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母の夢

作者: 尾崎秀秋

 暗黒の世界をまどろみ、さまよい続けていた拓也は、天使のような明るい女性の声で目覚めようとしていた。

「…長谷川さーん、聞こえますかー」

 寝返りを打つようにゆっくりと大きく頭を振り、拓也は大きな溜め息とともに覚醒した。しかし、いっこうに明るい視界は開けず、とっさに両手を双眼にあてた。

「…ほ、包帯?」

「おい拓也、だいじょうぶか!」

 懸命に呼びかけていたのは、現場の同僚である田丸健二と女性看護士だった。二人は拓也の反応に安堵し、思わず笑みを交換した。

「至急、先生を呼んできます」という天使の声が遠ざかり、聞き慣れた低い声が、独特の口臭とともに降り注いだ。

「やっと気がついたか、一時はどうなるかと心配したぞ。オレがちゃかしたばっかりにオマエがこんなことになって、ホント悪かったな。スマン!」

 どのぐらいここで寝ていたのだろう、そしてここはどこだろう。いくら思いをめぐらせてみても、目覚めたばかりの、まだ半分よどんでいた拓也の大脳では何も思い出せなかった。目の前にあるのは、ただ、一点の光もない真っ黒な闇だけ…。

「なんか言ったか? …あっ」

 まるで時差の壁を越えてきたように、田丸の言葉に突然気づき、ようやく記憶の尻尾をつかむことができた。

 〈そうだ、オレは高速道路の建設現場で働いていた──。


 その少し前までは、都会の片隅でバイト探しに明け暮れていた、いわゆるフリーターだった。せっかく雇ってもらっても長続きせず、すぐに辞めてしまう。雇用条件が募集広告と異なっていたとか、経営者や上司との相性が悪かったわけでもない。もっとも、相性がわかるまで勤まらないのだから、お話にならないが…。

 同じことの繰り返しだった。いつの間にか、まるでバイト探しが生業のようになっていた。三月のある日の夕方、履歴書用紙を買いに近所のコンビニまで出たオレは、帰り道で雨に降られてしまい、薄汚れた高架下の公園で雨宿りをした。

 煙草をふかしていると、ひしゃげたシケモクを横にくわえた見知らぬ男が近寄って来た。

「お兄さん、火、貸してくれねぇ」

 今までに聞いたことのない不思議な訛と鼻をつく口臭に面くらい、オレは火のついた自身の煙草を手に取りまっすぐに差し出して男を睨みつけた。今はベッドのすぐ間際に佇立しているであろうこの男が、田丸健二だ。

 そのとき田丸は、オレの手にあるまっさらな履歴書をちらっと見るなり、煙たそうに眉間にシワを集めながら言った。

「ちょときついけど、ええ仕事があるよ」

 オレの反応など意に介するふうもなく、田丸は淡々としゃべり続けた。呆然と聞いていたオレは、この男が最後に口にした〈日当〉を聞いて驚いた。通常とされる賃金の三倍近かったからだ。

「きついのは、どんな仕事も一緒ですよ」

 オレは引きつった笑顔で応えながら、ポケットから取り出した煙草の箱から、真新しい一本を素早く抜き取り田丸に勧めた。

 このときのオレは、やや自暴自棄になっていたのかも知れない。いや、バイト探しの毎日から抜け出したかったのか…、今となってはよくわからないが、とにかく後先を考えずに、というよりあえて考えようとはせず、まるで逃げるように都会を後にした。

 ところが、世の中にうまい話などあろうはずもなく、奥深い山地を縫うように縦走する新高速道路の建設工事は、想像をはるかに超える過酷な仕事だった。

 オレはまずその環境に目をむいた。周囲には質素な炭焼き小屋の一軒もなく、工事車両が行き交う仮設林道以外には獣道さえ見当たらなかった。ただひたすら、ジャングルのようなうっそうとした混成林が続くのみである。

