第一話
寒風が、全速力で走っている俺の体の側を通り抜けた。
息があがった。心臓が爆発してしまいそうな勢いで鼓動を打つ。普段そこまで鍛えている訳でもない足がパンパンに張った。
俺が走っている理由はただ一つ。高校受験の会場───日ノ坂学園にたどり着く為だ。
昨日は高校受験に遅れないために早めに寝床についたのだが、不吉な夢を見てしまったせいで深夜に目が覚めた。寝ようにも夢の内容が頭にこびりついて離れないのでなかなか寝付ず、結局就寝したのは、目覚めてから約三時間経過した午前四時頃。
次に目覚めた時には時計の針は八時を指していた。
受験開始時刻は九時。自宅から日ノ坂までは、速くても一時間はかかる。
自分がおかれている状況を理解した瞬間、俺は素早く着替えを済まし、必要な荷物を持って家を飛び出した。
そんなことがあり、今に至る。
重々(オモオモ)しい雰囲気を纏った正門を全力疾走で潜る。正門あたりに立っていた教師に「遅いぞ!」と大きな声で注意されたが、謝る時間も無ければ精神的余裕も無かった。
校内に入った。先程よりもスピードを出して校内を駆け、二段飛ばしで階段を上った。俺が試験を受ける教室は四階にある。
階段を上りきった俺は、ふらつく体に鞭打ち、人間に出せる最大のスピードで走った。
数メートル先に教室。足を力強く踏み出した───伸ばした手が教室の扉に届く。閉まっている扉を横に引いた。
教室内にいる人全員の視線が、荒々しく息を吐く俺に集まった。その中の一人と目が合う。
瞬間、息が止まった。思考が止まった。あれほど感じていた体の疲労も消えてなくなった。
俺の目線は“彼女”にのみ向けられる。日本人形のように形が整った小顔。絹のように美しい銀色の髪、透き通るような白い肌。俺の心の全てを見通しているんじゃないかと思える程に澄んだ瞳。彼女の体全体を包み込む神秘的なオーラ。
何かが違う。今まで俺が見てきた女子と、彼女は何かが違う。
俺はここが受験会場だということも忘れて、ただ呆然と彼女を眺めていた。
「建速津っ!さっさと席につけ!」
ドスの利いた声が飛んできた。その声で俺は、現実世界に引き戻される。
俺の名前を呼んだのはこの教室の試験監督の教師だった。教師よりも、ヤクザの組長をやっていそうな外見だ。年齢は五十代前半くらいだろう。
「聞いているのか!建速津!」
「は、はいっ!」
弾かれるようにして返事を返し、自分の席に直行する。荷物を机の横にかけ、俺にはまだ少し大きい椅子に座った。座ると同時に前から何冊かのテストの問題冊子が配られる。鞄から筆記用具を出す前にそれを渡そうと、後ろを向いた。
後ろの席に座っているのは、男にしては少し長い水色の髪と、深い青色で切れ長の二重瞼が特徴的な男だ。彫りの深い顔立ちなのでハーフに見える。はっきり言って男はイケメンだった。
その男は何故か俺の顔を見て笑いを噛み殺している。だが俺と目が合うと、男は耐えきれなくなったのか糸が切れたかのように笑い出した。
「…………なんで笑うんだよ」
俺は呆れた口調で男に問う。
「い、いや、お前の行動が面白くてな…………試験始まる三分前に物凄い形相で教室に飛び込んで来て、そのまま席につくかと思いきや間抜け面でドアの所で棒立ちするとか……試験だってこと忘れるくらいあの女に見とれてたのかよ」
笑いながら俺の質問に答える男。男の言葉は、俺をバカにする単語を節々に含んでいたが、間違ってはいなかった。恥ずかしさと怒りで頬が火照る。
「倭毘、余計な事を話すな!建速津、前を向け!」
倭毘という名の男の笑い声がピタリと止まった。俺は手に持っている問題用紙を倭毘の机に荒く置き、前を向く。鞄の中に入っている筆箱からシャーペンを二本と消しゴムを取りだした。
「チャイムと同時に試験を始める。それまで静かにしておくように。カンニングなんて真似をした奴はすぐにこの教室から放り出すからな」
そう言い、俺達をギロリと睨むコワモテ教師。こんな目を向けられて、なおカンニングをしようとするバカはこの学校にはいないだろう。
チャイムが鳴った。解答用紙に、文字と認識できるかどうかも分からないくらい汚い字で氏名を書き込み、問題用紙を開く。問題は生物。理科の中でも俺が一番得意な分野。このテストではいい点数が取れそうだった。
