貌してしまったタマちゃんに唖然としている中、彼は更に殴り続ける。
血が飛び散り、折れた歯が地面に転がる。
抵抗出来ない中、ボコボコに殴られて腫れ上がったその男の人の顔は無残なものだった。
それでも止めずに殴り続ける彼の小さな手も、真っ赤に染まっていた。
きっとタマちゃんの手も怪我をしてしまっているだろう。
それでも、彼は殴るのを止めない。
私は何だか恐ろしくなってきてしまった。
タマちゃんはいったいどうしちゃったんだろう……。
「手前ら本当に人間か?犬畜生にも劣るクズ共がッ!!心は無えのかッ!情は無えのかッ!非道なんてもんじゃねえッ!!今すぐに死んで詫びろォオオ!!」
「ングゥエェエエエッ……!!ンウゥウッ!!グゥウウゥウウウ!!!」
「んグゥ!!ンムゥグウグッ……!?」
「喋るなァアアアッ!!手前らみてえなゴミクズが人様の言葉を使うんじゃねェエエッ!!
「グフ……ッ!グッ……厶ウゥゥ……ッ!!」
「何をのうのうと息してやがるッ!!どんな面でお天道様の下にいやがんだッ!!アア!?手前らの存在全てが許せねえッ!!同じ人である事が許せねえッ!!同じ空気を吸ってる事が我慢ならねえッ!!!」
いったい彼が何にそれ程怒っているのかは分からない。
けれども、彼にここまで言わせるのは余程の事だろう。
顔に、体に、髪に、返り血が飛び散り汚れていく彼を私は何も出来ずに見つめていた。
何と声を掛けていいのか分からなかったのだ。
後何か怖い。
軈て、タマちゃんが殴っていた男の人が動かなくなり、それでも殴るのを止めない彼にヘデラが近づいた。
彼女は血塗れの彼を後ろからそっと抱き締めると、ゆっくり抱え上げる。
倒れ付して動かない男の人の胸倉から離れた彼は、我に返ったように振り返って、軈て振り上げていた拳を力無く自分の太腿へと振り下ろした。
「どうしたのですか?タマちゃん、落ち着いて下さい。幾らわたくし達を襲おうとしたゴミクズだとしても、貴方がそこまで我を忘れるのはただ事では無いでしょう。どうか落ち着いて、わたくしにも教えて下さい」
立ち上がったタマちゃんを離して、正面から見据えるヘデラ。
彼女が優しい口調でそう訊ねると、タマちゃんは悲しそうな表情を見せた後俯いた。
その間も、私には全く彼の心境が分からずにいた。
ただ、心配なのは確か。
だって、幼い少女のような見た目の彼は、幽霊に怖がるような優しいおじさんなのだから。
軈てゆっくりと顔を上げた彼は、やはり悲しそうな表情のまま言った。
「…………御主人様、少し寄り道してえとこがあんだが……良いかい?」
「それは構いませんが……」
「ソフィアの嬢ちゃん、悪いが着いて来てくれるかい?」
「あ、ああ……分かった」
「アリス様とエディルアちゃんはここでこのクズ共を見張っててくれ」
「うん」
「この人達を見てれば良いのね?」
「すまねえなァ……頼まァ」
そう言って、悲しそうに笑うタマちゃんが力無く手を上げる。
何だか見てられない。
本当に大丈夫なのかな?
「ああ、なる程……これですか……」
「すまねえなァ……知っちまったからにゃあ放っておけねえ……御主人様達には関係のない事だろう?」
「関係無くなどありません。タマちゃん、はっきり申し上げます。タマちゃんはわたくし達の家族です。アリス様を思っての事でしょうが、それは要らぬ心遣いと言うものですよ。アリス様はいつもわたくし達を仲間外れにせぬようにと考えて行動なさっておられます。家族は共に有るべきだと。ならば、貴方が感じる問題はわたくし達皆の問題なのです」
「すまねえ……」
「何ですか、すまねえ、すまねえと謝ってばかり……全く、貴方らしくもない。行きましょう」
しかして、三人は森の中へと入って行ってしまった。
何だか分からない。
何処へ行ったんだろう?
頭の良くない私には何も分からないが、ちょっとお花を積みに行ったとかで無い事だけは確かだ。
ヘデラとソフィアがついているし、きっと大丈夫だとは思うけど……。
むう……。
何だか逆にむしゃくしゃしてきた。
帰ってきたらタマちゃんを問い詰めてやろう。
「何か分からないけど行っちゃったね」
「ふふ、まあいいわ。こうしてアリスと二人で森の中にいると、始めて出会った時を思いだすわね」
「そうだね。あれからそんなに経ってないのに、凄く長い間一緒にいる気がする」
「不思議ね。私もよ」
大きなミノムシが沢山転がる森の中の道に残されてしまった私とエディルアとセチア。
しょうがないので、ミノムシを観察することにした。
「タマちゃんがあんなに怒るなんて始めてね。この人達は何をしたのかしら?」
「どうなの?」
「……ッツァ!!うるっせええッ!!早くこれを解きやがれクソガ───ギィイイイャアアアアアアッ!!」
「次、私のアリスにそんな事言ったら全員殺すわ」
一人だけ口の拘束を解いて訊ねてみたら、二言くらい話した所で黒い霧に包まれて消えてしまった。
不思議な事もあるものだ。
きっと森の妖精のしわざだろう。
神隠しというやつかな?
