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「さあ、参りましょう」
にこりと笑ったその声が合図だった。
「アーリア!」
リベルトの叫び声が聞こえた。
次の瞬間。
アーリアは冷たい海へと沈んでいた。
水しぶきの音がどこか遠くのことのように感じられた。水面に打ち付けられた衝撃でたくさんの海水を飲んでしまう。
体に巻かれた縄のせいで身動きができない。
重石がゆっくりとアーリアを海底へと誘う。
苦しい。
息ができない。
わたし、本当に海の王のところへ返されちゃうのかな。
アーリアは薄眼を開いた。
なにか、ぼんやりと光が見えたような気がした。
ほのかな光が頼りなく揺らぐ。
灯りと一緒に何かの影がアーリアを追いかけてくる。
なんだろうと思ったら、強く抱きかかえられた。
(う、うそ……)
目の前にリベルトがいた。
ぼんやり光っているのは彼が首からかけている真珠玉だった。
(どう、して……こんなところに……あなたも死んじゃう)
アーリアは目で訴えた。
リベルトはアーリアを海の上へ連れて泳ごうとする。
「だ、め……」
ごほっと空気が口から吐かれた。
アーリアの足には重石がつけられている。そんな状態でリベルト一人の力だけでアーリアを連れて泳ぐことなんてできない。暗い海で彼がアーリアを探し出すことができたのが奇跡。
それなのに、彼はまだあきらめていない。
彼はこの絶望的な状況でもアーリアを手放そうとはしていない。
リベルトはアーリアと共にある未来を選んでくれている。
ふと、テオドールとの会話を思い出した。
リベルトと同じ方向を向きたいと、あのとき確かに思った。
リベルトがあきらめないなら、わたしもあきらめない。
海の王の魔法だって、わたしが自分の力で解いてみせる。ずっとリベルトの隣にいたい。それを願うことは悪いことだろうか。
アーリアは、ただリベルトを選んだだけだ。彼はアーリアの事情に巻き込まれただけなのに。彼はまだあきらめていない。
(わたしも……あきらめたくない。リベルト殿下との未来をつかみ取りたい。魔法もなにもかも、全部……打ち破って。違う、魔法に負けたくない。リベルト殿下と一緒に幸せになりたいっ!)
アーリアは強く願った。
リベルトと一緒にいたい、と。この状況下でも絶望をしたくないと。
あなたと一緒に未来を望みたい。
そのためなら、海の王の魔法だって打ち負かせてみせる。
アーリアが強く願ったとき。
二人は淡い光に包まれた。
アーリアはあたりをながめる余裕もないまま気を失った。
◇◇◇
リベルトが気が付いたとき、あたりの景色は一変していた。
海へ投げ出されたアーリアを追いかけて自身も飛び込んだ。闇のような海中で、自分がどこにいるのかもわからないような絶望感を覚えたのは一瞬のこと。そのあと、不思議なことが起きた。
リベルトが肌身離さず身に着けていた真珠玉。鎖の通したそれはアーリアの涙が変化したもの。あのとき、偶然上着のポケットに入ったようで、リベルトは少女趣味だな、という自覚を十分に持ったうえで鎖に通して首からかけていた。
その真珠がぼんやりと光った。
そのうえ、まるで真珠自体が意思を持っているかのように、ある方向へリベルトを連れて行こうと揺れ動く。
真珠に導かれるようにリベルトは深く海を潜っていった。
すると、先の方にぼんやりと何かが浮かび上がる。
それが銀色の髪の毛だと理解したリベルトは水を掻く手に力を込めた。
「アーリア?」
リベルトは起き上がって辺りを見渡した。
固い石の上に寝かされていたらしい。彼のすぐ隣には気を失ったままのアーリアの姿があった。
美しい青銀の髪が石畳の上に広がっている。リベルトは慌ててアーリアの口元に顔を近づけた。