 夜はプレハブの粗末な宿舎に押し込まれ、大量の様々な昆虫と同居せねばならなかった。その一匹一匹が、都会育ちのオレには考えられぬほど大きくグロテスクだった。支給される食事はカップ麺か冷えたにぎり飯のみ…。

 重機や特種車両を扱う資格を何も持っていなかったオレに与えられた仕事は、作業員のための迂回歩道造りだった。それは経験も資格もないオレに「下山がいやならコレしかない」と、現場監督が恩情で与えてくれた唯一の仕事だったのだ。

 いつか本で読んだ「第二次大戦中のソ連シベリア収容所における強制労働キャンプ」のシーンを思い浮かべながら、オレは湧き出るような汗を四方へ飛散させながら、早朝から日没までつるはしやスコップを振った。

「こんな場所で、かくもきつい仕事、あの日当でも安すぎるぐらいだ…」

 それでも、そうこうしているうちに一ヶ月が経ち、環境にもきつい肉体労働にもなんとか慣れてきたある日。そう、まだ五月だというのに朝から猛烈に暑かった、…あの日だ。

 お昼前後だったと思う、重機班の休憩時間に田丸がオレを冷やかしに来た。

「どうだ拓也、がんばってっか? ん…、そこは掘り過ぎじゃろ。そんなに一ケ所ばっか掘ると、アメリカまで行っちゃうぞ、わっはははは…」

 その直後だった。

「うるせー、人をからかっている暇があったら…」

 突然、ふわっと身体が浮いたような感触と激しい衝撃、同時に迫りくる耳鳴りを最後に、オレの大脳はダウンした…。


「…あれから丸一日以上も目を覚まさねえから、もうダメかと思ったよ。いやーよかった。現場監督も下に来ているから、もうじき看護婦さんが呼んで来てくれるだろ。

 何しろ、最初に担ぎ込んだ山のふもとの小さな診療所には『治療の設備がないから無理だ』と拒否されたんだぞ。それで紹介されたのがこの病院ってわけだ。決して大きくはないが、一通りの医療器具はそろっているようで、なんとか手術もうまくやってくれた。実を言うと、事故現場からここまで搬送に二時間半もかかったから、相当ヤバかったんだけどな…」

 拓也は、事故からこれまでの経緯を聞かされ大きな溜め息をついた。そしてあちこち痛む全身をいたわるように、とりあえず自由に動く右手で、ゆっくりと掛け布団をずり上げた。

「なぁ田丸、オレの目はいったいどうなったんだ?」

 記憶は戻っても物理的な明るい展望が開けないままの拓也は、両手で包帯をまさぐりながら、ひたすら動揺した。

「オレはこのまま、失明するのか…」

 そのとき、複数のせわしい足音ととともに近づいてくる、例の天使の声に気づいた。

「気分はいかがですか、長谷川さん」

 遠い昔にどこかで聞いたことがあるような、若いさわやかな声だった。その看護士とおぼしき〈天使〉の容貌を想像していると、今度は田丸とは違う張りのある男性の声が間近に聞こえた。

「目覚められて何よりです、長谷川拓也さん。僕は手術を担当した島崎です。あなたと同様に下の名はタクヤです」

 無論、目の見えぬ状態で初対面の者と応接したことなどなかった拓也は、声のする方向へ頭を傾けながら妙なことを発想した。 〈相手の容姿が確認できぬ以上、やむを得ず声や話し方、動作の気配、体臭などを手がかりに分析し、過去の記憶の中から最もそれに近い人物を探り当て、とりあえず仮の容姿としてイメージする。無意識のうちにこんなややこしい作業をするのは、対面する相手が自身を利するか害するか、つまり味方か敵かを瞬時に判断しようとする、本能のようなものなのだろう…〉

