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◇◇◇
それは今をさかのぼること二か月半前。
まだ、寒さ厳しい二月の頃だった。
コゼント王国の王都スキアの東側の高台に建つ王城の奥のさらに奥。
アーリアは人工池のほとりに座っていた。
南に位置するコゼントだけれど、冬場はそれなりに気温は低くなる。
それでも彼女は彼女の居住する離宮の庭園に設えられた人工池に腰かけていた。
「きみのトレビドーナへの遊学が正式に決まったよ」
兄イルファーカスはアーリアの側に膝をつく。彼もアーリアと同様青銀の髪に瞳はアーリアよりも薄い青のそれをしている。
「わたしももう十六よ。とっくに覚悟はできていたわ。毎日トレビドーナ語も歴史も勉強していたし。大丈夫、任せて頂戴」
属国となった国の王の子供はトレビドーナに召喚される。もうずっと、何年も前から話は出ていた。
青みの強いふわふわとした銀色の髪を背中に垂らしたアーリアはあっけらかんと言い放った。
まだ二月だというのにその身にまとっているのは薄手のドレスで、それもひざ丈までしかないという頼りなさだ。
胸のすぐ下でリボンで切り替えた、体を圧迫しない意匠のドレスはアーリアの定番だ。
「気合入っているね」
イルファーカスは苦笑する。
少し大きな声を出しすぎたのかもしれない。
「わたし、嬉しいわ。これでちゃんとコゼントの王女の使命をまっとうできるもの」
「話を進めたのは私だけれどね。苦渋の決断だったと、それだけは分かってほしい。何も、進んできみをトレビドーナへ渡すわけではないんだ」
「王子の言葉ではないわね」
「これは兄としての言葉だよ。それに、きみは自分の、その姿のことをわかっているのかい?」
アーリアはその言葉を聞いて、ふいに人工池へと飛び込んだ。
まだ二月。水は冷たい。
けれどアーリアは気にしない。人工池の中をすいすいと泳いで跳ねた。
池の中を一周してから再びバシャンとイルファーカスの前に顔を現す。
「わかっているわ。わかりすぎるくらいわかっているわよ。わたしが、月の半分は人魚の血のおかげで先祖返りをするってことくらい」
アーリアは肩をすくめた。
そう、十分にわかっている。
今アーリアの下半身にあるのは魚のような尾ひれだ。
「やっかいな体質よね。不自由な体けれど、要するに鱗が完全に乾かなければいいのよ。浴槽にでも浸かっているわ」
アーリアは努めて明るく言った。
アーリアの生まれたコゼントは海沿いの小さな国。周り三か国を大国に囲まれている。
小さな王国がどの国にも併合されなかったのはひとえに他の国同士が睨みを効かせ、長い間暗黙の不可侵ルールがあったからだ。
そこにコゼントの意思は関係ない。
その均衡を崩して北の国境を有するトレビドーナ有利の軍事・貿易同盟を結んだのが九年ほど前のこと。嵐と不作に見舞われた年で、苦渋の決断だった。
「我が国がもっと強ければ」
イルファーカスは無念そうに奥歯をかみしめる。
こればかりは一長一短でどうにかなるものではない。アーリアは微苦笑した。
「もしくは、人魚の呪いなどなければ」
「そうねえ。わたしだって……ほんとはもっと自由に外を歩きたいわよ! なんって面倒なの! 人魚の呪い!」
アーリアは叫んだ。
物心ついたときから叫び続けているのでイルファーカスは慣れているのかアーリアの頭をぽんぽんと撫でた。
「アーリア……」
「大体! ご先祖の王子が人魚の姫に恋をしたからいけないのよ! おかげで子孫が苦労する羽目になるんだわ。人魚の血が濃いのか先祖返りだか知らないけれど月の半分は人魚になるなんて」
コゼント王国に古くから伝わる昔話。
この昔話にでてくる王子と人魚の姫がアーリアのご先祖様だ。今から約百五十年ほど前の実話。
海の王の嘆きはねじれた魔法となり、子孫に降りかかった。
時たま人魚化する子供が生まれる。
魔法のかかり具合なのか、人魚の血の濃さなのか人魚返りする期間は、まちまちだ。
アーリアはその中でも特に魔法の影響を濃く受けている。月の半分以上は人魚の姿になる。
「お父様は大人になったら魔法が解けるかもしれない、なんて慰めてくれていたけれど。わたし、もう十六になったのよ」
呪いはいつ解けるの? と小さなころから尋ねれば、父ビアージョルトはアーリアの頭をぽんぽんとやさしく撫でながら、『大きくなったら解けるよ、きっと』と繰り返した。アーリアももう十六になった。十分に大人だと思うけれど、魔法が解けるような気配はまるでない。
