side.ナンシー 受付嬢さん、平穏を知る
──お姫様だ。
ナンシーが最初にその少女を見て抱いたのは、そんな感想だった。
ナンシー・ロドエはリアデにある冒険者ギルドの受付嬢として働いていた。
彼女はリアデに店を構えるロドエ商店の次女として生まれ育ち、冒険者ギルドのギルドマスターに受付嬢としてスカウトされたのが、今から四年前の二十歳の時だった。
快活で人当たりの良い性格と、生まれながらの物覚えの良さ、中性的でありながら人並み以上の容姿を兼ね備えた彼女は、仕事も直ぐに覚え、忽ち冒険者達に人気の受付嬢となった。
同僚との付き合いも良く、特に同じ受付嬢で一つ歳下のリリカとは今では親友と呼べる程に仲が良い。
交際するような異性は未だ見つから無いが、それでも彼女の人生は幸せだと言えるだろう。
何の不自由も無い、恵まれた生活と職場。
平穏で、平和そのものの毎日。
しかし、ナンシーはそんな自身の人生に、何処か満たされないものを感じていた。
冒険者ギルドの受付嬢として働いて来た四年間、月を重ねる毎にその思いは強くなり、彼女の中で確かな不満として、次第に胸の中に凝りを残すようになった。
──退屈だ。
それが彼女が何時しか自覚するようになった、誰にも話した事の無い不満の正体だった。
リアデは平和だ。
王国一安全な街だと言われているこの街があるヌーヴェル伯爵領は、領地の南西にある死の森から漏れ出す瘴気の影響で魔物自体の数が少なく、強い魔物も滅多に現れることはない。
下層に行く程に危険な種類の魔物が跋扈し、稀に魔物が溢れてスタンピードが起こるダンジョンや遺跡も存在しない。
日々人類が魔物による何らかの驚異に脅かされているこの世界で、この街は異常な程にそれが少なかった。
大陸の他のどの場所と比べてみても、リアデ程に「安全」「平和」という言葉が似合う街は、きっと存在しないだろう。
そして、そんな街の冒険者ギルドに在席する冒険者達は、当然のようにその殆どが、まだ冒険者に成り立ての、駆け出しの冒険者ばかりだった。
この街で力を付けた冒険者達は、他のもっと強い魔物がいる場所に行ってしまうから。
当然だろう。
強い魔物を倒し、その素材を手に入れる。
ダンジョンの深層に潜り、レアなアイテムを手に入れる。
冒険者達はそんな一攫千金を夢見て自らの命を掛ける者が大半だ。
弱い魔物ばかりのリアデ近辺で冒険者をしていても稼ぎにはならない。
だから、リアデには最高でもCランクの中堅冒険者が数人いる程度で、高ランクの冒険者など存在しない。
そんな平和な街の平和な冒険者ギルドで働くナンシーは、毎日を退屈に感じていた。
持ち込まれる魔物の素材は見飽きた低ランクのものばかり。
高ランクの魔物討伐なんて、ここ数年聴いた事が無い。
ギルドに寄せられる依頼も、ペットの捜索や掃除の代行などの微笑ましいものが大半だ。
ヤタの村でコカトリスが目撃されたらしいが、この街で最近有名な領主の娘率いる騎士隊が討伐に向かったそうで、それもナンシーには関係の無い話。
彼女の憂さを晴らす事は無かった。
うだつの上がらない冒険者達がやって来ては小金を稼ぎ、その仲介業務を繰り返す毎日に、彼女は飽きていた。
何か刺激が欲しいと、何時しかそんな風に思う程に代わり映えのしない平和が、彼女は退屈だった。
そして今日も、そんないつも通りのつまらない彼女の一日が終わりを告げた。
ギルド内にある酒場では、この街トップクラスの冒険者数名が寄り合って、情報交換と言う名の飲み会を開いている。
ガッツ、ダンの馬鹿二人組と、何時もはそのお守り役のハルク。
痴女の踊り子お姉さん、リナリア。
ジャビット、ネルサの幼馴染コンビ。
レオン、イディの同い年青年コンビ。
E〜Cの中堅冒険者達の中でも彼等はお互い仲が良く、その日の依頼を終えた後は毎晩のように飲んではどんちゃん騒ぎを繰り広げる。
中でもハルクとリナリアは酷い。
普段はダンとガッツのお守り役であり、冷静沈着で落ち着いた印象を受けるハルク。
厳つい髭面の彼は斥候としての腕も良く物腰も丁寧なのだが、酒が入るとそれがら全てが嘘だったかのように誰かれ構わず、馬鹿みたいに陽気なテンションで絡み出す。
リナリアも同じようなもので、絡み酒。加えて、ただでさえ肌色の多い服装だと言うのに、彼女は酔うと脱ぎだす癖がある。