 拓也は、島崎という担当医の声としゃべり方に、またしても懐かしさを感じた理由として、自然にそんなことを考えたのである。

「オレ、現場監督を呼んでくるよ」

 そう言うと田丸は、まるで親か兄弟のように拓也の右手を一握りし、慌ただしく早足で病室を出て行った。

「上半身を起こすことはできますか?」

 やさしさのこもった医師の問いかけに、拓也が無言のまま頭を持ち上げると、看護士はゆっくり枕をずらし両手を添えて拓也の半身をずり上げた。

「どうです、頭はまだ痛みますか?」

 医師はやさしく声をかけながら、ひんやりとした聴診器を拓也のはだけた胸に軽く押し当てた。動いた拍子に側頭部に激しい痛みを感じた拓也は、タイムリーな島崎医師の問いかけに感心しながらつぶやいた。

「はい、左側頭部のあたりが特に…。でも頭より、眼球の刺激痛の方がつらいですね…」

 島崎医師は黙々と拓也の上半身や頭部の観察を続け、彼のつぶやきには応えようとしなかった。

「ね、ねえ…、先生、僕の目は完治するのですか?」

「うん?…、ああ、目ね。正直に言って今の段階ではわかりません。でもキミがすべきことはただ一つ、あきらめずに『絶対に治る』という信念を持ち続けること…」

「いったい自分はどのような事故に見舞われたのですか? 僕の身体はどうなっているのですか? 痛いのは頭部や眼球だけじゃないし…」

 島崎医師のありきたりな精神論に少々苛立ち、遮るように拓也がたたみかけた。すると二人は沈黙し、パラパラとカルテのような紙をめくる音が続き、ようやく医師の抑揚のない沈痛な声がこぼれはじめた。

「事故についてはまだ調査中らしいですから、わたしにはわかりません。左側頭部陥没、後頭部打撲痕三箇所、左肩から肘にかけての上腕部外側に無数の擦傷、左下腹部の裂傷…、そして原因物質不明の気体、または液体による角膜損傷…」

 淡々と述べる医師の一言一言に、拓也は眼前の暗黒をさらに憂慮で深めながら黙思していた。寒々しい緊張感に包まれたこの病室は、いわゆるタコ部屋ではなく個室のようだった。三人以外の人の気配はなく、さわやかな風を呼び込む窓が、間近に感じられたからである。

「な…、涙も出ないんですね、僕の両目からは…」

「ああ、今はね。でも昨日運ばれてきたときより、わずかながら腫れが引いてきているから焦らずにじっくりと治すことだ…。

 頭部を強打していたので心配しましたが、奇跡的に危険な出血もなく、何よりもこうして意識が戻ったのだから、これからはきっと良い方向へ向かうでしょう。しかし、予断を許さぬ状況には変わりはないので、しばらくはここで安静にしていてもらいます。何かあったら、この看護士の笠井君を呼んでください…」

 一気に話す島崎医師の声がわずかに途切れると、拓也は右手で宙をかき左腹部をさするような仕種をした。

「この裂傷や打撲に伴う感染症や敗血症などの兆候はないのですか? 事故から手術まで二時間以上も経っていたと聞きましたが…」

 医師と看護士は驚いたように顔を見合わせた。

「さっきから気になっていたのですが、キミは医学の知識を持ち合わせているようですね。以前、医師を志して勉強でも…」

 島崎医師の問いかけに、今度は拓也が応えずに沈黙した。

 傷ついた〈山奥の土木現場の日雇い労働者〉を前に、「あなたは(現役の)医師ですか…」なんて尋ねるはずもなく、「まずは妥当な勘ぐりだな」などとひねくれた感想を抱いた。当然と言えば当然なのだが…。そんな微妙な空気とこの医師が放つ不思議なオーラが交ざりあい、拓也はなぜか切ない気分になった。

 やがて聴診器をたたむ音とともに、一つの気配が部屋を出て行った。全身の傷をかばうように、ゆっくりと上半身を沈めつつある拓也の右腕に、掛け布団を整える柔らかい指が触れた。医師が去り看護士が残ったことを改めて確認し、拓也は素直に安堵した。

