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「久しぶりだね、アーリア。少し見ないうちに大人っぽくなったね」
「きれいになった?」
「うん。見違えたよ」
イルファーカスの回答に満足をしたアーリアはそのまま彼に抱きついた。
昔から妹は臆面もなく兄に対して愛情表現をする。仲の良い兄妹だった。
まるで甘えん坊の犬のように兄に抱き着いて頬を摺り寄せるアーリアに、イルファーカスもつい昔のようにふわふわとした頭を撫でてやる。
と、そこに妙な冷気を感じた。
棒立ちをしているトレビドーナの王子二人だ。彼らはどちらも、突然始まった兄妹の感動の再会を見物し、一人は視線をさまよわせ、もう一人は目をすがめた。
背後から冷気を出しているリベルトは今にも二人を引き離すために動き出そうとしている。
(そういえば、アーリアの婚約者はリベルト殿下に決まったのだった)
イルファーカスは妹から離れた。
アーリアは名残惜しそうに、兄を見上げた。
「ほら、アーリア。いつまでもこどものようなことをしていてはいけないよ」
妹に向かって人差し指を掲げて見せると、アーリアはようやくトレビドーナの王子二人の存在に気が付いたらしい。「あ……」と声を漏らしばつが悪そうに居住まいを正した。
「ずいぶんと仲がいいんだな」
低い声を出したのはリベルトだ。
これは相当に怒っているな、とイルファーカスは心の中で呟いた。
「ええそうなの。お兄様はとっても優しいのよ。わたしが小さいころからいつも遊んでくれたし、お勉強も教えてくれたし、抱っこもしてくれたのよ」
アーリアはリベルトの微妙な男心にまるで気が付かないように嬉々として説明する。
アーリアの声音に反応するようにリベルトの背後から漂う冷気の温度が下がった。
政略結婚だと思っていたが、どうやら二人の仲は良好らしい。
「こらこら、アーリア。そういうのって普通婚約者の前でばらさないでって、女の子の方が恥ずかしがることだろう」
「え、そうなの? でも、お兄様が優しいのは本当のところだし」
アーリアは驚く声を出す。
純粋に育ちすぎた妹が果たして大国の王妃を務めることができるのか、一抹の不安を覚えるイルファーカスだ。
「これからは兄ではなく婚約者であるリベルト殿下に甘えなさい」
でないとこっちの身が持たない、と心中で付け加えておく。どうやらリベルトの方はアーリアにべた惚れのようだから。
「!」
兄の言葉に妹は顔を真っ赤にした。
もじもじと胸の前で両手をもてあそび、ちらりと後ろを振り返る。
「わ、わたし! お母様のところに行ってくるわ」
急いだように早口で言い、アーリアは勢いよく部屋を飛び出した。
ばたんと扉が閉まる音が聞こえる。
イルファーカスは小さく肩をすくめた。
一応淑女教育は済ませたのに、今日のアーリアはいつにも増して落ち着きがない。
「すみません。妹は普段はきちんとしつけられた娘なのですが……」
「いや、久しぶりの実家で嬉しいのだろう。兄妹仲が良くて結構だ」
本当に結構だと思っている顔ですか、と突っ込まずにはいられない、険しい顔つきだったがイルファーカスは曖昧に頷いた。
三人はそれぞれ椅子に座る。
今回の歓待役は王よりイルファーカスに任されている。年齢も近く、互いに将来国を背負う者同士今の内から親しくしておけ、とのことだ。
「それにしても、ずいぶんと面白い旅装束で現れたので驚きました」
「事前に伝令で知らせておいた」
「ええ、まあ」
リベルトは普段から軍で指揮も取っていると伝わっている。少ない部下たちは皆、場慣れしており、王太子自ら市井の者に扮装し極秘に国を越えた。なかなかできることではない。大国の機動力を見せつけられたかのようだ。
「こちらの国でのアーリアの置かれた状況を知りたくもあった。多少強引ではあったが」
そして彼はさらりと本題を口にした。
その瞳はじっとイルファーカスを見据える。
「アーリアがトレビドーナへ渡ってくるとき。コゼントは条件を付けた。トレビドーナ王家の人間の直接の出迎え。そして貴殿の国境まで付き添い。ずいぶんと過保護だと思ったが……あれは、海神狂の人間を警戒してのことか?」