机に立ってストリップショーを繰り広げないだけ今日はマシだ。
そして、ガッツとダンの馬鹿二人組がそれを囃し立て、ジャビットが悪乗りし、真面目なネルサが全員を叱りつける。
レオンとイディは苦笑気味にそれを眺める。
これもナンシーにとっては見飽きた、退屈で代わり映えのしない、いつもの光景だった。
数時間前から訪れる者がいなくなった受付カウンターで頬杖を突きながら、彼女はそんな平和な光景を退屈そうに眺めていた。
今日はもう、彼等以外の冒険者は来ないだろう。
何時もより早い時間に暇になってしまった彼女の同僚達も、皆暇そうにしている。
定時まであと半刻程。
今日の居残りはエバだった筈なので、ナンシーの仕事はこれで終わり。
今日も何時も通り、変わらない。
何事も無く、退屈なまま終るのだろう。
家に帰って寝て起きて、そして、また毎日と同じ明日が始まるのだろう。
──退屈だ。
ナンシーはそう思っていた。
彼女達が現れるまでは。
不意にギルドの扉が開かれた。
夜までには帰ると言っていたギルマスが帰って来たのだろう。
そう思いながらナンシーがギルドの入口に目をやると、開かれた扉から入って来たのは三人の美しい女性達だった。
一人目は妖艶な印象を受ける漆黒のドレスを着た、黒潤の長い髪を靡かせて優雅に歩くとても麗しい女性。
二人目は肩まで伸びた白銀の綺麗な髪に紅い瞳をした、柔和な印象を受ける、これまた非常に整った顔たちをしたメイド。
そして三人目、何処か高貴な雰囲気を纏った、お人形のような幼い少女。
とても高級そうな、美しく可愛らしいドレスで着飾り、その容姿は人間離れした程に整っている。
頭には可愛らしいリボンがちょこんと乗っかり、腰まで伸びた艷やかな蒼銀の髪はまるでシルクのようだった。
辺りを見回す、ルビーのような綺麗な紅い瞳に映すのは好奇心。
年相応のような稚さと、愛くるしさを感じさせるが、それと同時に、触れてはいけない、何か恐ろしい禁忌の存在であるかのような、非道くあべこべな印象を受けた。
──お姫様だ。
きっと何処かの国のお姫様達に違いない。
どういう理由かは知らないが、人目を忍びもせずにあんな高級そうな衣装を身に纏い、何よりも彼女達が発するオーラはただの人のそれでは無い。
きっと何か理由あってこの街を訪れた何処かの王族なんだろう。と。
王族を目にした事など無かったナンシーだが、ギルドに現れた彼女達を見て抱いたのは、そんな感想だった。
普段ならこんな時間でも依頼の完了報告に訪れる冒険者はいるが、今日は夕方までに出払いの報告は全て完了していた。
なのできっともう誰も来ないだろうと思っていたのだが、宛が外れてしまったようだ。
ナンシーは何時もと違ってしまった少しの非日常感に少し嬉しく思いながら、酔った冒険者達に早速絡まれながら自分がいるカウンターに近づいてきたその女性達に、愛想の良い笑顔を浮かべて決まり切った挨拶を口にした。
「こんにちは。本日はどういったご要件でしょうか」
それが後に、今までの平穏がどれ程に素晴らしいものであったかを彼女が思い知る事になる出来事。
真祖の姫アリスと、黒死の破滅龍エディルアとの出会いだった。
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そして、衝撃の出会いから数時間後、
──平和だ。何て素晴らしいんだろう。
ナンシーは何時も通りの退屈な仕事を片付けつつ、その何時も通りの平和をしみじみと噛み締めていた。
昨夜、突然彼女の前に現れた伝説の種族「真祖」と、お伽噺の存在「黒死の破滅龍」。
ナンシーは彼女達の正体を知って震え上がり、パニックを起こしてしまった。
てっきり何処かの王族だと思っていた可愛らしい少女は、真祖のお姫様で、美人なメイドさんはその真祖のお姫様お付きのメイド。
挙句、一緒にいたとても綺麗な女の人は、子供の頃に散々聴かされて脅かされてきた、彼女にとっては何よりも恐ろしい恐怖の存在、黒死の龍だと言うのだから、ナンシーは比喩で無くチビってしまった。
あの時、見通す石版に表示された、彼女達の種族名を見て、ナンシーは見間違いかと何度も目を擦ったが、黒い無機質な石版に浮かび上がった白い文字が変わる事は無かった。
