第六話
基本的、俺は哺乳類全般が嫌いだ。
俺は哺乳類との相性があまりよくないようで、ハムスターに噛まれたり、犬に突進されたりと、哺乳類と一緒にいると不幸が連発する。
中でも猫は最悪だった。
引っ掛かれる事はまだいい。それよりも酷いことがある。俺は重度の猫アレルギーなので猫の一メートル以内に近づいたときにはもう大変な事になるのだ。
「本当に可愛いですね~」
だから、目の前で複数の猫に囲まれ、その事を喜び可愛がっている諒兄の気持ちがよく分からなかった。
諒兄は周りにいる猫の背を撫でたり、顎の下を触ったりしている。猫も嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。
諒兄の腕の中で目を瞑っている一匹の猫。その猫には他の猫には無い不思議なところがあった。
「……耳が光ってる」
諒兄が抱いている猫の片耳は、微かに発光していた。
「耳が?ああ、確かに光ってますね」
猫の片耳をまじまじと見つめる諒兄。
その時、猫が口を開いた。諒兄の手首に勢いよく噛みつく猫。
「うわあああっっっ!!」
「諒兄っ!!」
痛みで悲鳴をあげる諒兄。猫アレルギーだということも忘れて諒兄に駆け寄る俺。
猫はまだ諒兄の手首に噛みついている。その猫を、諒兄は己の手首から引き剥がそうと奮闘しているようだが、猫はなかなか離れない。
「クソッ!お前離れろって!」
目から涙、鼻から鼻水が流れ出す。猫アレルギーの症状だ。だが、アレルギーがなんだと言っている場合ではない。諒兄を助けるため俺は猫を掴み、引っ張った。
猫は諒兄の手首から離れたくないのか後ろ足でキックを何回もかましてきたが、何十秒かたつと抵抗力が無くなったのか、諒兄の手首から離れた。勢いよく引っ張った反動で道路に尻餅をつく俺。
俺の手の中で激しく抵抗し、尾を振り回す猫。尾が俺の顔面に直撃した。猫が俺の手の中から飛び出す。
喉を痛める程に咳き込んだ。涙が溢れて止まらない。猫アレルギーでここまで苦しんだのは初めてだ。
「誠っ!危ないっ!!」
俺の後方を見て叫ぶ諒兄。
俺は座ったまま頭だけで後ろを向く。そこには信じられない光景が広がっていた何十匹もの猫が俺に歩み寄ってきていたのだ。
「なっ…………なっ……」
恐怖で、まともな言葉を発することができない。猫は俺と目線が合うと、俺に向かって勢いよく走り出してきた。
「誠っ!!」
諒兄に手首を掴まれ、勢いよく引っ張られた。
「逃げますよ!!誠!!」
鋭い声で叫ぶ諒兄。後方から何匹もの猫の鳴き声が聞こえる。俺は諒兄のスピードについて行く為、ただがむしゃらに足を動かした。
何分間走ったのだろうか。いつの間にか人通りの少ない路地から、車も自転車も沢山通る大通りへと視界が変わっていた。猫はもう俺達を追いかけては来ない。
隣では荒い息を吐く諒兄。全速力で走ったのと、猫に噛まれて出血しているのとで、かなり体力を消耗してしまったのだろう。対する俺は呼吸が少し乱れてはいるものの、苦しいという訳ではなかった。
「大丈夫か?」
「ええ、平気です」
明らかに色が悪い顔に、無理矢理笑みを浮かべる諒兄。そんな姿がとても痛々しかった。
「猫はもう来ないみたいだな」
「追いかけて来なくてよかったですよ……これ以上走ったら倒れてしまいます」
そう言って諒兄はけらけらと笑う。本人は俺の緊張をほぐすつもりで言ってくれたのだろうが、全く笑えなかった。
「じゃあ帰りましょうか」
「そうだな。また猫に見つかりたくねえし」
諒兄の手首を見た。真っ赤な液体で濡れそぼっている。傷の深さはよく分からないが、血が止まっていないところを見ると浅いわけではなさそうだ。早く家に帰って傷の手当てをしなければ。
☆
「誠、包帯が少しずれてますよ」
「やってもらってるんだからいちいち文句言うな」
俺は家に帰ってくるなり、三階にある自分の部屋に閉じ籠って諒兄の傷の手当てをしていた。両親は一階───海鮮小料理屋で営業をしている真っ最中だ。
