第二話
先程まで近くにあった彼女の背中がどんどん小さくなって行く。俺の足はピクリとも動かない。
これでは昨日見た夢と同じだ。見ているだけで何も出来なかった昨日の夢と。
拳を強く握りしめ、奥歯を噛み締めた。
何もできない自分に───彼女に話しかける勇気が無い自分に腹が立つ。だが、自分自身に対する怒りは行動原にはなってくれなかった。
俺の背後から“影”が飛び出す。体の横を通り抜ける突風。バランスを崩し、その場に尻餅をついた。
“影”は超スピードで歩いている彼女に近づく。それに気付き振り向く彼女。“影”が彼女の手首を掴んだ。
跳躍。彼女の手首を掴んだまま“影”は俺の方向に向かって跳んできた。ビックリして、思わず目を閉じる。
次に目を開けた時には、俺の目の前に“影”がいた。彼女も一緒だ。
その“影”は人間の男だった。あまりに人間離れした身体能力を持っているので、てっきり別世界から来た未確認生物か何かだと思っていた。
百八十センチ程の身長。細身だが華奢ではなく程好く筋肉のついた肉体。モデルのように整った顔。サラサラと揺れる水色のストレート髪。見た者を魅了する深い青色の瞳。
十人中十人がイケメンと言うであろう完璧な容姿の持ち主───そいつがその端整な顔に浮かべているのは、人を見下したような意地悪い笑み。
「はあっ!?なんでお前がここに!?」
そいつは、受験会場で俺の後ろの席に座っていた倭毘という男だった。
「その質問は後にしろ」
切り捨てるようにして俺に言った倭毘は、彼女のバッグを勢いよくひったくる。彼女が両目を見開いた。バッグを持つ代わりに、彼女の手首を離す倭毘。
「私の鞄を返してください」
坦々(タンタン)とした口調で、倭毘に告げる彼女。鞄を他人にひったくられた者にしては、冷静すぎる反応だ。
「随分と反応が薄っぺらいな。もっと慌てたり、悲鳴を上げたりとかいう反応を期待してたのによ」
嫌味を言いながら、彼女から距離をとる倭毘。
「そうですか。鞄を返してください」
彼女は倭毘の言葉をさらりと流し、バッグの返還を頼む。
あからさまに“面白くない”といった表情をした倭毘は、彼女のバッグの中を漁り始めた。彼女の顔が少し歪む。
「止めてください」
倭毘はそんな彼女の言葉も聞かず、ひたすら鞄の中を漁っている。「どこにあるんだ……」という言葉からするに倭毘は何かを探しているのだろう。
「やっと見つけた」
そう言い、手に持った何かを頭上に掲げる倭毘。顔を青ざめさせる彼女。
ニヤリと口元を歪めた倭毘は、懐から使い捨てライターを取り出した。そして、“何か”に火をつける。
“何か”───俺の髪の毛。
あっという間に髪の毛が灰と化した。風に乗って飛んで行く黒い粉。
「何てことを……」
苦々しい顔で呟く彼女だったが、すぐに無表情になり、俺の方に早歩きで近づいてきた。また俺の髪の毛を抜くのだろうか?
恐怖も怒りも無かった。彼女にならば、何をされても笑って許せるような気がした。
「行かせるか!」
彼女の鞄を放り投げ、チーターを彷彿とさせる俊敏な動きで、彼女との距離を詰める倭毘。鞄に入っていた彼女の私物が地面に散乱した。
一瞬で彼女の前に現れた倭毘は、彼女の肩を両手で押す。地面に倒れ混む彼女の上で、倭毘は四つん這いになった。
「や、止めてください!」
感情的になり叫ぶ彼女。
「やっと本音が出たか」
そう言って、生理的に受け付けない気味の悪い笑みを浮かべる倭毘。
倒れている彼女が俺の方を向いた。彼女は潤んだ瞳で俺を見つめる。夢に出た昔の俺と同じような目だった。
ずっと固まっていた足が動いた───脳内で考える前に体が動いた。俺は、朝に猛ダッシュしたせいで若干ダルくなっている両足に鞭打って彼女と倭毘に駆け寄った。彼女の方を向いている倭毘にタックルする。
よろける倭毘。その隙に彼女は倭毘から離れた。
地面に散乱した己の私物には目もくれずに、逃げる彼女。俺はそんな彼女の後を追った。
「逃げんじゃねえ!!」
怒声。振り返ってみると顔面に怒りをあらわにした倭毘が、俺達がいる方向に駆け寄ろうとしていた。
人間とは思えない身体能力を有している倭毘のことだ、俺なんか一瞬で捕まってしまうに違いない。先程の彼女のように。
俺は倭毘のいる方に向かって走った。少しでもいい。彼女の逃げる時間を稼がなければ。
その時、予想外のことが起こった。走っていた倭毘が脱力したように、地面にくずおれた。
普段ならば「大丈夫か!?」と言って駆け寄るところだが、この時ばかりは倭毘が転倒してくれてラッキーだと思った。
迷わず彼女のいる所に歩いて向かう。彼女は樹木の影の中にいた。
「助けてくれてありがとうございます」
そう言い、頭を下げる彼女。
「あ、ああ」
女子と話し慣れていないことがモロバレの、短い返事を彼女に返す。
「さようなら」
彼女の、全くと言っていいほど感情の籠っていない機械的な口調。
その声に反応したかのように、彼女の立っている地面から二つの人間の手が生えてきた。
「う、うわあっ!!」
二つの手は彼女の細い足首を掴み、地面に引きずり込む。掴まれている張本人である彼女は相変わらずの無表情だった。
「お、お前は一体何者なんだ……?」
恐怖に気圧されないように声を出したつもりだったが、言葉の途中で声が裏返ってしまった。
「私、ですか?私は…………異能力者です」
微笑みを顔に浮かべる彼女。その笑みは、俺に向けられた慈悲の笑顔のようだった。