そして、その内二人は文字通り産まれたばかりの年齢とレベル、一人は仙人の様な年齢とレベルであるのを見てナンシーの思考は停止し、桁が6個くらい違う、あり得ない能力値を見て身体の震えが止まらなくなった。
その後も、ナンシーはこれでもかと言う程の非日常を体験する事となる。
何故か土下座の格好で動かなくなった身体に恐怖し、必死に命乞いの言葉を吐き続け。
冒険者になりたいという彼女達をどうするか自分では判断出来ずに、ギルドマスターに直接話をして貰うように頼み込み。
何故か冒険者達と宴会を始めた彼女達を戦々恐々としながら見守り。
そんな彼女達と普通に、楽しそうに話をしている冒険者達に驚愕し。
気付かぬ内に全員帰ってしまった同僚達を恨み。
一向に帰って来ないギルドマスターを恨み。
帰ってしまった今日の居残り当番のエバの代わりに、片付けと終了業務の作業をし。
やっぱり冒険者になるのを止めたという彼女達に、ギルドマスターが帰って来なかった事を謝りまくり。
ギルドマスターと後日会って貰えるように彼女達に頼み込み。
彼女達がミスリルを買い取って欲しいと言うのを承諾し。
結局日が変わるまで帰って来なかったギルドマスターと、自分を残して帰っていった同僚の受付嬢達に呪詛を吐きつつ、ナンシーは無事に、生きて家に帰る事が出来たのだった。
そのままナンシーは眠れぬ夜を過ごし、もしかすると全て夢だったのかもしれないと寝惚けた期待を懐きつつ、翌朝、職場であるギルドに出社した。
そうして、ナンシーがギルドの前までやって来ると、黒死の龍がいた。
「あらナンシー、おはよう。いい朝ね」
彼女がこの世で最も恐ろしい想像上の生き物が、そんな挨拶と共に昨日見た美しい女性の姿で、現実のものとしてそこに立っていたのだ。
頭上に血塗れの、見たことのない恐ろしそうな魔物を抱えて自分の職場の前に立っている彼女を見た時、ナンシーは思った。
──ああ……平和って何て素敵な事だったんだろう……。
──私は何て馬鹿だったんだ。
──私は間違っていた。
──平和、平穏、退屈、暇、大いに素晴らしい。
──こんな見ただけでショック死するレベルの刺激などいらない。
──神様助けて。
と。
そして今、ナンシーは昨日まで退屈で嫌気がさしていた平穏の素晴らしさを噛み締めつつ、冒険者ギルドの受付嬢として何時も通りの業務を行っていたのだった。
「こんにちは。本日はどういったご要件でしょうか」
そんなマニュアルに添った何気ない挨拶ですら、平和の象徴のような気がして特別に思えてくる。
「あ、ナンシー!あの人達来てるわよ!」
昼前の一番忙しい時間帯、カウンターの前に伸びた冒険者の列を早く捌き、早くお昼ご飯を食べる為にせっせと作業をしていると、隣のカウンターからそんな言葉が聴こえてきた。
同じ受付嬢の同僚であり、ナンシーの親友、リリカの声だ。
ナンシーが隣のカウンターを見ると、ご自慢の綺麗な水色髪をツインテールにした何時もの髪型の彼女と目が合った。
彼女は忙しそうに手を動かしながら、ナンシーのカウンターの前に出来た列を、目の仕草だけで示している。
あの人達。
リリカの言うその人達がどの人達なのか、ナンシーは直ぐに理解出来た。
リリカが示す先、自分のカウンターの前に伸びる列の中程に、昨日の三人の姿が見えたからだ。
黒いドレスを着た、黒髪長髪の絶世の美女。
銀髪、紅眼の優しそうな顔をした美人メイド。
蒼銀髪、紅眼の可愛らしいドレスを着た、人形のようなとても可愛いらしい美少女。
──来てしまった。
ナンシーは何時も通りの日常が終わってしまった事に少し落胆しつつも、一刻も早く彼女達の相手をする為に倍速で作業を進めていく。
彼女達が、ある程度の良識と理性を持ち合わせている存在なのは昨日幾らか接して分かっていた為、彼女達が大人しく列に並んで順番を待ってくれているのを目にしてナンシーは息を付いた。
何故かは分からないが、彼女達はどうやらお金を稼ぎたがっているらしかった。
聴いてみればその為に冒険者になろうとしたり、素材を売ろうとしているのだから、そんな何とも「普通」な彼女達に、ナンシーは少し拍子抜けしてしまったのだ。
方や伝説上の種族、方や誰もが恐れるようなお伽噺の存在。
そんな彼女達なら、街を襲って金目の物を手に入れるなんて事は片手間で出来てしまうだろう。