「市井の人魚返りの者たちの中には魔法が解けた者だっているだろう」
「そうねえ。でも、実際のところよくは分からないのよね。だって、みんな自分は人魚返りしています、なんて言わないのでしょう」
アーリアは兄を仰ぎ見る。
尾ひれは水に浸かったままでぱしゃぱしゃと前後させる。真冬の水に浸かって、それも濡れたままのドレスを身にまとっているのにアーリアはまったく寒さを感じない。
これも人魚返りをしている者の特徴だ。完全に人魚と同じ身体能力になるから、氷の張った水でもへっちゃらだし、水の中でも呼吸ができる。
「まあね。大抵のものは隠すね。それでもご近所さんはなんとなく察するみたいだけれど何も聞かないし話さないね」
長い歴史の中で、ひっそりと生きてきた人魚返りたちはあまり多くを語らない。書物にも具体的な例が残っていない。
人魚返りの者たちは珍しさから他国の人買いに狙われることもあると聞く。
アーリア自身も両親や兄たちから口を酸っぱくして言われている。自分の正体を絶対にばらすな、と。
コゼント城の奥で暮らしているアーリアにしてみれば誰にもばらす機会などないのだが。
「アーリア、苦労を掛けるね」
イルファーカスはアーリアの肩に腕を回し、引き寄せた。
アーリアはされるがままになる。
幼いころから優しい兄はこうしてアーリアを慰めてくれる。
「大丈夫よ。トレビドーナは内陸国よ。もしかしたら海の王の魔法だって及ばないかもしれないじゃない。そうしたら、ほら、月のうち人魚になるのも三日とか五日くらいに軽減されるかもしれないわ」
アーリアはあえて明るい声を出した。
いま思いついた考えだけれど、もしかしたらと心が一気に軽くなる。
「アーリア……」
イルファーカスは健気な妹に瞳を細める。
「それじゃあせめて遊学道具は立派なものをそろえようか。何が欲しい?」
「そおねえ……。何がいいかしら」
兄の気遣いに乗っかることにしたアーリアは人差し指を顎に当て、しばらくの間虚空を見つめた。
◇◇◇
旅たちの日は快晴だった。
この日は人魚の日ではなかったため、きちんとドレスを身に着け、臣下の前で礼をした。
王城には少なくない見送りの人々が集まった。
家族との私的な別れは昨日のうちに済ませてあるのに、母は名残惜しそうにアーリアの頬を撫でる。
「無事にトレビドーナの宮殿についたら手紙を書いて送って頂戴ね。絶対ですよ。ああそれと、向こうにはコゼントの大使もおります。何かあれば彼を頼るよう―」
「これこれ、昨日も散々言うたであろう」
幼子に言い聞かせるように何度も同じことを繰り返す妻に夫である国王は窘める。
「ですが……」
可愛い娘と離れる王妃は眉尻を下げる。
アーリアは母に抱き着いた。
見送りに来た者たちの内、幾人かが手巾を目に当てる。
アーリアは母から体を離して、小さく首を横に振った。
「みなさん。わたくしのために今日はありがとう」
アーリアは清楚に微笑み、優雅に膝を折ってから馬車に乗り込んだ。
優しい兄はコゼントとトレビドーナの国境まで付き従ってくれる。彼はこれまで不自由な生活を強いられるアーリアの元に足繁く通い、勉強を教えてくれた。
一度トレビドーナへ入れば、次はいつ故郷へ帰って来られるかもわからない。
アーリアは馬車の窓辺に寄り、外を眺めた。
王妃の寂しげな瞳から目が離せなくなる。
いよいよ出発する。ようやく、その実感がわいてきて、アーリアはきゅっと目をつむった。生まれてからずっと暮らしてきたお城を離れる時が来た。
ずっとずっと城の奥で大切に育てられた。人魚返りなんて厄介な体質に生まれたアーリアは満足に王女の役割も果たせなくて、いつも歯がゆい思いをしていた。せめて知識だけは人に負けたくないと外国語や歴史や淑女のたしなみを猛勉強した。
この城を出れば、アーリアはコゼントの王女としてトレビドーナに入る。王女としてようやく一歩を踏み出すことができる。
馬車はゆっくりと動き出した。
思えばお城の外に出るのは生れては初めてこのことだった。
王城の門を抜け、坂を下ると市街へ入る。馬車の通る大通りには大勢の市民が道の端に集まっている。皆、自国の姫君が宗主国へ向かうことを知っている。
締め切った馬車の中にも「姫様―」という声が時折聞こえてくる。
アーリアは市民の声に応えるように優雅に手を振った。
アーリアの乗る馬車の後ろにはこれからの生活に欠かせないものがたんまりと乗せられている。
(最後に、海に行きたかったな……)
遠ざかる故郷を尻目にアーリアは何と話に思った。