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◇◇◇
連れてこられたのは、以前テオドールから教えてもらった離宮だ。
広大な敷地をもつトレビドーナの宮殿の中に建てられた離宮はたしかリベルトが現在住まいにしているはずだった。
アーリアは不思議に思ったけれど、彼はアーリアの車いすを押したまま離宮へと足を踏み入れる。(階段の昇降があり、いつの間にか彼がアーリアの車いすを押す係になっていた)
リベルトの横を歩くテオドールも何も言わない。
アーリアと目が合うと、テオドールは薄茶に緑を混ぜた不思議な色の瞳を左右に揺らした。
連れてこられた離宮の部屋を通り抜け、中庭にたどり着いたときアーリアは感嘆の声を上げた。
「うわぁ! 大きな人工池!」
人工池の向かい側には今しがた通ってきた建物と同じ形をしたものが建ってる。長方形の二棟に挟まれて中央に人工池が造られている。
アーリアは目の前の池に目が釘付けだった。
長方形をした人工池の水は透明で、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
冷たい水の感触を思い浮かべてアーリアは喉を鳴らす。
本能が告げている。
あの水に、水の中に飛び込みたいと。
「ここは昔、とある王が造ったんだ。妹が気に入って嫁ぐまでずっと住んでいて、彼女が嫁に行った後は俺が住んでいたんだが、今日からアーリア、おまえが住めばいい」
「え?」
「人魚のおまえには水が必要なんだろう」
「ええそうよ! ずっと、ずっとあきらめていたの。もう水の中を自由に泳ぐことはできないんだろうって。トレビドーナの河に飛び込みたいなあって思うことはあったけど」
「それはやめておけ。河よりも狭いけれどここで我慢してくれ」
二つの棟の間に作られた人工池はアーリアの故郷コゼントの王城の専用池と同じくらいの広さをしていた。長方形の池の先には円形の噴水がある。噴水の中央には羽を生やした女性の像が置かれている。昔から伝わる羽を持った種族だ。
噴水と池は一部つながっており、噴水から流れ出た水がいけに落ちる設計になっている。
「一度水を抜いてきれいに掃除をさせたから清潔だ」
「ねえ、わたし泳ぎたい」
リベルトの説明などお構いなしにアーリアは自分の願いを主張した。
目の前に大きな人工池がある。いったいいつぶりに泳げるのだろう。
リベルトはアーリアを人工池のほとりへとつれていった。
アーリアはもう我慢できないとばかりに車いすから勢いよく池へ飛び込む。
「水~!」
「あ、こら。馬鹿! そんな勢いよく飛び込むな」
リベルトの声が聞こえたような気がしたが時すでに遅し。
アーリアは大きな水しぶきの音と共に池の中へ飛び込んだ。頭から、それはもう気持ちいいくらいに。
「いったあ……」
飛び込むと一度沈むのは自然の摂理で、アーリアは飛び込んで次の瞬間、池の底に頭を打ち付けた。
水の中でアーリアは悶絶する。
ごろごろ動き回っていると、隣で水しぶきが上がり、潜ってきたリベルトに腕を取られて、彼と一緒に頭を水面から出す。
「おまえ、馬鹿だろ」
「ううう……失礼ね」
両手で打ち付けた個所を押さえながらアーリアは反論した。しかし頭がズキズキ痛むから、声は自然とうめき声交じりになる。
「大丈夫か?」
「平気よ」
至近距離でアーリアの顔を覗き込んできたリベルトが気恥ずかしくてアーリアは彼から離れた。
「それよりも! 泳げるのよっ。ひさしぶりだわ、この感触」
アーリアは夢中で泳ぎ回る。
くるくると水中で回って、嬉しさを体全体で表現する。勢い余って水面から飛び跳ねた。
ドレスが水を吸って重かったけれど、そんなことも気にならないくらいアーリアははしゃいでいた。
だから、あんまり意識していなかった。