 島崎医師と対峙していると心の隅々まで見透かされそうな気がして、妙な緊張感を覚えたからである。その張りつめた緊張から解放されたような、柔らかく心地いい安堵感だった。

「あの先生、なんか気に入らないな…」

 拓也は、視覚が利かないことへの不安と苛立のはけ口として、まだわずかに会話した程度の見知らぬ医師をささやかに罵った。

「そんなぁ、若いのにとても熱心な良い先生ですよ。頭も凄くいいし、患者さんからも医局員からも、それにナースからも人気があるし…」

 自身の愚痴に迎合することなく、語調を強めて反論する看護士に内心では少々ひるみながらも、あえてそっけない言葉を返した。

「あ、そう。…そう言えば、田丸のヤツ遅いな、現場監督が見つからないのかな」

「…そうですね。わたし、探してきます」

 笠井看護士が部屋を出る気配を感じ、拓也はあわてて声をかけた。

「あっ、そうだ。家族に、母親に連絡したいんだけど…」

 一瞬、彼女が立ち止まったように感じたが、何の返答もなくか細い足音は遠ざかっていった。

「ナースか…」

 拓也は以前つき合っていた年上の恋人、香織のことを思い出した。高原や渓流の似合う、自然が大好きな娘だった。

 ちょうど土木現場にほど近いこの辺りの山にも、何度かツーリングで来たことがあった。天気のいい休日には、二人乗りのバイクでよく出かけたのだ。

「この風がたまらないわ、サイコー」

 疾駆するバイク上の激しい向い風の中で、香織が拓也の背中越しに語りかけた、あの天使のような明るい声…。

「そうか、やはり…」

 拓也には何となくわかっていた、笠井看護士の懐かしさの根拠が…。あのときの香織の声にそっくりだったのだ。そのことがはっきりしたことに満足し、ほっとしたような笑みを浮かべた。

「笠井さん、遅いな。田丸も…」

 なかなか訪れない人の気配を待ちわびるように、拓也は神経を入口の方に集中してみたが、ジワジワと押し寄せる睡魔には抗しえず、さわやかな春の風に包まれて静かな眠りに落ちて行った。


 翌朝、拓也はまたしても、ノー天気なほど明るい例の声で目が覚めた。

「おっはようございまーす。長谷川さん、あなたはとんでもないモノを掘り当ててしまったみたいね。下は蜂の巣を突いたような大騒ぎよ…」

「えっ?」

 拓也は、寝起きざまに突然浴びせられた笠井看護士の言葉が理解できず、困惑した。彼女はしゃべりながら医療機器を確認したり窓を開けたりと、せわしく動き回っている。

「昨日、あなたが意識を取り戻したとき、わたし先生を呼びに行ったでしょ。そのとき怪し気に周りのようすをうかがいながら公衆電話でヒソヒソ話していた現場監督さんを見つけて不審に思ったのよ。その後、すぐに姿を消しちゃうし…。

 夕方になって再び現れたときは、あなたのお友だちの田丸さんと鳩首会談をしていたわ。耳をそば立ててみると『まさか、…なものを掘り出すとは…』ですって。それで今日は、朝早くから町長やら霞ヶ関のお役人やら、背広を着込んだ偉そうなやからが何人も押しかけてきて、院長や理事長に詰め寄っているのよ、あなたとあなたが掘り出したモノについて。どう考えても異常でしょ」

「………」

 拓也の全身が凍りついた──。

 実は、自身の双眼を襲った「謎の物質」について、拓也にはかすかに思い当たる節があったのだ。それは受験勉強中に薬学の本で知った〈化学兵器〉だった。旧日本陸軍が秘かに製造し、戦後、中国や日本の各地で発見されて騒動になった毒ガス弾のことである。

