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3.再会と決意

 “陽だまりの庭”。その名にふさわしく、素朴な草花で彩られた広々とした庭は太陽の光を一心に集めて、穏やかな気配を纏っていた。その真ん中で手招きをする白いワンピースの少女達はさながら楽園に舞い降りた天使のようだ。その目映さに目を細めずにはいられない。

 少し伸びた芝生の上に可愛らしい動物のイラストが描かれたビニールシートが広げられている。皿に山積みのサンドイッチの他にも色とりどりのおかずが並べられて、何とも豪勢なピクニックだ。双子の間に招かれて同じようにサンダルを並べて座ると、遅れて清貴くんと蓮ちゃんもそこに加わった。走り回っていた下の二人も正哉くんに捕まって、腕の中で楽しそうに声を上げている。その後ろ、庭の隅ではためく洗濯物を見ると洗剤か何かのコマーシャルみたいで、そんな当たり前の景色も特別なものに見えた。いつも暮らす事務所界隈とそれほど離れてはいないのに、ここはどうしてだか流れる空気さえ違うもののように思えるんだ。

 少しして多枝さんと美奈子さんに付き添われて知里さんも杖をつきながらやって来た。用意されていた椅子に腰を下ろし、全員の顔を見渡してからゆったりと微笑む。


「さぁ、いただきましょう」


 その声を合図に、子供達は言うが早いか食べるが早いか、競うように手を伸ばして好みの味で口をいっぱいにする。膨らんだ頬や口元に付けたパン屑に笑い合いながら、僕も安らかな昼食に参加するのだった。


 

 懐かしいわ。

 そんな声が聞こえて振り返る。気付けば皿は全て空になっていて、思い思いに食後の時間を満喫している。庭の隅で遊び始めた小さな四人の元に正哉くんが向かうのを確認してから、知里さんに近付いた。


「何を見ておられるんですか?」

「アルバムよ。あなたも見る?」

「良ければ是非」


 膝の上に広げていた表紙の厚いアルバムが僕に回される。傍に居た多枝さんも別のアルバムを広げていた。正面へと座るついでにちらと覗き込むと、今より少し髪の短い多枝さんを真ん中に、少年少女がこちらに気恥ずかしそうな視線を送っている写真が目に入った。小さな双子以外は知らない顔だ、誰も笑顔は浮かべていないものの不機嫌な感じはしない。欄外には小さな文字で『多枝ちゃん歓迎会』とある。多枝さんはその写真を懐かしそうに指先で撫でた。

 それから僕はようやく自身の手元に視線を落とした。表紙には十六年も前の日付が記されている。一年間の思い出がここには収められているらしい。改めて表紙を開こうとして知里さんを見上げた。家族の時間を暴く行為のようで少し不安になったからだ。知里さんは気にすることはないと伝えるようにひとつ頷いてくれた。アルバムは何の引っかかりもなく滑らかに最初のページを現す。


 何の変哲もない日常の風景がそこにはあった。彼等は確かに家族だと思った。

 口を開けて大の字になって眠る丸々とした少年。カメラ目線でポーズをとる下手な化粧をした着物姿の少女。腰に手を当てて怒り顔の美奈子さんと対抗して睨み返す男子中学生。習字で「反省します」と書かされたらしい色黒の女子高生……。どれをとっても楽しそうで可笑しくて、それはまさに幸せだった。

 その内一人減り、新たな一人が加わっても。誰も減らないままにまた増えても。家族の形は少しも変わらない。初めは怯えたような表情を向けても、次のページをめくれば元気にピースサインを向けている子供達。ここに来た理由を考えればそれは簡単なことではないように思う。それでも皆が泣き笑いつつ過ごし、最後に新しい家族と並んで穏やかな笑みを見せるのは、やはり陽だまりの庭に家族の時間が流れているからだ。そう確信した。


 また次のページを開く。一枚、二枚と見送って視線が止まった。

 少女がたった一人で写っている。立っている場所はどこだろう。薄いピンク色の壁、少女の後ろにぼんやりと見える低い本棚。手前の少女にピントが合っているため部屋の情報はその程度しか分からないが、見覚えはなかった。少女は小学生になるかならないかくらいの歳だろう。しかしそれにしては剥き出しの腕が細すぎる気がする。さらにその二の腕は不自然に黒っぽく変色している。痣、のように見えた。大人の手が強く握って出来たような……。

 横顔しか見えないが、整った顔立ちをしていると思う。けれどその顔には何の感情も見いだせなかった。喜びも悲しみも、不満そうな雰囲気さえ感じない。白すぎる肌も相まってまるで良く出来た人形かアンドロイドみたいだ。何かを見ているはずなのに何も見ていないような、空虚な目をしている。そんな表情だからだろうか、綺麗な若草色をしたワンピースも着させられているようにしか見えなかった。

――この少女、どこかで……?