アーリアはいまだに池の中に立ったままのリベルトの側まで泳いで近づいた。
くるくるとリベルトの周りを泳ぐ。
「あなたいい人ね」
気分がよくてアーリアは笑った。
リベルトに向かって、とっておきの笑みを浮かべた。
兄イルファーカスに向けるような、太陽のような明るい笑顔。
嬉しくて嬉しくて、たぶんアーリアは後先のことなんて考えていなくて、笑顔のままで一度だけぎゅっとリベルトの後ろから腕をまわした。
「ありがとう! 王太子殿下」
ぎゅっと回した腕をすぐに離してアーリアはまた泳ぎ出す。
潜ったり水面から顔を出したり、何度も人工池の端から端まで行ったり来たりした。
だからアーリアはリベルトが動揺したように目を見開いていたこととか、そのあと彼が頬を少しだけ赤くしていたこととか、彼が池から上がるときに少しよろけたとか、そういうことに気づくことはなかった。
◇◇◇
アーリアの特異体質を知ることになったリベルトは同じくこのことを知るフィルミオとテオドールにかん口令を敷いた。
二人ともこくこくと頷いた。
とある日の早朝。
リベルトはアーリアの住まう離宮へ訪れた。用があるのはアーリアの侍女頭のフェドナという娘にだ。
あらかじめ手紙で知らせてあったとはいえ、フェドナは平素と変わらぬすました顔でリベルトを出迎えた。
「お待ちしておりました。王太子殿下」
フェドナは現れたリベルトに深々と丁寧にお辞儀をした。
「こっちこそ早朝から悪いな。アーリアはまだ眠っているのか?」
会見を行っているのは離宮の入口、手前側にある棟の控えの間だ。つい先日までリベルトの住まいでもあった。
「はい。このたびは王太子殿下にはよくしていただき、本当に感謝をしております。姫様はとてもお喜びになられております」
フェドナの声に熱がこもる。リベルトはアーリアが喜んでいると聞かされて顔が緩んでしまいそうになるのを堪えるのに必死になった。
誤解が解けてしまえばアーリアは天真爛漫な少女だ。笑うと太陽のように周りを明るくする、不思議な少女だ。
「健康的に過ごせているならそれでいい。おまえに時間を取らせるつもりはないし、こっちも予定が立て込んでいるから本題に入らせてもらう。彼女の、アーリアにかかっている海の王の魔法とやらは、解けることはないのか?」
リベルトは率直な疑問をぶつけた。
彼女から海の王にまつわる昔話をきかされて、純粋に思ったことだ。
王の魔法の影響で人魚返りをおこす人たちは一生その魔法を付き合っていくのか、と。
「それは……」
フェドナは予想もしていなかったのか、口元をまごつかせた。
「もうずっと続いているんだろう。そういう、前例などないのか?」
「姫様からはどこまでお聞きになりましたか?」
「コゼントに伝わる昔話は聞いた」
「姫様にかかっている魔法は強いものです。海の王の魔法の影響は個人差があります。人によっては月に一度か二度人魚返りを起こす程度から、姫様のように姿が安定しないほどに行ったり来たりする者までおります」
それからフェドナは自分自身についてのことをリベルトに語って聞かせた。
彼女の家は代々裕福な商家だが、本来は王家の姫の侍女になれるような身分ではなかった。そのフェドナがアーリア付きの侍女に抜擢されたのは彼女の先祖にも人魚がいたからだ。人魚の血を引く一族の特徴として、代々フェドナの家では淡い青銀髪や銀髪を持つ者が多く生まれた。
「人魚返りの子供を持つ親たちはひどく神経を使い、その事実を周囲から隠そうとします。もちろん、同じ子を持つ者同士情報共有を行うこともありますが、仲間以外には秘匿とされます」
「ようするにおまえにもわからないということか」
「はい。魔法が解けることがあるのは知っておりますが……」
フェドナの言葉にリベルトは目を見開いた。