仕方が無いので、もう一人、口の拘束を解いてみた。
「な……ッ!!な、何なんだよお前らァ!!俺達にこんな事してどうなるか分かってんのか!?」
おお……!
どっかで腐るほど聞いたことがあるような、ちゃちいセリフだ。
現実で言ってる人を始めて見た。
「あなた達こそ何なんなのかしら?私達を襲おうとしてたようだけど?」
「お前らみてえな馬鹿な女を攫って奴隷にすんだよ!!主の命令無しじゃ糞する事も出来ない、逆に主は何をしても許される、そんな玩具を作って売っぱらうんだ!!ハハッ!!ハハハハッ!!お前らも直にそうなるぜ!!」
ハハハハッ!!
何故この人は捕まってしまっているのに楽しそうなんだろう。
さっきから仲間が何人か死んでしまっていたりするのに……。
解せない。
危ない薬でもやってるのかな?
「奴隷?」
「ああ、そうだ!!お前ら何処ぞの王族か貴族だろう?『神の人形遊び』って聞いた事無いか?アァ??温室育ちのお嬢様でも裏奴隷くらい知ってんだろ?」
ふうん。
なる程。
この盗賊さん達は攫ってきた女の人を奴隷にするらしい。
『神の人形遊び』が何かは知らないが、裏奴隷というのは聞いたことがある。
所謂違法な奴隷の人達で、フィナードさん曰く、無実の罪を着せたり、攫って来た人を脅したりして無理矢理奴隷にしてしまうらしい。
奴隷契約を悪用しようとするのは見つかれば即刻処刑される程の重罪だけど、それでも盗賊の間やスラム等の裏社会ではごく普通に取り引きされているとか。
つまり、この人達は相当なクズだということだ。
「襲って捕まえた女の人を無理矢理奴隷にしてるの?」
「おうおう、そうだって言ってんだろ!?頭の悪いガキだな!!どうだ怖いか??ァア!?お前ら全員、ただ甚振られて壊されるだけの家畜以下の存在になるんだぜぇ??怖いなぁ!?嫌だなぁ!?ハッハッハ!!お前みたいなガキは高く売れんだ!!」
ふうん。
私みたいなガキは高く売れるらしい。
そろそろまた黒い霧が発生しそうなので、エディルアに少し待ってくれと頼みつつ頭の悪い事をペラペラ喋るクズに私は訊ねた。
「私みたいな子供が高く売れるの?」
「ハッハ!!そうだよお嬢様よォ!!お前みたいなガキを甚振るのが好きな変態貴族が何人かいてなァ。お前とあの糞ガキメイドはそいつの所行きだ!!手足を千切られて、ボロ雑巾みてえになっても死なせて貰えず、回復魔法を使って延々と嬲られるんだぜぇ??お願いします殺してくださいって泣き喚くんだ。心が壊れるまでずっとずっとなァ!!どうだァ??今泣いてもいいんだぞ??アハハハハッ!!」
「ふうん。じゃあ、さっきから自信満々なのって、裏に貴族の人がついてるから?」
「アハハハハハハハ!!やっと分かったかバァーカ!!お得意さんは貴族ばっかりさ!!お前の飼い主になるのはあのラシュトール公爵だ!!拷問大好きなロリコンの変態野郎だぜ、良かったなァ!!!俺達に出会っちまった時点で、お前ら全員もう終わりなんだよ!!ヒャッヒャッヒャッ!!!」
「でも捕まっちゃってるよ?」
「あぁあ??アホかお前??捕まえたからなんだってんだァ??俺達の仲間がどれだけいると思う??何処にだっているんだよッ!!冒険者ギルドに引き渡すか??王国兵士に引き渡すか??ここで全員殺すか??ざぁ〜んねんッ!!俺達の仲間が確実にお前ら全員を見つけ出す!!そして生きたまま長い長い地獄の始まりだ!!俺達に歯向かったらどうなるか判らせてやるよバァーカ!!」
「そっか」
何だこれは……。
こんなにも腹が煮えくり返る気持ちになったのは始めてだ。
始めて人を殺した、あの夜の比じゃない程に。
胸糞悪いなんてもんじゃない。
こんな奴らは生きていちゃいけない。
人として終わってる。
ああ、そっか……。
相手の事が何でも分かってしまうタマちゃんが、あんなに怒り狂ったわけだ……。
全部、こいつらのせいか……。
「…………ッ!!!?な……ななな、何だよお前急にッ!!ハ……ハハハハ!精神異常系の魔法か!?アァ!?ナメてんのか!?そんな糞みてえな脅しで怖がるわけねえだろうがクソガキがアァ!!!さっさとこの糸解けやァアッ!!!」
そう、地べたで藻掻きまわりながら激高するミノムシ。
きっと、私の[高貴なる者]スキルの事を言っているんだろう。
今の私のオーラはどんな感じだろうか?
