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◇◇◇
アーリアが人魚の姿になったのはそれから二日後のことだった。
コゼントの国境を超えるまであと一日といったくらいの距離。昨日からむずむずとしていた足は本日めでたく尾ひれに変わっていた。
「大丈夫。心配するな。今回はとっておきの策がある」
リベルトはなんてことないように部屋を出て行った。テオドールも「うん。ちゃんと兄上が準備していたから、安心して」と、言ったが、どこか視線が泳いでいた。
準備のために時間が必要だと言われて滞在する領主の館の一室で待たされた。
準備ができたからとリベルトがアーリアを呼びに来たため、アーリアは車いすに乗って裏庭へとやってきた。
黒い長方形の馬車が二台停まっていた。飾りはなく、普通ついているはずの窓が壁面にない。
「これって……」
「葬式用の馬車だ」
「!」
リベルトはなんてことないように言った。
アーリアはテオドールを見た。
彼は顔に苦笑いを浮かべている。
「これから俺たちは二手に分かれる。おまえをこれに乗せてコゼントに向かう隊と、これまで通り王太子一行の隊列と、だ。しばらくの間俺たちは身分を隠して行動をするからそのつもりで」
アーリアは口をぱくぱくと開けたり閉じたりした。
「えっと……。理由を聞いてもいいかしら」
話に付いて行けずにアーリアは額からたらりと汗を一筋流した。
「まず第一に、おまえの人魚返りをばれないようにするため。おまえ前回こっち来るとき相当無理していただろう」
人が多くかかわる隊列の中にいれば必然人と接する機会も増えてしまう。トレビドーナ行の時はかなり気を使い、確かに大変だった。
「第二に、おまえを安全かつ早くコゼントの王城に送り届けるため。速さを求める旅は身軽な方が機動力が上がる。その分連れて行ける人数は限られるが、そこはちょっと我慢してくれ」
「で、でも少ない人数であなたたちを護衛する人はどうするの?」
「俺と俺の厳選した部下を甘く見るな。おまえとテオドールを守るくらい簡単だ」
名指しされたテオドールは苦笑を浮かべる。
「えっと、中は……快適だと思うよ? ……たぶん。棺に水を張ってあるから鱗が乾く心配はないと思うんだ」
テオドールが小さな声で付け足した。
アーリアのためを思って別途手配してくれたのは嬉しい。
嬉しいけれど……なにか釈然としないというか、もう少し別のところで気を使ってほしかったと思うのはわがままだろうか。
なぜに棺……。もう少し情緒がほしかった。
「アーリア姫……。ぼく、僕でよかったから、抱き上げ……ようか?」
テオドールが意を決したような声で申し入れをしてきた。
「あ……」
アーリアは体を強張らせた。
テオドールのことは好きだ。
彼は優しいし、一緒にいると楽しい。
けれど、彼に触れられる、とそう思ったら、その先の言葉が出てこなくなる。
アーリアはどうしていいのか分からなくなって、二の句を継げなくなる。
「テオドール様」
アーリアのすぐ後ろに控えていたフェドナが改まった声を出す。
アーリアは彼女の声を頼もしく感じた。
「いや、俺が運ぶ。アーリア少し触れる」
二人の空気を破る様にリベルトがアーリアを軽々と持ち上げた。そのまま馬車へと乗り込み、用意されていた棺の中にゆっくりとアーリアを降ろした。驚いたことに棺の中にはクッションが敷かれてあった。もちろん水に沈んでいる。
「あ、あなた……。急なのよ……色々と」
アーリアは急いで抗議した。
抗議の言葉を口にしないと、自分の心が保てないと思った。
「今回はおまえの侍女を全員連れて行けない。だから、その……少しの間だけ我慢してくれ。表向きトレビドーナで亡くなった父を輸送するコゼントの商人ということにしてある。主人に同行する召使に女がたくさんいたらおかしく思われるだろう」
そこまで聞いてアーリアの顔が青くなる。
「まさかわたしは……」
「察しがいいな。俺の親父役だ」
