第十二話
「ううっ……疲れた」
両腕を真上に上げて思いきり伸ばす。筋肉がほぐれる音がした。
今は午後九時。住宅街のど真ん中にあるこの店はこの時間になると人が少なくなる。平日はそこまででもないのだが、土曜日だと会社帰りのサラリーマンがあまりいないので夜は本当に人がいない。
実際、今店にいるのは二十代くらいの男女二人と颯雅だけだ。
「まだ店は終わってないぞーーーダラっとすんなーーー」
運動部の熱血教師のようなセリフに抑揚の無い口調。そんな颯雅の言葉にイラつきを通り越して呆れた。
「お前いつ帰るんだよ」
疲れているので、自分でも気づかぬうちにぞんざいな口調になっている。
「ん……もうちょっとで帰る」
スマートフォンを取り出してゲームを始めている颯雅には帰る気などさらさらなさそうに見えた。
客の来店を告げる音。店の引き戸が開かれた。外から家族と思われし小柄な女の人二人と屈強そうな男の人が入ってくる。
「「「いらっしゃいませーーー」」」
厨房にいる詩姉とテーブルを拭いている諒兄と共に声を張り上げた。客席に運ぶ水とおしぼりを用意する。
『三名様で宜しいでしょうか?』
『ああ』
『かしこまりました。それではこちらの席へどうぞ』
慣れた動作で三人をテーブルに案内する諒兄。俺や詩姉と違い、諒兄は料理ができないので接客をしてもらっている。客のあしらいだけでいえば俺よりも詩姉よりもうまいだろう。
一旦厨房に戻ってきた諒兄が、俺の用意した水とおしぼりが載ったお盆を持って客席の方へ向かった。テーブルの上に優しく水を置く諒兄。
『ご注文がお決まりになりましたらこちらのベルを鳴らしてお呼びください。それではごゆっくり』
うやうやしく頭を下げた諒兄が厨房に早足で戻ってきた。
「あの子可愛いですね」
小声で俺に話しかけた後、諒兄は一人の小柄な女の人を指差した。諒兄が指差す先を見る。
快活なイメージを与えるオレンジ色の長髪。ダイヤモンドのような美しい瞳。ふわふわしてそうな白色のセーター。
「確かに可愛いな」
その女の人は文句のつけようのないほどに可愛らしかった。天月時織の人形のように無機質な美しさとは違う。アニメの優しいヒロインを彷彿とさせるような可愛らしさだ。諒兄が両頬の熱を上昇させて女を見てしまうのも頷ける。
ベルが鳴った。早足で客席に駆けつける諒兄。
『注文を承ります』
『松・海鮮盛り合わせとーーー』
「なあ、誠」
客のオーダーを耳を澄まして聴いていた俺に、颯雅が声を掛けてきた。いつの間にか俺の呼び名が名字から名前に変わっている。“建速津”では諒兄と被ってしまうからだろう。
「なんだ?」
「彼女いるのか?」
「いきなりどうした?……」
颯雅の突拍子のないの質問に度肝を抜かれた。
俺は生まれてこのかた彼女ができたことがない。告白したことも告白されたこともない。初恋だってまだだ。
脳裏に天月時織の泣き顔が写る。胸が締め付けられ、顔が熱くなった。
「おいおい。そんな怒るなよ。別に煽ってる訳じゃないんだからな」
どうやら颯雅は、俺の顔が赤くなったのを怒ったからだと思っているらしい。それは俺にとって都合がよかった。
それにしても、天月時織の事を考えてこんな風になってしまうなんて、俺は一体どうしてしまったのだ?
「誠。シカトすんなよ」
「ああ、すまんちょっとボッーとしてた」
「妄想勢か?しっかりしろよ」
俺はぎこちない苦笑いを返すと詩姉の元に行った。颯雅は勘の鋭い奴なので、要らぬことを言われる前にその場を離れたかったのだ。
それと、皿洗いが全部終わったので、詩姉に仕事を貰おうという目的もある。
「詩姉。俺に何かできることはあるか?」
持っていた包丁をまな板の上に置いた詩姉が、思案顔で思い悩んでいる。
「特に無いわね」
「そうか」
いつの間にか居なくなっていた諒兄の代わりに、レジに入っている金の整理でもしようかなと思い、客席に足を伸ばした。
「誠」
詩姉に呼び止められる。
「どうしたんだ?」
「客席に行くんだったら、あの子の所に行けばいいんじゃない?」
顎をしゃくる詩姉。その先には色とりどりの魚が游ぐ水槽を眺める女の子の姿があった。
「え?あの女の子の所に?」
「ええ。あの水槽に入ってる魚ってあまり有名じゃないでしょう。きっと名前分からないだろうから教えに行ってあげたら?」
詩姉は早口で俺にそう告げた。
「でも、どうやって声掛けりゃいいのかーーー」
「そんなの『魚好きなんですか?』って聞けばいいでしょ。誠!漢を出しなさい!漢を!」
背中を強い力で叩かれた。先程、諒兄と一緒に女の子を見ていたので好きになったと勘違いされたのだろうか。可愛いと思って見ていただけなのだが。
行くのを躊躇していると「早く」とキレかけの声が飛んできた。こうなった詩姉の命令を断れる程俺は強い男じゃない。
客席に足を踏み入れた。颯雅が口元にいやらしい笑みを浮かべてこちらを見ている。詩姉との一部始終を見ていたに違いない。