 「黄剤」と呼ばれたマスタードガスやルイサイトなどのビラン性ガス、「赤剤」と呼ばれたジフェニルシアノアルシンなどのクシャミ誘発剤、「緑剤」と呼ばれたクロロアセトフェノンなどの催涙薬…等々、これら毒ガスを砲弾や爆弾に装填したものが、一般に〈化学兵器〉と呼ばれている。

 何種類かあるその中の「ルイサイト」による特性が、まさに自身の被災状況と酷似していることに薄々気づいていた。しかし、よもや六十年以上昔の呪われた兵器が自分を襲うなどとは信じたくもなく、無意識に打ち消してはいたのだが…。

 しかし笠井看護士が語る、東京の役人までが駆けつける異常事態は、いやがおうにもそのことを認めざるを得ない状況である。

 拓也は全身を震わせ、背中を走る何筋かの冷や汗もそのままに、ひたすら焦慮した。なぜなら、もしそうであれば自身の失明は保証されたようなものなのだから…。少なくとも自身の持てる知識からは、その悲観的結論しか導き出せなかった。

「な、何を掘ったかなんて、わからないよ。ほとんど同時に吹き飛ばされて意識を失ったんだから…」

 笠井看護士の動きが止まった。

「…ふーん。まあいいわ、とにかく今のあなたは重傷患者だし、わたしはあなたの担当看護士。何も心配しないで回復することだけに専念してくださいね。わたしもできる限りの看護をさせていただきますから」

 ささやかな気休めでしかない彼女の言葉に一応はうなずきつつも、拓也は全身を硬直させたまま自身の非命を憂いていた。

「…そうだ、東京の家族に連絡したいので、ここの病院名と所在地を教えてくれないか」

 拓也は何とか平静を装いながらも、絞り出すような震える声で言った。すると彼女は、困ったような風情で小さな溜め息をつき、思いがけない一言を発した。

「無理ね」

「えっ、無理ってどういうこと?」

「さっき、ここへ上がってくる前に、院長から止められたの。『事故の状況と、ここの所在地は告げないように』って」

 拓也は確信した。それは悲しい確信だった。ルイサイトガスによって失われた自身の視覚が、二度と戻らないという…。

 なぜなら、この措置が笠井看護士の言う通り、町長や地元の有力者が院長に詰め寄った結果として取られたものだとしたら、それは事件の発覚によって当地の農産物の出荷が見送られたり、観光客離れによる地元財政のひっ迫を懸念してのことであると考えるのが自然である。そんな懸念を想起させる事件の真相として、これほどふさわしいテーマはないと、たやすく推測できるからである。

 起こしかけていた痛む頭を、拓也は思いっきり枕に放り投げた。

 ──いくばくかの日当に目がくらんだ結末がこれか。

 全身の痛みと例えようもないもどかしさに、拓也は大声を出して泣きたい気分になった。しかし依然としてしびれる顔面は、目尻ににじむ無念の涙さえも感じ取ることはなかった。

 しばらく黙っていた笠井看護士は、何かを思い出したように、軽快な足音をたて拓也に歩み寄った。

「ねえ、昨日先生がおっしゃっていたように、以前、医学の勉強をしていたことがあるの?」

 彼女は思い詰める拓也を見かねて、まるで気分転換を促すような努めて明るい調子で語りかけた。

「えっ…、ああ、まあね…」

「そう言っては失礼かも知れないですけど、現在のあなたを見ていると、医師を志していたガリ勉少年の面影は見当たらないんですけどねぇ」

 今度はいたずらっぽい子どものような口調だった。

 拓也も口をとがらせて、大げさに「むっ」とした表情をしてみせ、笑った。それを見た彼女も声を出して笑った。和んだ空気が落ち着きを取り戻すと、拓也はうつ向き力なく語り出した。