わずかだが呼吸をしている。
胸が上下しているのを確認してリベルトはホッとした。アーリアを縛っていた縄はいつの間にか外されていた。
白い大きな長方形の石が整然と並べられ、遠くの方には崩れかけた壁や石柱も確認できる。
ゆらゆらと不思議な色に煌めく空気、と考えてリベルトは自分たちがいる場所がまだ海の中だと理解した。
空は藍色に染まっており、何かの影が時折揺らめく。しかし、空ではない。
なにしろリベルトのはるか上空を時折魚の群れが泳いでいくのだ。
魚が空を泳ぐはずはない。
空気が光に反射しているようなきらめきは、海の中で水が光に反射をしているときと同じ現象のような気がする。
リベルトは自分たちの身に常識では考えられないことが起こったことを悟った。
「アーリア、おい、アーリア。目を覚ませ」
リベルトはアーリアの首の後ろに腕を入れて、彼女の上半身を抱き起す。自身の胸の中にアーリアを抱え込んで、彼女の中を呼び続ける。
アーリアはぐっすり眠っているのか起きる気配もない。
(そういえば、前に寝つきだけはいいとか自慢されたことがあったな……)
この状況下でそれを発揮するか? とリベルトは恨みがましい視線を彼女に送るがアーリアは相変わらず意識不明のまま。
リベルトはもう少し強くアーリアを起こすことにした。
「アーリア、起きるんだ」
もう一度彼女の名前を呼び、やはり反応が無いことを確認する。今度は鼻をつまんで唇を自身のそれでふさいだ。
数十秒後。
アーリアが身じろぎをしたためリベルトは唇を離した。
「っはあ……苦しかった。呼吸できないって辛いっ」
アーリアはぜえぜえと呼吸を整えた。
リベルトは彼女の元気な声に心底安堵した。
肩で息をしていた彼女は、少しして落ち着いたのか辺りを見渡した。
「リベルト殿下! あなたったらこんなところまでついてきちゃって。あなたまで死んじゃったらトレビドーナはどうなるのよっ!」
「おまえ、死んだことになったのか」
「海に落とされたのよ。呼吸できなかったもの。人間水の中だと息できなくて死んじゃうのよ」
アーリアは何を当たり前のことをとばかりに胸を張る。
「俺たち今、息しているだろう」
「死んで黄泉の国に来たのだから息くらいできるでしょう」
アーリアは首をかしげる。
どうやら彼女の思考はそこから動かないらしい。自分たちは死んだ、と聞かされてもリベルトはまるで実感がない。黄泉の国がこんな暗い訳があるか、と思う。
「どうやらここはまだ海の底のようだ」
「へっ? だって、わたしたち息……」
アーリアはリベルトの腕の中で驚いてみせた。言いたいことは十分に理解できる。
「二人とも無事に起きたようだな」
突然女の声が聞こえてリベルトはアーリアを守る様に抱きしめる。
気配などまるでしなかった。
リベルトとアーリアの正面に、いつの間にか女が立っていた。
いや、泳いでいると言った方がいいのかもしれない。女の体半分は魚の尾ひれ。
アーリアと同じ青銀色の髪に、腰から下に巻き付けられた布からはみ出しているのは同じく青く光る尾ひれだった。
妙齢な年頃の女は片腕を持ち上げた。
すると、何もないところから人間の少女が姿を現した。気を失っており、少女の体からは力が抜けており、だらりと首が前に垂れ下がっている。
「マリアナだわ」
「連れの者も海の中をさまよっていた。今回人間をこちら側へ招いたのは、海の王の最後の気まぐれ。いや、温情だ。ありがたく思え」
女の声は堅かった。
親しみを一切感じさせない怜悧な声。
「海の王ですって」
アーリアがつぶやいた。
「ところで、ここはどこなんだ。こちら側というのは?」
リベルトも今の言葉の中で気になった部分を尋ねた。




