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10.描き足された前触れ、少女の答え

「あれ、歩さん」

「綺麗になったね」


 屋根裏部屋にはまだ正哉くんが残っていた。最後の拭き掃除をしているらしい。水に濡れて床板の色が濃くなってはいるが、すっかり血の跡は消えていた。

 床が綺麗になったのは良かったんですけど、と言いながら正哉くんは申し訳なさそうに僕を見上げた。

 

「歩さんのタオル、これは多分もう落ちないと思います……」


 君がそんな顔する必要ないのに。たかが百円そこらで買った安物のタオルだ。思い入れがあるものでもないし、ましてそれで命を救えた訳でもない。


「できれば捨ててもらえるかな」

「ですよね、カーテンと一緒に出すことにします」

「あ、そうだった。僕が千切っちゃったんだ」

「気にすることないですよ、古いしそろそろ変えようって話も出てたんで」


 そうは言われても、焦っていたとはいえ人の家のカーテンを引きちぎって使うというのはどうなんだ。これは行動を見直さないといけないな。こんなに強引な行動を取る性格ではなかったと思うんだけど。

 タオルをカーテンとまとめて袋に詰める正哉くんに暫く落ち込んでから、この部屋に戻ってきた目的を思い出した。


「朝陽ちゃんが描いた絵を見たいんだけど、どこにあるかな」


 聞くと正哉くんは入口に一番近い本棚にあると教えてくれた。描きかけの画用紙が忘れられている辺りだ。近付くと大判のファイルが数冊立てられており、その中で六人の子供達の名前が背表紙に並んでいた。

 <朝陽>のファイルを取り出す。薄い黄色のファイル。半透明の表紙を開くと最初に書類らしき一枚が目に入った。


 戸籍謄本だった。本人である朝陽ちゃんは勿論、満月ちゃんの名前、そして。


「それ見ると思うんですよね。名前も付けて戸籍にも登録して、そこに愛はないのかなって」


 「ひとりだったら良かったのに」。胎動を震わせたというその声に見られない愛が確かに僕にも見える気がした。産んですぐに置き去りにされる子供も居ると聞く。しかしたった一年とはいえ共に時間を過ごすことを選んだ。そしてこの真新しい戸籍謄本からも除名することなく、この「笹井風花(ささいふうか)」という女性は母親であることをやめていない。

 どんな気持ちでその名前を付けたのか。朝陽のように周りを明るく照らす子になってほしい、満月のように暗闇の中でも強く光る子になってほしい、そんな思いがあったのではないだろうか。

 施設の前に置き去りにした無責任さは許されることではないけれど、満月ちゃんが聞いた声が聞き違いであってくれたらいい。それで救われる命も心も今はなくても。


 以前、赤ん坊を強引に預けた親が数年後に引き取りに来たことがあり、それからこうした親の記憶のない子の戸籍は確認するようにしているのだと言う。実の親について知りたいと思った時のためにも。

 このファイルは絵が入っているだけでなく、写真や学校で貰った賞状なども合わせてファイリングして、ここを出ていく時に持たせるために用意しているものらしい。その時に戸籍謄本をどうするかは各人に自由に決めてもらうのだそうだ。


「ゼロから始めるために置いていく子も、自分を認めるために持って行く子も居るみたいです。でも……」

「名前だけになっちゃ、意味がないね」


 素敵な名前があってもそこに人が居なければ、その名前に何の意味があるのか。思い出の中や心の中に生きていても、その場に存在していなければ意味がないじゃないか。

 こんな考えこそ無意味だと分かってはいるけれど、思わずにはいられない。失った命が戻ることは決してないのだから。



 美奈子さんに見せてもらった絵は想像していたよりもずっと大きかった。四つ切り画用紙より一回りは大きいだろうか。薄い紙に目一杯描かれていて、取り出して広げるだけでは全貌が見えなかった。

 等身大の彼女と向かい合っている気分だ。特別上手いというよりは特徴をよく捉えていた。丸々としたつぶらな瞳、鼻先のつんと上がった小さな鼻。犬のように口角の上がる唇。ひとつひとつと照らし合わせながら、上手いもんだな、と呟いていた。正哉くんもそれに同意する。彼も似顔絵を描いてもらったらしいが、よく似ていて驚いたらしい。


「そういえばあっちゃんが歩さんの絵を描いたって言ってたんですけど……どこに置いたのかな」

「もし見つけたら貰ってもいいかな?」

「勿論です。そのために一生懸命描いた筈ですから」


 貰ったら額に入れて北川さんの絵の隣に飾ろうか。それとも自室のいつも見える所に飾っておこうか。誰かの形見が増えていくのはつらいけれど、これはきっと大切な大切な形見になる。