女の子に近づいた。軽く呼吸をして女の子に声をかける。
「魚好きなんですか?」
女の子が振り返った。ガラス玉のような瞳で見つめられる。遠目では分からなかったが女の子はなかなかに官能的な身体をしていた。
自己主張が激しい豊満な胸。短いスカートの裾から覗く柔らかそうな太もも。最初は同い年くらいかと思ったが、この身体で同い年はないだろう。
「好きです。とっても」
鈴を転がしたかのような可愛らしい声。女の子の容姿と絶妙にマッチングしていた。
「えっと、貴方は?……」
女の子が困惑の表情を浮かべる。
「俺は建速津誠です。今年から高校生になります。この店の店主の息子で、今は店の手伝いをしているんです」
「このお店の……?私と同じ年なのに凄いですね。あっ、私の名前は佐久夜未来です。宜しくお願いします」
ちょこんと頭を下げる佐久夜という名の女の子。
同い年ではないという予想を立てていたが、どうやら外れたようだ。
「ここにいる魚の中でどれが一番好きですか?」
緊張しているのを悟られないように、自然な態度で問う。
「この魚が可愛くて好きです。名前はなんていうんだろう……?」
首を少しもたげた佐久夜が、水槽を游ぐ一匹の魚を指差した。
「それはハタタテハゼという魚です。お腹から尾っぽにかけての赤色のグラデーションが綺麗でしょう?紅白の色で縁起が良いので店に飾ってるんですよ」
人に魚の説明をすることなんてそう無いので、つい熱っぽく話してしまった。
「そうなんですか~」
柔らかい笑みを浮かべる佐久夜。つられて俺も笑い返した。
「おい、何やってんだ」
背後から声。真後ろを振り向いた。意地の悪そうな笑みを浮かべた颯雅が立っている。
せっかく佐久夜といい感じになっていたのに、颯雅のせいで雰囲気がぶち壊されてしまった。
「何って……彼女と一緒に水槽の魚を見てるんですよ」
佐久夜の前なので颯雅に対しても敬語を使った。
「お前、敬語が全く似合わないな。タメ語で喋った方がいいんじゃないか?なあ、お前もそう思うだろ?」
知らぬ間に後ろを向いていた佐久夜に、馴れ馴れしく同意を求める颯雅。
「そ、そうですね」
若干ひきつった笑顔で対応する佐久夜は、颯雅に怯えてるようだった。颯雅は目付きが悪いので怖がられても不思議ではない。
まあ、佐久夜がタメ語でいいというならば、これからはそうやって話そう。
「お二人はお友達なんですか?」
俺と颯雅を見比べながら言う佐久夜。
「俺と颯雅はなーーー」
「まあ、そんなところだ」
言葉の上に言葉を重ねられた。
佐久夜はそれを聞くと「そうなんですか。なら……」と言い、彼女の親がいる席にかけていった。一体、何をしに行ったのだろうか。
しばらくすると手に二枚の長方形の紙を持った佐久夜が戻ってきた。
「再来週の日曜日、お魚好きのメンバーで水族館に行くんですけど、無料チケットが余ってるんです。もしよかったら貴方たちも来ませんか?」
そう言ってチケットを差し出す佐久夜。
「え?いいのか?俺たち初対面だぞ?」
俺がそう言うと、佐久夜は恥ずかしそうに頬を染めた。
「実は友達に『男の子を二人誘って』って言われてまして……私は知り合いに男の子の友達なんかいないので困ってたんです」
「そこで運良く、同年代で魚が嫌いじゃなさそうな男二人がいたから誘ってみようと思った訳か?」
颯雅がニヤニヤとしながら佐久夜に告げる。
「はい。そういう訳です……別に嫌なら断ってくれても良いですよ。無理なお願いだということは分かっていますし……」
伏せ目がちに呟く佐久夜。
正直、迷っていた。初対面だから行くのを躊躇っているというのもあるが、それよりも佐久夜が友達に“男を二人誘え”と言われているのが妙に引っ掛かるのだ。
『なあ、颯雅。どうする?行くか?』
困り果てて、颯雅に小声で訊ねる。
『お前が行くなら俺も行く。お前が行かないんなら俺も行かない』
『なんだよ、それ……』
決定権を俺に任せるつもりか。
「え、ええと……嫌なら遠慮せずに断って下さいね」
俺と颯雅が佐久夜をおいてこそこそ話しているので、断り文句を探していると思われたらしい。
佐久夜の瞳は少し潤んでいるように見えた。笑顔の時とは違う、彼女の魅力的な姿に鳥肌がたった。
「行く!水族館、行く!」
その魅力に背中を押されるように、口から返事が飛び出した。
「え!?来てくれるんですか!ありがとうございます!」
さっきの暗めな表情が嘘のように、明るい表情に姿を変える。
再来週の日曜日に水族館に行くことになった俺たちは、いつでも連絡を取り合えるように連絡先を交換した。
行くのは随分先のことなのに、何故か俺の胸は遠足の前日のように高鳴っていた。
バカガミ!!を読んでいただきありがとうございます。
投稿が遅くなってしまい申し訳ありません。
次はもっと早く投稿できるよう心がけますので、これからもどうぞ宜しくお願いします。