「…ある女性の死をきっかけに、オレは医者になる決心をした…。昔の安っぽいメロドラマなんかによくある話だけどね」

 笠井看護士は、意外な展開に驚いているようすだった。

「『その女性はなんで死んだのか』なんて聞かないでね。オレ、思い出したら悲しくなっちゃうから」

 しばらく沈思していた彼女は、腕を組み換えるような動作の気配を示し、重たそうに口を開いた。

「…一つだけ、聞いていい?」

「ん? なに」

「その女性はなんで死んだの」

「………」

 受け狙いのギャグかと思い、拓也は憮然とした表情で応えてみたが、彼女からのリアクションはなかった。熟慮した拓也は、頭を上げて言った。

「『事故の状況とここの所在地』を教えてくれたら話してあげる」

 さすがに鼻白んだようすの笠井看護士は、話題をそらすように声調を変えて尋ねた。

「…んで結局、現在医者をやっていないということは、挫折したわけだ? それともまた別の誰かが亡くなったとか?」

 拓也は自身にとってつらい部分に、遠慮なくズカズカと土足で入り込んで来るこの女の小気味いいほどの横暴さに苦笑しつつ、躊躇することも忘れてつぐんでいた口を開いた。

「金だよ、金。当時のオレには恐ろしく経済観念が欠如していた」

「…経済カンネン?」

「そう、実はその女性が亡くなる数カ月前に、父が他界したんだ。

 母とオレは一家の大黒柱を失ったわけ。だから、オレが医大を目指して勉強していた頃は、家計は火の車だった。そのことに気づかなかったオレもオレだが、息子に不憫な思いをさせまいと必死に働いた母の頑張りとやせ我慢が、そのことをオレに悟らせなかった…」

 淡々と話す拓也の一言一言に絶句していた彼女の気配が、ゆっくりと穏やかに軟化した。

「…ふーん、長谷川さんて苦学生だったってわけね。でも夢は叶わなかったかも知れないけど、素晴らしいお母さまに見守られていたことが、何よりだったと思うわ」

「『素晴らしいお母さま』…か。いやっ、実はそうでもないんだ」

「えっ…?」

 ボソっとつぶやいた拓也の一言に、笠井看護士は驚き、身を乗り出した。

「確かに田舎育ちの彼女は、やさしくて真面目で、オレに取っては非の打ち所のない『母親』だった。家族のことを常に最優先で考え、自身の人生の大半を親父とオレのためにすり減らして来たような人だ。自身の楽しみやささやかな夢さえも、持ち合わせていなかったんじゃないかなぁ。

 そして…、受験をあきらめたのは金がなかったからだけではなく、実はより大きなもう一つの理由があったんだ。父の死後、二人きりで身を寄せあうように必死でがんばってきた、その唯一の肉親である母の、思いもよらぬ裏切りだ」

「裏切り!?」

「そう…。突然、再婚すると言い出したんだ…、あの母が。オレには考えられなかったよ、家族を愛してくれていると信じていたのに、オレと亡き父を捨てて他の男の元へ行くと言うんだからな。四十半ばのオバサンがだよ。ショックで受験勉強どころではなくなった…」

 起伏をかなでる拓也の感情は、振りかざす右手を通して笠井看護士に伝わっていたが、彼女は拓也の興奮とやるせなさを受け止めるかのように、大きくうねるその右手を握りしめた。

「突然、何もかもがむなしく思えてきて家を飛び出した。 〈入学金〉という経済的な壁にぶち当たり、恥ずかしながらその壁を突き崩してくれる最後の望みと秘かに期待していた母の、〈母の裏切り〉という絶望的な仕打ちに打ちのめされ、オレは急速に堕ちていった。もはや受験勉強どころの話ではなかったよ。その急降下ぶりたるや気持ちがいいほどだった。