 視線を下げて、体温が急激に下がる思いがした。

――ハサミだ。満面の笑みを浮かべる少女の足元に迫るのは明らかにハサミだ。凶器となったハサミの形と似た、刃先が長く持ち手の膨らみの大きいハサミが口を開いて少女に狙いを定めている。どうしてこんなものが、予告みたいに。


「あれ、その絵、みぃちゃんのですね」


 そう言った正哉くんはこの類似性に気が付いていないようだ。騒ぎ立てて不安を増させるべきではない。


「でも朝陽ちゃんのファイルに」

「多分入れ間違えたんだと思います。みぃちゃんが描き足してるの僕見たんで。裏に名前書いてないですか?」


 言われて裏返すが、裏には「あっちゃん」と書かれていた。


「あっちゃん、ってあるけど」

「え、おかしいな。描いてたのはみぃちゃんだったんで自分の絵に描いてるとばっかり」


 腑に落ちないのか満月ちゃんのファイルから同じ絵を取り出すと、二枚を並べてじっと見比べた。驚くことに画力も等しいのかまるで複製のようにそっくりだ。並べれば絵の中でもふたりは双子だった。それなのに正哉くんは、あっちゃんの絵に描いてたのか、とひとりで納得してしまった。


「どうして分かるの?」

「あのふたり、そっくりなんですけどあっちゃんだけ顎にほくろがあるんです。すごい小さいんですけど、区別するためなのか絵にちゃんとそれを書くんです。ほら、ここ」


 正哉くんの指の先に確かに輪郭に紛れるような小さな黒い点がある。知らなければ完全に見過ごすような描き分けだ。それがあるということはこのハサミが描き足された絵は朝陽ちゃんのもので間違いない。そしてそれを描いたのは満月ちゃん。……このハサミを持った手は誰なんだ。何のためにハサミを描き加えたんだ。満月ちゃんがどうして。


 ハサミ、ハサミ。チョーワ。心の中。繋がり。依存。傷。狂言。依頼。ひとり。別れ。ハサミ。魔法の、ハサミ。


 集めた言葉の断片が脳内を駆け巡る。


「歩さん、僕戻りますけどまだ居ますか?」

「いや、僕も戻るよ。その前にひとつ聞きたいんだけど」


 そんな筈、ないよな?


「魔法のハサミって、何でも断ち切れるって意味なのか?」



**********

 


 手の感覚が少し鈍くて。見つけた紙は指を滑って。何度も落としてしまいそうになった。皺にならないように指に優しく力を入れるけれど、ちゃんと持てているのかも目で確認しなければ分からないほどだった。

 今のこの気持ちをどんな言葉なら的確に表現できるだろう。怒りはなく、喜びなんて感じる筈もない。ただ種類の違う悲しみが幾つも胸の中を渦巻いているみたいだ。

 突き当たりのドアをノックする。一度叩いたが弱々しくて、もう一度叩き直した。中の返事に応えてドアを開く。


「お疲れ様。……どうしたの、顔色が」

「いえ、大丈夫です。大したことありません」

「でも」

「満月ちゃんと少し話がしたいのですが、いいですか」


 僕の顔はそんなに酷いのだろうか。知里さんはそれでもまだ僕を案じて痛々しい表情で僕を見ていた。笑顔を作ってみせたけれど、一層つらそうに目を逸らされたのが何より堪えた。


「話はいいけど、相変わらずよ」

「それでも確認したいことがあるので」


 ソファでクッションを力なく抱え込む満月ちゃんを僕はそのまま抱き抱えた。違う、と否定するならその場で聞いたって良かったけれど、僕の中でそれはないと確信している。更に小さな家族の居る前では気が引けた。

 部屋を出る時、多枝さんと鉢合わせた。怪訝そうに眉を顰めたのは多分、ぶつかりそうになったのに僕が謝らなかったからだ。今は何となくそんな気分でもなくて、だからまた後で謝っておこうと思う。


 二階に上がる。満月ちゃんの部屋は三つ目。もう暫くたったひとりしか戻らない部屋だ。

 ドアを開いて、ここは統一感のある部屋だと思う。清貴くんとゆうくんの部屋とは大違いだ。部屋の中央に立てば様々なものが左右対称に置かれているのに気付く。双子なんだなとそんなことをまた考える。

 勉強机の上に掛けられた名前のプレートを見て、左側が満月ちゃんのスペースだと知る。そちらのベッドの上に満月ちゃんを下ろした。

 クッションで半分も身体が隠れてしまうと、より小さくなって見える。それとも愛する妹の死と共に、心の中の彼女を失ってしまったからだろうか。


 その頭を撫でる。ほつれて出てきた髪に指がかかっても、少しの痛がる素振りもなく床を見つめ続ける姿は静かに消えてしまいそうだ。

 その手を握る。小さくて僕の手に簡単に呑まれてしまうけれど、冷えすぎた体温に全てを奪われそうな気もした。

 だけど、生きている。だからしっかりと、強く、生きなくてはいけない。それが生きている者が唯一できる償いの筈だから。


「満月ちゃん」


 名前を呼ぶ。君が月なら、受けた朝陽によって輝かなくてはいけない。俯いていては何も始まらない。


「朝陽ちゃんは君が大好きだったね。満月ちゃんが朝陽ちゃんを大好きなように」


 目が窺うようにこちらを向く。


「もう自分を責めるのはやめよう。少し勘違いをしただけだ」


 その代償は大きすぎたけれど、それは悔いようのないことだ。ふたりはまだ幼くて、こんな事態を誰が教えることができただろう。誰も思いはしなかった、こんなことになるなんて。それはこの子だって同じなんだ。


