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◇◇◇
「リベルト殿下、待って!」
リベルトは背後から聞こえた少女の声に立ち止まった。
振り向けば、アーリアが小走りでこちらへ向かってきている。彼女の侍女がそれを追いかけている。
ビルヒニアから嫌われていることは分かっていたが、アーリアの「嫌いだわ」発言に地味に傷ついていたリベルトは素直に驚いた。彼女は完全にビルヒニアの味方だと思っていたからだ。
「どうしたんだ?」
リベルトはその場に立ち止まってアーリアが追い付くのを待った。
ほどなくしてアーリアがリベルトの目の前へとやってきた。
息が少しだけ上がっている彼女は肩を上下に揺らしている。
「大丈夫か? そんなに慌てることもないだろう」
「だって……」
息を整えたアーリアがリベルトを見上げる。濃い海色の瞳がまっすぐにリベルトに注がれる。
「最近、調子はどうだ?」
「うん。相変わらずよ。お水と仲良くなったりならなかったり」
彼女なりの婉曲表現だ。言い方が面白くてリベルトはつい吹き出してしまう。
「離宮はどうだ? 不自由はないか」
二人は並んで歩きだす。
彼女の侍女とリベルトに付き従う近衛兵は二人から少しだけ距離をあけて付いてくる。
「ええ。とても快適。泳げるって素晴らしいわね。おかげで運動不足も解消」
「そうか。よかったな」
喜ぶアーリアの姿にリベルトは相好を崩した。
「それにしても乙女趣味なお部屋よね。あなたがあんな趣味をしていたとは意外だったわ」
アーリアがきらりと瞳を輝かせる。
「あっちの棟はもとは嫁いだ妹が使っていたんだ。内装は当時のまま手を加えていないから妹に言ってくれ」
「あら、でもわたし好きよ。可愛くて」
アーリアはリベルトを見上げる。
彼女が自分のことを追いかけてきてくれたことが嬉しかった。
少しの間だけアーリアのことを独り占めしているような感覚。普段公務や訓練で忙しくしているリベルトは気にするとはいってもなかなか彼女の離宮へ様子を伺いに行くことはできない。
それでも、時間をやりくりして一目アーリアの様子を窺いに行くと、楽しそうにテオドールと会話をしている姿に一人落ち込んだりもした。
彼女が誰と仲良くしようと、むしろテオドールと良好な関係を築いていることは喜ばしいことなのに、心の片隅で面白くないと思う自分がいて、そんな自分の心に気が付いて戸惑った。
たぶん今だって同じだ。
もちろん目の前の少女はそんな自分の醜い部分に気づく気配もない。
「ねえ、殿下。ビルヒニアにもっと優しくしてあげてちょうだい。あなた、本当は優しいのに……さみしい」
「俺は別に優しくない。トレビドーナの王太子は優しいだけじゃ務まらない」
「そりゃあ、確かにあなたは偉そうなところもあるけれど……」
うっかり漏れた本音がリベルトの胸の奥を突き刺した。
偉そうは絶対に褒め言葉ではない。
「悪かったな……」
「他意はないのよ。そうよね、大国の王子様だものね。偉そうなのは元からよね」
その言い方も大概だと思う。
「彼女がもう少し、大人しくしていたら俺だって口うるさくは言わない。だいたい、あの公女が自分設定を作りまくっているのがいけない」
「自分設定って?」
アーリアは不思議そうに首をかしげた。
「おまえ、あいつの話を聞いておかしいとか思わないのか?」
「彼女は魔女の末裔なのでしょう?」
アーリアは本心からそう思っているようだった。
まさか。あれはビルヒニアアが自分で作りだした設定だ。本当は黒い髪ですらない。
占いは当たるようだが、そもそも占いというのは抽象的な言葉遊びのようなものだ。
「彼女の占いはよく当たるのよ。わたしも占ってもらったもの」
「何を占ってもらったんだ?」
「えっとね。今年の運勢。なかなかいいらしいわ。あとね、そうだわ。わたし、運命の出会いをするんですって!」
「運命の……出会いだと?」
不穏な言葉にリベルトは目を見開いた。
まさかそれはテオドールのことだろうか。
「ええそうよ。この宮殿に来てたくさんの人と出会ったもの。きっとビルヒニアやキラミアとのことを言うのよ。二人はわたしの大切な友人よ」
「なんだ、そっちか」
リベルトはほっと息を吐いた。
目の前の少女の頭の中が純真で心底安心した。
「そっちって?」
「なんでもない」
「だからね、あなたもビルヒニアに意地悪しちゃだめよ。彼女男性のことが苦手なのですって。舞踏会も出なくないって」
アーリアは寂しそうに眉をさげた。
舞踏会とは今度行われる王家主催のもののことだろう。
リベルトはアーリアのいう台詞に引っかかった。彼女が極端に出不精になったのはおそらくトレビドーナの貴族の男性たちが面白半分にビルヒニアにちょっかいをかけたからだろう。今まであまり強く諫めてこなかった自分にも責任がある。
従属国の人間とはいえ、独立国の公家の娘だ。それなりの敬意を持って接するべきだ。
「善処する」
「ありがとう」
アーリアがふわりと笑った。
いつの間にか彼女の住まう離宮へとたどり着いていた。
二人は離宮の入口で立ち止まる。離宮の周辺にはリベルトの近衛兵が見張りに立っている。興味本位で彼女の元を訪れる者がいないよう、リベルトが厳命を下しているからだ。
「着いたぞ」
「わかっているわ」
それなのにアーリアはその場から動こうとしない。
「あ、あの。お茶飲んでいかない?」
彼女はそんな提案をしてきた。
少しはにかんだような笑顔がまぶしくてリベルトはつい彼女へ手を伸ばしかける。寸前のところで理性が押しとどめる。
「いや。これからまだ仕事が残っている」
「……そっか。ごめんね、引き留めて」
「いや。構わない。今度また時間を作って様子を見に来る」
「うん」
アーリアは花が咲いたようなまぶしい笑顔をこちらへと向けた。抗いきれなくて、リベルトはついに彼女の方へ腕を伸ばした。
アーリアのこめかみのあたりにほんの一瞬だけ触れて、それから踵を返した。