 …そう、…それからは、毎月勤め先を換えるダメフリーターに成り下がり、金に目がくらんで『山奥で穴堀り』したかと思ったら、このザマだ。

 …なんか、今キミに話していて気づいたんだが…、今回の事故は、死んだ彼女がオレに課した罰のような気がする。いや、復讐と言うべきかな…」

 拓也の右手が解き放たれた。笠井看護士の両手の温もりでしっとりと汗ばんでいたそれは、そよ風の冷たさを感じるほどだった。彼女はベッドのまわりを足早に半周し、観音開きの窓を閉めた。

「島崎先生が気に入らない理由を告白するよ。キミの言う通り、あの先生はいい人だと思う。オレが気に入らないのは先生の苗字だ。母の再婚相手もシマザキだった」

 そのとき、天使の声がはじけた。おかげで陰鬱だった室内の空気は一気に和らいだ。

 カラカラと笑うその声は、黒く凝り固まった拓也の心を溶かすのに十分なほど、さわやかだった。拓也は呆気に取られ、ただ呆然とした。

「人を苗字で判断するなんて、よくありませんよ。それにお母さまの再婚相手だって、会って話してみればいい人だったかも知れないじゃないですか」

 まだ見ぬ笠井看護士の笑顔は、拓也の脳中ではすっかり香織のそれになっていた。笑顔の絡んだお説教は、香織の得意とするところでもあったのだ。

 島崎医師をさりげなくかばう笠井看護士の愛嬌は、実は〈愛強〉なんだなと秘かに確信し、少々妬ましくも思えた。

「あっ、そうそう。電話…、いいですよ。場所は教えられませんが、お母さまに声を聞かせてあげてください。多分、驚かれるでしょうけど」

 そう言うと、どうやら彼女はポケットから携帯電話を取り出したようで、拓也に番号を尋ねた。

「あれ? 病院でケイタイはまずいんじゃ…」

「シー、本当はいけないんですけど、今日だけ特別です。この部屋は個室ですし、周囲に電磁波が悪影響を及ぼす恐れのある機器はありませんから」

 …という彼女のはからいで、拓也はとりあえず久しぶりに母親の声を聞くことができた。「ちょっとしたケガで入院している」と、「心配無用」を添えて簡潔に伝えた。拓也の口調は固く、それは〈裏切り〉に対するわだかまりのようであったが、母親が結局は再婚を断念し、拓也の荒廃した生活ぶりを心配しつつ慎ましやかに暮らしていることを知ったとたんに、表面上は氷解したようであった。

「お母さま、元気そうでした?」

 彼女のにこやかな声は、奈落の底に突き落とされ、先ほどまで暗黒の地獄にあえいでいた拓也に、一筋の光をもたらすように輝いた。

 彼女が携帯電話をしまうのと同時に、階段を駆け上がる荒々しい足音が近づいてきた。拓也は、プレハブ小屋の階段で聞き慣れたそのリズムの主を、すぐに判別することができた。

「おい拓也、大変だ。オレたちが入っていたあの工事地区は閉鎖され、そこで働いていたオレたちは、元請けから突然解雇されたよ。参ったよな」

 そりゃそうだろうと、拓也は思った。

 元々、新高速道路の計画予定ラインからはずれていたあの工区は、削られても支障はないはずである。そこへこの騒動だから、当然の結末と言える。

「それはお気の毒さま」

 拓也がきっぱりとした口調で言い切ると、田丸はそれと気づき声調を変えてわざとらしく気づかってみせた。

「いや、すまん。オマエはそれどころじゃないもんな。まだ痛むか? 目、よくなるといいな。本当にオマエには済まんことをしたな。

 そう言えば現場監督が『よろしく』って言ってたよ、ヤツも元請けへの報告や労災の手続きとか色々と忙しいようで、見舞いは落ち着いてからにするって…。じゃあオレはこれで。一旦、東京に帰ってまた職探しだよ。すまんな、それじゃあな、元気でな」