リベルトの口から発せられた海神狂と言う言葉。
「殿下のおっしゃる通りです」
イルファーカスは背後の背もたれに体を少し預けた。
「妹は随分とそちらの国でよくしてもらっているようですね。兄としてお礼を申し上げます」
イルファーカスはまずは家族として礼を言い、それからリベルトに先を促した。
彼は随分と人魚と、コゼントに伝わる人魚伝説について調べてきていた。
海神狂についても同様だった。
「彼女はいつから狙われている?」
「彼らにとって王家の人間は憎き仇であり、守るべき人魚の姫の血筋。中でも、初めて生まれた人魚返りの王女のことは、どこで聞きつけたのか、彼女がまだ幼いころからねらっていましてね」
「ええと……。それはどういう?」
ここで質問をしたのは第二王子のテオドールだ。リベルトと違い穏やかそうな彼は、話についていけずに目を白黒させている。
「ああおまえには話していなかったな。アーリアをトレビドーナに預けたのは、コゼント国内の厄介な団体から逃がすためでもあったということだ」
そうだろう、という視線を投げかけられればイルファーカスは、結局は頷く羽目になる。
大陸の中でも強国であるトレビドーナの宮殿が安全なことはまず間違いない。
リベルトは隣に座るテオドールに対して簡潔に海の王を狂信的に信仰する集団について話した。
「ですから、今回は少し苦言を呈したいのですよ。……時期が悪すぎました」
「時期?」
イルファーカスは長い息を吐いた。
結局逃がしたつもりのアーリアは戻ってきてしまった。
「ええ。海の王の代替わりが近いようです」
「代替わり?」
イルファーカスの言葉を復唱したのはテオドールだ。
イルファーカスは無言で頷いた。
「海の王は何百年かに一度代替わりをします。彼らとて不死身ではないのです。だから、王をあがめる一部の熱心な信者たちは、現王の娘の血を引くアーリアを、彼の元に返そうと躍起になっているのです」
イルファーカスは柔らかな布に包んだ言い方をした。リベルトはきちんと意味を理解したようだ。
「後を引き継いだ本隊からの報告だ。特に異常はなかった、とのことだ」
「さすがに彼らも軍事強国とうたわれているトレビドーナの王太子一行を襲うような真似はしないでしょう」
「俺たちは、アーリアの魔法を解くまでは国に帰れない。いや、帰る気がない」
リベルトはきっぱりとした口調で断言した。
「魔法を……」
「ああそうだ。イルファーカス殿下は何かご存じないか」
「残念ながら。王に直接伝わっている言葉は、私にはまだ降りてきていません」
イルファーカスは首を横に振った。
おそらく父は何かを知っているのだろう。アーリアの一時帰国の知らせにも彼はいつも難しい顔をしていた。
「では王に直接会うことはできるだろうか」
「王からの伝言です。少し、見極めさせてほしい、と」
この言葉を伝えるとリベルトはかすかに眉間にしわを寄せた。
「何を見極める?」
「申し訳ございません。そこまではわかりません。ただ、父も今はおそらく……迷っておられるのでしょう。アーリアと婚約をした殿下に、彼女を本当の意味で託してよいものか。これは、王とは違った、親としての心でしょう」
そこまで言えばリベルトは不承不承押し黙った。
その場にしばしの沈黙が訪れる。
「彼女の警護は万全なのか?」
やがて口を開いたリベルトは別のことを訪ねてきた。
「もちろんです」
そこだけは昔から抜かりがない。
自信たっぷりに頷くイルファーカスにリベルトはさらに言い募る。
「侍女の身元はどうなっている?」
「え、ええ。しかるべき身元調査はきちんとしていますよ。なにか、気になる点でも?」
「……少し。マリアナという少女について知りたい」
リベルトが口にした侍女の名前をイルファーカスは口の中で転がした。
アーリアにつけられた侍女は全部で五人。身元調査は万全を期している。
「たしか、彼女はしかるべき身分の者の演者ですよ」
「そうか……」
リベルトとはそれから港に駐屯する海軍の視察日程や会合の予定などを打ち合わせた。