怖いのかな?
「アリス?もう終わった?さっさと殺しましょう。耳が腐りそうだわ」
無表情でそう言うエディルアは、今にも黒い霧を発生させそうだ。
確かに、彼女の言うとおり、このミノムシ達をさっさと殺してやりたいのは山々である。
こんなに圧倒的な殺意というものを覚えたのは初めてだ。
一緒の空間にいると思うだけで吐き気がする。
しかし、本当に殺してしまうのは良く無い。
このミノムシ達には私がちゃんと反省出来るように教育してあげよう。
だから、私は今から少しだけ人の心を忘れようと思う。
「エディルア、今から私がする事は三人にはナイショね?」
「良いけど、タマちゃんとヘデラにはバレるんじゃないかしら?」
……。
……確かに。
「…………そうだった。兎に角、ナイショ」
「ふふ、分かったわ。んー……それじゃあ私はお昼寝でもしてようかしら?セチア、いらっしゃい」
『うん……アリス、大丈夫……?』
セチアはそう言って、三角の耳をペタンと萎れさせて、心配そうに私を見上げている。
ほっほぉ。
こんな時も、私のセチア君は可愛い。
「大丈夫だよ。ちょっと待っててね」
そのふわふわの頭を撫でてからセチアをエディルアに渡した私は、自身とミノムシ達全員をある異空間へと瞬間的に転移させた。
上も下も、右も左も、何処までも真っ白な空間が続くここは、私がたった今作り出した何も無い産まれたての世界。
時間は進まず、全ての物が朽ちる事は無い。
停滞と、不変だけで形作られた世界。
そんな良く分からない場所に急に連れてこられて困惑するミノムシ達を一瞥し、私は告げた。
「ねえ、知ってる?人の魂は転生を繰り返すらしいよ。10回くらい」
創造神とかいうあの神様が言っていた事だ。
死んだ人の魂は再び人として生まれ変わる。
平均10回、と。
「は……はぁあ??何言ってんだ??何だよここは!!!良いからさっさとこの糸を解け!!どの道お前らはもう終わってんだからよォ!!」
ムグムグ言いながら、バタバタと地べたで藻掻きまわるミノムシ達。
若干一名は五月蝿く騒いでいる。
もう、私はこいつらを人とは思えない。
確実に滅ぼさなくてはいけない何かだ。
「殺しちゃったら、生まれ変わったら、また同じような事をしちゃうかもしれないよね?」
そう、だから殺したら駄目。
もしかしたら、私みたいな形で生まれ変わっちゃうかもしれないから。
それは絶対許せない。
「確か、ボロ雑巾みたいになっても死なせて貰えず、お願いします殺して下さいって泣き喚くんだっけ?」
酷い話だ。
殺して下さいなんて言葉、私は認めない。
そんなのあっちゃいけないんだ。
だから少しでも、無くそうと思う。
こいつらはここでその気持ちを味わうと良い。
これは人でなしな私の私刑だ。
「あなた達はあの世界にはいらない。存在も認めない。永久に続く終末の中で、恐怖と苦痛に塗れながら全ての終わりを再現し続けろ。我がアリスの名のもとに黙示録をここに告げる。[キ、?ヨ、ルフシィ]」
私がそう言い終えた瞬間。
世界が終わった。
きっと、数分も経っていないだろう。
私は元いた森の中へと帰ってきた。
木々の隙間から光が差し込む明るい森の中。
血溜まりが残る土道の脇に止まったトラックに近づくと、荷台で寝転がっていたエディルアとセチアが私に気がついて起き上がった。
「あら、早かったわね」
『スッキリした?』
スッキリした。
私があの異空間で唱えたのは、原初魔法の内の最高位の固有魔法。
良く分からないが、世界の終わりを再現するらしい。
私が死んで魔法の効力が途切れるまで、彼等はあの空間で永遠に続くアポカリプスタイムを楽しむことだろう。
死ぬこともなく、助かることもない。
お願いだから殺して下さいなんて、きっと言えっこ無いだろう。
…………。
ふんっ。
ざまあみろ。
「うん。私もお昼寝する」
軽トラックの荷台に飛び乗って、私もエディルア達の隣に寝転がる。
目を瞑れば、森のざわめきが耳に心地良い。
後ろから抱きついてくるエディルアも、私の腕の中で丸まるセチアも、確かに温かい。
タマちゃん達が帰ってくるまでの少しだけ、この清々しい気分に浸っていようと思う。
眠りに落ちる前に一つ深く息を吸い込んでみれば、土と木とお日様の香りに混じって、美味しく無さそうな血のニオイがした。