諒兄の傷を完全に覆うようにして包帯を巻く。包帯の端と端をまとめて結んだ。少し歪になったが、遠目から見ておかしいと思うほどではないのでそのままにしておく。
「よし、終わったぞ。傷はもう痛くないか?」
「はい。痛みはかなり和らぎました。ありがとうございます」
嬉しそうに、己の手首に巻かれた包帯を撫でる諒兄。
「それにしても凶暴な猫だったな。猫って噛みつくのか?」
「普通、噛みつかないと思います」
「だよな」
俺も猫に引っ掛かれたことは過多あったが、いまだかつて噛まれたことはない。
「……もしかしたらあの猫は“普通”ではなかったのかも知れません」
「それってどういうことだ?」
諒兄はカーペットに正座して、両手を膝の上にのせた。あぐらをかいて腕組みをしている俺と違って、諒兄は礼儀正しい男だ。
「猫の耳が光ってる。君はそう教えてくれましたよね」
「ああ」
「あのときは光の加減でそう見えたのだと思っていましたが、今になって考えてみるとそれはおかしな話です。光の反射は場所によって見え方が違うんですよ。同じソファーに座ってテレビを見ていても、右の人は画面が見えにくい、左の人ははっきり見える、ということがあります。それは光の反射のせいなんです……誠は自分が猫を抱いている時どこに立っていましたか?」
三十分程前の光景を脳内に写し出す。確か俺は、諒兄の正面に立っていた。
「諒兄の正面だ」
「自分と誠は全くの逆方向から猫を見ていたわけですか。なら尚更、光の反射で猫の耳が光って見えたというのは変ですね」
「そうか。なら、なんで猫の耳が光って見えたんだ?まさか猫の耳にライトが付いてた訳でもあるまいし」
「……そのまさかかもしれません」
諒兄の姿を見る。冗談を言っているような雰囲気ではない。
「諒兄は、猫の耳にライトが付いてたと思ってるのか?」
首を縦に振る諒兄。
「はい……それと、あの猫はクスリをやっていたのではないかと思っています」
「クスリ?」
「分かりやすく言えば、覚醒剤のことです」
息を呑んだ。覚醒剤なんて言葉は、テレビと授業中以外で聞いたことがない。
「動物は普通、自分よりも強い相手に牙を向いたりはしません。返り討ちに合うと本能的に分かっているからです。あの猫が自分に歯向かってきたのは、その判断力が失われていたからだと思います」
「判断力が失われたのはその……クスリのせいなのか?」
「断言はできませんが、その可能性は高いです。クスリは猫自身で入手することはできませんので、人為的にクスリを体内に入れられたと考えるのが妥当かと」
奥歯を噛み締める。猫にそんな酷いことをする奴のことが許せなかった。そいつを見つけたら、顔面を一発ぶん殴った後に警察に突き出してやりたい。
「じゃあ今から、猫に酷いことした奴を探しに行くか」
「ちょ、ちょっと待ってください」
勢いよく立ち上がった俺の手首を諒兄が掴む。
「なんで止めるんだよ」
「誠は猫にあんなことをした人の正体が分かっているんですか?」
諒兄の問いかけに、言葉が詰まった。
「分かってないでしょう?なら今行っても仕方がありません。それに君は猫アレルギーなので、ショック死してしまうかもしれないんですよ。明日、自分が警察の方に連絡しておくので、無茶なことはしないでください」
「……分かった」
渋々ながら返事をする。
「自分は部屋に行きます。誠、先にお風呂に入ってください」
諒兄は床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「いいのか?いつもは諒兄の方が早く入ってんのに」
「遠慮なんていらないですよ」
「そうか?ありがとう」
俺の部屋から出ていく諒兄。急に部屋が静かになった。
机の下に置いてある紙袋に視線をやる。あの中には天月が公園に持ってきていた鞄が入っていた。天月の鞄に貴重品は入っていなかったが小物類は多かったので、きっと彼女はそれが無くて困っているだろう。
近いうちに返しに行かなければならないな。
心の中でそう思った。