☆
「つ、疲れた……」
一人言が口から漏れる。試験が終わり教室を出た俺は、校舎から正門までのそこそこに長い道を歩いていた。
それにしても、さっきの試験はわりとよく出来たと思う。昨日勉強したばかりの問題が試験に沢山出ていたのだ。
だが、まだ気は抜けない。試験が上手くいったからといって合格しているとは限らないのだ。合格発表は午後五時で今は午後一時。四時間もの間、受かっているかどうかドキドキして待たなければならないと思うと気が滅入った。
合格発表はネットでも見ることができるが、そういうのはやっぱり生で見たい。五時になるまで、日ノ坂付近で時間を潰すつもりだった。家から日ノ坂までは少し時間がかかる上に、電車で来ているので電車賃が勿体無い。
相変わらず存在感溢れる正門を出た。日ノ坂から百メートル程離れたところには、周りを樹木でぐるりと囲まれた小さな人気のない公園がある。
何年か前に、この公園で日ノ坂の生徒が酔っ払いに殴られるという傷害事件が起こったらしい。それからこの公園には人が寄り付かなくなってしまったのだとか。
俺の鞄の中にはお袋が作ってくれた弁当が入っていた筈だ。丁度いい。ここで食べよう。この公園は外から中の様子を窺うことが出来ないので、一人で寂しく弁当を食っているのを他人に見られずにすむ。
公園の入り口に足を踏み入れた。人はいないだろうと思っていた俺の目に人の姿が映る。思わず、足を止めた。
そこでは、とても美しい女神のような人───受験会場で初めて会った“彼女”が公園の中にあるベンチに腰を下ろして優雅に本を読んでいた。彼女は俺が公園に入って来たのにも気付かずに、本に視線を走らせている。
人が、しかも“彼女”がこの公園にいるなんて予想外だ。いたのが赤の他人ならば躊躇せずにここに入っていただろうが、“彼女”であれば話は別。もしかしたら同じ学校に通うことになるかもしれない“彼女”に一人で弁当を食べるところを見せたくなかった。
『試験開始時刻ギリギリで教室に入ってきた人』ということが彼女の記憶に残るだけでも嫌なのに、『学校の近くの公園で一人、寂しくお弁当食べてた人』みたいな、俺に対する微妙なイメージを更にインストールされるなんて絶対に御免だ。
引き返そうとし、止めていた足を動かした。枯れ葉か何かを踏んだらしく、シューズの下でガサッという音が鳴る。彼女が視線を本から俺に移した。
彼女と俺の視線が交差する。
彼女は小さく目を見開く。そして、手に持っていた文庫本に栞を挟んでから閉じ、横に置かれているシンプルなデザインだが高級そうなバックに仕舞う。
一連の動作をした彼女はベンチから立ち上がり俺に歩み寄って来た。歩くだけでも他人に気品を感じさせる彼女はきっと相当いい家柄の娘なのだろう。彼女が近づいて来るなか俺はただみっともなく棒立ちすることしか出来なかった。
彼女は顔の細部がはっきりと分かる位置まで近付いてきた。遠目で見るよりも美しいと感じるのは気のせいではない。
俺の髪に手を添える彼女。心臓がバクバクと脈打った。顔が赤くなって行くのを彼女に見られるのが非常に恥ずかしかった。
「少し宜しいでしょうか」
凛とした美しい声。声変わりした俺には到底出せそうにない高く優美なソプラノ声 。その声に俺は首を縦に動かす。
「ありがとうございます。では目を閉じて下さい」
言われたとうりに目を閉じた。視覚という1つの感覚が失われたせいで己の心臓の鼓動があり得ないくらい大きく聞こえた。
その音の中に何かが引き抜かれたような音が混じる。それと同時にほんの少しの痛みも走った。驚いて目を開く。彼女の手には黒い糸───俺の髪の毛が握られていた。
「失礼しました。では」
彼女は髪の毛を持ったまま、体を少し折り曲げ俺に礼をし、その場から立ち去った。
「お、おいっ!ちょっと待ってくれ!」
俺は彼女に向かって叫んだ。
彼女の行動の意味が分からない。どうして俺の髪の毛を抜いて持っていく必要があるのだ。
彼女は俺の言葉も聞かずにどんどん離れて行ってしまう。
俺は金縛りにあったように足が動かせなかった。