それ以外にも、簡単に金を手に入れる方法などいくらでもありそうなものだ。
しかし、彼女達は真っ当に稼ぎたいのだと言う。
彼女達の事を恐ろしい存在だと思っているナンシーからしてみても、「多分悪い人達では無いのだろう」と思える程に、彼女達は「普通」寄りだったのだ。
加えて、ガッツ達と仲良さげに話をしていたり、彼らに色々と教えて貰った御礼だと加護やミスリルの塊を渡したり、そして何よりも、見た目だけは女である自分ですら見惚れてしまう程の絶世の美女三人組。
ファーストインプレッションでビビりまくり、死を覚悟したナンシーも、今では普通に接する限りはただの人と変わらない存在だと思っていた。
寧ろ、良い人達なのかも知れないと思えてくる程に、最初に感じた恐怖は一晩経った今では何も感じ無い。
だから、ナンシーは昨晩よりもずっと気が楽だったのだ。
自分が頼んで来て貰った手前、忙しい時間帯とはいえ余り彼女達を待たせるのは悪いだろう。
そう思い、他の受付嬢達に自分の列を割りふって貰おうとしたその時だった。
「それは私達に言っているのかしら?」
そんな声が聞こえた。
澄んだハープの音色のような声。
しかし、聴いた者全てに凍えるような恐怖を感じさせるような怒りを孕んだそれは、ナンシーには聞き覚えのある声だった。
黒死の龍の声。
そう気付いたナンシーは、リリカに声を掛けようと隣を向いていた視線を恐る恐るその声の元へと向けた。
嫌な汗が流れてくる。
本当は見たくは無いのが、けれどもナンシーには確認する必要がある。
彼女達をここに呼んだ義務、ひいては自分の命の為に。
──まさか……。
そんな予感は、果たして最悪な形で見事的中してまうことになった。
冒険者達でごった返すギルド内で、人が割れたように空いたスペースの中、五人の男達が黒死の龍達に絡んでいたのだ。
その五人の冒険者達をナンシーは知っていた。
パーティー「赤い鷲」。
リアデ冒険者ギルド内屈指の問題児達だ。
新人潰し、強姦、強請り、強盗など、悪い噂は絶えず、しかしその手口は巧妙で、ギルドでも一切証拠が掴めないでいた。
おまけに全員がDランクの冒険者。
妙に腕が経つ分余計に質が悪く、ギルドマスターも目を光らせていた問題パーティーだった。
そんな彼らが何を血迷ったのか、大勢の冒険者が見ている前で、人目も憚らず、黒死の龍達三人に声を掛け、あろう事かゲスな事を宣いながら強引に彼女達を連れ出そうとしていたのだ。
自殺行為なんてものじゃない。
最悪このギルドごと消し飛ばされてしまう。
何時もはギルドで目立つ事はせずに、裏でセコセコと悪事を働く小悪党達が、何故よりによって今日、彼女達に限って堂々と事に及ぶのか。
──何を考えているんだあの馬鹿共は!!
ナンシーは怒りと焦りと自身の死の危険から、半ばパニックになりつつも、必死に対処を考える。
否、考えている暇は無い。
兎に角、早く声を掛け無ければ、取り返しのつかない事になるかもしれない。
そう思い、ナンシーが声を掛けようとした瞬間、あり得ない事が起こった。
黒死の龍達ににじり寄っていた「赤い鷲」の五人が消えたのだ。
否、正確には、五人の内三人が一瞬で肉の塊になり、残り二人に黒い靄の様なものが纏わり付き「イギャアアアアアァァアアアアアッッ!!」という悲鳴と共に薄れ消えてしまったのだ。
そして、それを見ていたナンシーの脳内に、幼い頃から言い聞かされてきた祖母の言葉が蘇った。
『良いかいナンシー。悪い事をする人の所には黒死の龍がやって来くるんだよ』
『へえ。その龍はやって来てどうするの?』
『悪い人の魂を食べてしまうんだ』
『ええ!?食べられちゃうの!?』
『ああ、だからナンシーは悪い事をしてはいけないよ。黒死の龍が来て魂を食べられてしまうからね』
『うん!私は悪い事しない!良い子にする!』
『おお、ナンシーは偉いねぇ』
そんな原風景が脳裏に流れた後、ナンシーは祖母のその言葉が真実だった事を覚った。
正確には「ミンチになったり、黒い靄に包まれて消える」だったが。
「ああ……本当に……悪い事をしたら魂を食べられるんだ……」
騒然となったギルドの中、何事も無かったかのように自分の元へとやって来る三人を呆然と眺めながらそんな事を呟いたナンシーは、その日、本当の意味で「平穏」を知る事になったのだった。