「幸せになってほしかったんだよね。朝陽ちゃんの中に居る自分と、さよならさせてあげたかったんだよね」


 大切に思う気持ちが強かっただけ。それで信じてしまっただけ。魔法のハサミならきっと切れる、その心に住む自分だけ取り除いてあげられる。そう、願ってしまっただけ。




――笹井満月として産まれた少女は、母親の胎内で声を聞いた時から自分のことを必要のない人間だと潜在意識の中で思っていた。恐らく置き去りにされた時にそれを確信しただろう。そして自分が居るせいで妹である朝陽を不幸にした、と知らない言葉で考えた筈だ。一緒に居てはいけない、この子が幸せになるためにはと。

 それでも自分を頼る朝陽を見捨てられる筈がない。唯一の肉親で、産まれる前からずっと隣に居たのだから。高熱を出した時にその思いもまた強くなったかもしれない。自分の不在のために何も手を付けられず泣き続けているのを知ったなら、ますます離れられなくなっただろう。

 だからできるだけ、朝陽が笑える道を選んだ。ずっと傍に居て、朝陽のしたいことをしたいようにさせてあげて、その願いを叶えるために尽力した。もう泣かなくてもいいように、心にはお互いが居るのだと教えた。特別な力で繋がっているのだと。それを証明するために朝陽の怪我を追って同じところに傷を付けた。その傷がいつも少しだけ大きかったのはそのせいだろう。朝陽よりも大きな傷を作ることで朝陽の痛みを取ってあげられているような気がして、満月自身そうして安心していたのかもしれない。

 だから朝陽を選んでくれた人が居て、さぞかし嬉しかっただろう。選ばれたのは朝陽だけで自分が一緒に行くことはできないけれど、やっと朝陽を自分から解放してあげられる。愛してくれる新しい家族と本当に幸せになれる。


 そう思っていたのに。

 朝陽が断ってしまったことを知った。そしてそれが自分が居ないからだということも。

 また自分のせいで朝陽が幸せになれないなんて。そんな思いは次第に強くなり、やがて今日を迎えた。それまで何度も説得したのかもしれない、それでも朝陽は受け入れようとはしなかった。

 二回目のかくれんぼに乗り出した時、屋根裏部屋でふたりはまた同じ話をしたのだろう。どちらが始めたかは分からない。もしかしたら朝陽の方だったかもしれない。だけどその話はまとまらず、結論に行き着く前に途絶えてしまった。


 満月が朝陽の胸にハサミを突き立てたから。


 何でも切れる魔法のハサミは、よく切れるけれど通り抜けたりはしないただのハサミだ。簡単に肌を傷付け、命の糸を切ってしまう。

 途切れる息が響く部屋で、満月は自分の行為の間違いに気付く。けれど遅すぎた。


 死を早めたのは、しかし朝陽自身だった。

 激しい痛み、胸に残るハサミの柄。突如起こった事態の全ては分かっていなかったかもしれない。しかし自分が遠い所へ行こうとしているのは分かっただろう。そして同時に、見つかれば満月が悪く言われるだろうことも分かった。

 だから満月を突き飛ばした。そうして自身の手でハサミを抜き取った。あの小さな身体のどこにそんな力があるのか。朝陽は満月を守るために最後の力を使うことを決めた。最後の瞬間まで、ただ満月の幸せだけを思っていた――。




「満月ちゃん。君は生きなきゃいけないよ。君が強く生きている限り、君の中で朝陽ちゃんは生き続けるんだから」


 その瞳の奥に閉じ籠った彼女自身に伝える。動かなかった固い瞳がやがてじわりと潤んだ。


「……みぃちゃん悪い子、だから……あっちゃんも悪い子に、なっちゃった、だから、嫌いって……。みぃちゃん、居なかったら、あっちゃん大好きって……家族になれた、のに」


 あぁ、そうか。でも違うよ。誰も悪い子なんて居ないんだよ。

 抱き締めた身体はやっと、少しずつ体温を取り戻している。言えなかった気持ちを吐き出せたから。そうしてやっと感情のままに涙を流した。

 君は初めから悪い子じゃなかったよ。だから。


「君だって、愛されていいんだよ」


 

  

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