「それってもしかしなくても死体役じゃないっ!」
「大丈夫。宿に着いたら棺ごと降ろしてやるから安心しろ」
「なにその本格仕様!」
「軍事演習の一環も兼ねている」
リベルトは事もなげに言う。
馬車に乗り込んだのはリベルトとテオドール、それからフェドナ。
もう片方の馬車にはフェドナが選んだコリーニと旅の荷物など。
馬車が動き出したが窓がないためアーリアは今どのあたりを進んでいるのかさっぱりわからない。
大きな棺が馬車の真ん中に鎮座しているため、他の三人が窮屈そうでそれも罪悪感だ。
フェドナはいつもの通りまじめな顔をし、時折アーリアの乗り心地を確かめる。
がたがたと揺れる馬車の中、口数の少ないリベルトは自分から話題を提供することもない。いつもは何かと会話の糸口を探してくれるテオドールが、今日に限って何か思い詰めたような顔をしているのが印象的だった。
◇◇◇
馬車は無事に国境を越えてコゼント王国へと入った。
リベルトは事前に商人としての身分証まで用意していたらしく、テオドールたちはコゼント商人とその仕え人という立場のまま国境越えを果たした。
「ずいぶんと本格的だね」
兄の手際の良さにテオドールは感嘆した。
「軍事演習の一環だと言っただろう。何かあって身分を偽って国境越えをしなきゃいけなくなった時のためだ。部下たちの演技の練習にもなる」
リベルトは常にいろいろなことを考えている。トレビドーナは大国ということもあり、多くの国と国境を有している。それはつまり多くの国との間に戦の可能性を秘めているということでもある。
自分の目で世界を見て来い、と父王はテオドールを送り出した。
自分は小さな世界で生きていたんだなあということをこの旅で何度も実感させられた。
リベルトは部下たちに指示をし、アーリアの横たわった棺を宿の一室へ運び入れた。
中身が死体だと信じて疑わない宿の亭主は青い顔をして見守っている。
「そんな顔をしなくても中身はすでに骨になっている」
リベルトは事もなげに言うけれど、テオドールとしてはそういう問題でもないけど、と突っ込まずにはいられない。
しかし古い時代から棺桶を脱出用具にする方法は王族の間ではよく用いられていた。
まさか自分が立ち会うとは思ってもみなかったけれど。
中のアーリアは今どんな気持ちだろう。
アーリアのことを考えて、テオドールは自分の気持ちが重く沈んだことに気が付いた。
意を決して彼女を抱きかかえると申し出したが、見事に玉砕した。
彼女は、テオドールの言葉の後戸惑いの表情を浮かべた。深窓のお姫様なのだから仕方ないと思ったが、テオドールも焦っていた。
彼女はリベルトが相手になると、他の人よりも心を許しているように見受けられるから。
無事に宿の部屋の一室に運ばれたアーリアは棺の中から起きて、うーんと伸びをした。
「大丈夫?」
テオドールはアーリアと話すために身をかがめた。
「え、……ええ」
アーリアはテオドールの顔を見て、それからふいと横を向いた。
ぎこちない沈黙がお互いに流れる。
「……あの、さっきはその……突然でびっくりしたよね……。その……えっと」
テオドールは自分から墓穴を掘った。
早速何が言いたいのか分からなくなる。
対するアーリアは顔を赤くした。
「アーリアのことは俺が運ぶ。必要があったら俺に言え」
上から淡々とした声が振ってきた。
声の持ち主はリベルトだ。
テオドールは心臓をわしづかみにされたような心地になった。
ああやっぱり、兄上も彼女のことが。
アーリアはリベルトを見上げた。
顔つきは変わらないのに、ほんの数秒前まで見えなかった、感情が彼女の瞳の中に浮かんでいるのがテオドールにはわかった。
春を待ちわびた小鳥のような瞳だった。
ずっとずっと彼女を見つめてきたからわかってしまった。自分と兄との違いに。
(ああそうか……アーリア姫は、兄上のこと……)
気づきたくないことには気づいてしまう人間って厄介だな、なんて、テオドールは悲しみに瞳を伏せた。