そんな予感に駆られて欄外を見返す。そこにはこう書かれていた。


『今日ここに生まれる、屋根裏部屋にて。雪、五歳』


 途端に写真の中の彼女がこちらを向いて、物憂げに微笑みつつ歩くんと僕を呼んだ。そんな幻想を見た。

 はっと顔を上げると心配そうに眉尻を下げた知里さんがもう一度、確認するように僕を呼ぶ。口の中に溜まった息を吐き出すと、続けて乾いた咳が出た。


「どうしたの、大丈夫?」

「……すみません。あの、この女の子は……」


 指差し問うと、その指先を追った後あぁと悲嘆にも似た声が落ちた。


「雪ちゃんがうちに来た最初の日ね。少しも笑っていないけど美人な子でしょう?」

「……はい」

「素敵なご夫婦の元で変わりなく綺麗な子に、そして笑顔が似合う子に育ってくれたわ。だけど昨年……」


 それだけで十分すぎるほどだった。言葉で聞かずとも、僕の予感は確信に変わった。


「この子は、姫井壱さん詩音さんご夫婦に引き取られた、雪さんですね?」

「……どうしてこの子のことを? それは姫井さんと私達しか知らない筈なのに」

「依頼を受けて姫井家を訪ねていたんです。二月十一日、雪さんの二十歳の誕生日の丁度その日に」 

「まぁ……」


 流れ出す感情を抑えるように口元を手で覆う。皺と血管の目立つ手が小刻みに震えている。

 姫井雪。物語から抜け出てきたような美しい女性。二十歳(おとな)になることを自ら拒んだ少女。僕は彼女の心からの笑顔を見ることができなかった。終わりを決意した物憂げな笑みしか、見られなかった。彼女に似合う最高の笑顔を見てみたかった。

 五歳で入所したと話していた児童養護施設がこの陽だまりの庭だったとは。こうしてまた写真越しにでも彼女を見る日が来るとは思わなかった。世間はとことん狭いものだ。

 聞いていた通り、最初の写真から半年ほど進んだ秋口の写真の中に姫井夫妻の姿を見つけた。出資に来たという頃だろうか、朗らかな顔をする二人の間でやはり人形みたいに無表情な雪さんも居る。しかし数枚の時の後、並んで歩く三人の後ろ姿はとても愛おしかった。真ん中を歩く雪さんの表情は遠く鮮明には見えないけれど、見上げる横顔は柔らかだ。冬を迎えたであろう少女の門出は、それでも暖かに輝いていた。


「あなただったのね」

「え?」

「姫井さんが話していた、家族を救ってくれた青年というのは」


 そんな大層なことを僕はしていない。家の中を掻き回して、家族の心を掻き乱して。

 いつかメイドの志賀さんがくれた手紙のように彼等が今の形を選んで前に進み出したのは、彼等が強かっただけのこと。彼等の絆がその身を支えただけのことなんだ。


「僕は」

「した側の気持ちなんて、意味のないものよ。された側がそのことを感謝しているのだから、それ以上のことをとやかく言うものじゃないわ」


――あなたには少し、自信が足りないわね。

 全てお見通しなんだ、この人にすれば。きっとそんな子供達を何人も見送ってきたに違いない。その度に一人一人に寄り添い支えてきたのだろう。

 大人である今の僕がそうしたものを欲しがるのは、欲張りだろうか。


「……自信は、どうしたら持てるようになりますか?」

 

 思考に滲む葛藤を無視して、心は何の躊躇いもなく密かに叫ぶ。若干の痛みも感じる陽光の下、唇は冷たくかじかんでいる。周囲の笑い声が遠くに聞こえる。気が付けば僕と知里さんの二人だけがアルバムに囲まれて座っていた。

 抱えるしこりを吐き出すのは、どうしてこんなに怖いのだろう。取り払った瞬間に崩れてしまうような、僕の一部だなんてそんなことある筈がないのに。


「僕は、僕のことを大事には思えないんです。好きになれないんです。長く信じてきたものが壊れて、その原因は僕にあるんじゃないかと思い始めてからずっと、自分自身に価値を見出せないでいます」

「原因は本当にあなたにあったの?」

「……分かりません。まだ何も確かめられていないので」

「それなら少しでも早く確かめた方がいいわ。その結果、本当に自分が原因だと知って傷付くかもしれないし、違うと分かって安堵するかもしれない。他に原因を見つけて恨みがましく思うようになるかもしれない。だから無責任な発言だけどね、知らないままで良かったなんて思えることは、きっと何一つないと思うから」

「知って、後悔したりしないのですか?」


 真実を知った彼等の顔をひとつずつ思い出す。別れの時、僕を見送る姿はどんなだっただろう。今はどうだろう。月日が過ぎれば湧き出る後悔は果たして本当にないのだろうか。

 僕はいつも後悔しているように思う。何かをすればしたことで後悔したし、何もしなければしなかったことで後悔した。母の涙を見たその日から、自分が幼い子供でしかないことに打ちひしがれたその時から、僕は後悔で自身を否定していなければ現実を受け止めることができなかった。……それなのに烏滸がましくも人の真実に踏み込んでしまう僕は何がしたいのだろう。

 僕の問いに考える間もなく、知里さんは頷く。嘘でも強がりでもないのはその顔を見れば分かる。頬に渡る皺が過ごしてきた時間の流れを感じさせた。


「人って不便な生き物よね。知るか知らないか、やるかやらないか、両方の結末を経験することはできないんだから」


 いつだって順風満帆だった訳ではないだろう。親と分かたれた子供達を育てていくことは生半可なものではない筈だ。その日々について、何日も隠れて泣いた日もあったと知里さんは語る。


「でも後悔していることは何もないの。歳を取ったからというだけではなくてね。誰も確実により良い選択肢を選ぶ術がないなら、自分が選んだものが最良だったと思っている方が幸せじゃないかしら」

「ご自分を信じてこられたんですね」

「それとは程遠い時を過ごしたからよ」


 そう言って、辺りを仰ぎ見る。いや、実際にはその瞼は閉じられていた。瞼の裏に映るいつかの景色を見つめているのかもしれない。


「ここを開いた時、誰にも信じてもらえなかった。すぐに放り出してしまうだろうと笑う人もいた。そうするとね、誰も信じられなくなるの。決意して踏み出した自分のこともね」

「怖くなかったですか?」

「怖いって感覚も麻痺していたのね。ただ憎しみだけが先に立って、目を血走らせていた」


 でも私には、夫が居た。あの人が見捨てずに信じてくれたから、今もこうして陽だまりの庭(ここ)に居られるの――。

 ますます会ってみたくなった、この人をどん底から這い上がらせた救世主に。しかし叶わない現実に不条理さを痛感したりもするけれど。

 春の陽気のように麗らかな知里さんの表情から、そのような過去があるとは到底想像もしなかった。けれどそれは誰しも初めから上手くは行かないのだと僕を諭してくれた。


「自分を信じることと人を信じること、そして人から信じてもらうことは繋がっていると私は思うわ。

 あなたは人をちゃんと信じられる人だから、すぐには難しくても必ず自分を信じられるようになる」

「人に信じてもらうのはかなり難しいことのように思えるのですが……」

「何言ってるの、私達は皆あなたのことを信じてるわ。こうして何でもない日にたった一人のお友達を招待したのは初めてだもの」


 痒くもない頬を指で掻いた。胸の奥にふわりと風が舞い込むような不思議な心地がする。

 何か言葉を返したいけれど、えっと、と呟いてから何も出てこなくて。身体中が赤く染められるような優しすぎる視線に戸惑い始めた、そんな時。


「お兄ちゃん、かくれんぼしよ!」

「……おうちの中で」

「まりもー!」

「ゆうくんもっ」


 賑やかな声が僕を呼んで、静かな声にいってらっしゃいと背中を押される。

 僕は、誰かのために何ができるか、それを探していかなきゃならない。雪さんの一件からこの探し物探偵という仕事を続ける理由はそれになった。そして今、思いはもっと強くなる。

 僕はこの大きな家族のために、何ができるだろう?


  



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