 田丸は背中を丸めるように、そそくさと去って行った。

 元々親友だったわけでもなく、わずか一ヶ月ちょっと前に煙草の火を貸して、この仕事を紹介してもらっただけの仲である。本人も自身が関係する事故で包帯だらけになった同僚を前にしても、自分の食いぶちだけにしか興味を示さないそのようすに、拓也はとりたてて立腹することもなく黙って見送った。

 田丸と入れ代わるように、今度は島崎医師が入ってきた。回診のようだった。

「目の痛みはどうですか? 頭は?」

 彼はテキパキと動き回りながら、笠井看護士と何やら小声で問答をくり返した。その内容は「体温は、脈拍は…」というたぐいのことで、拓也が欲していた事故についての情報ではないようだった。

 それより拓也が驚いたのは、脈拍数を尋ねられた彼女の応対である。きっぱりと具体的な数字を応えた彼女の声に…、「はて? 脈拍なんていつ測定されたかな」と思いを巡らせてみると、「………」。

 彼女が拓也の手を握ったのは一度しかなく、そのプロ意識に、複雑な思いで感服せざるを得なかった。

「だいたいの事故の状況と経緯は、僕も先ほど医局で聞きました。大変でしたね。でも心配しないでください。あなたの目は、僕が責任を持って治療しますから」

 それは、妙に力強い言葉だった。おそらく彼の双眼は自信と決意に燃え、光り輝いていたことだろう。

 島崎医師は、その後は無言のまま各種医療機器のデータ収集と処方を済ませ、次の患者が待つ隣室へと移動して行った。

「ね、頼りがいのあるいい先生でしょ」

「………うん、そうかもね」

 笠井看護士は、拓也の上半身をゆっくりと起こして背中に枕を当てがうと、左腕やあちこちの包帯を次々に交換して行った。いよいよ残された最後の一つである双眼と頭部の包帯に彼女の手が及んだとき、拓也は少し緊張した。「香織の仮面」を脱いだ、笠井看護士の真の姿と対面することになる可能性があるかも知れない…という、ささやかな期待感を抱いたからである。

 しかし包帯から解放された、ただれて腫れ上がった双眼は、拓也の過剰な期待に応えるはずもなく、一点の光も認識しないまま真新しいガーゼと包帯に再び閉ざされてしまった。

「笠井さん、オレの荷物はここに届いているんですよね」

「…えっ、はい。ありますよ」

「藍色のポーチがあったと思うんですけど、その中にお護りが入っているはずなので、取ってもらえませんか」

「…わかりました」

 彼女が、拓也の目論見に感づいているのかいないのか、不得要領なその返事からは推測できなかった。

「はい、どうぞ。では、わたしは一旦失礼しますので、何かありましたらこのナースコールのボタンを押して呼んでください。それでは、お大事に…」

 彼女はポーチと長いコードの付いたナースコールのスイッチを拓也の右手に押し当てながらそう言うと、部屋を出て行った。

 足音が下階に消えるのを確認した拓也は、ポーチから急いで携帯電話を取り出し、バッテリーの残量を心配しながら、とりあえず「1」のボタンを長押ししてみた。

「………」

「もしもし拓也、いったいどうしてたのよ、一ヶ月以上も音信不通でさ。ちょー心配したよ」

 声の主は「短縮1番」のガールフレンド、涼子だった。とりあえず「1番」ではあったが、拓也が凋落の底で知り合った〈その種の女〉だった。

「…わりい、わりい。ちょっとワケアリでさ、今ヤバイことになっちゃってんのよ」

「はぁ?」

「山奥で穴掘ってたら毒ガス爆弾見っけちゃって、それ、はじけちゃって、目は見えなくなるわ、ワケのわかんねえ病院に軟禁されちゃうわで、もう大変なわけよ」

「は、はぁ?」

「んでさ、涼子にちょっと助けてもらいたいんだけど、雲凛院峠から六十キロ圏内にある町立の病院を調べてほしいんだ。

 県でいうと群馬、新潟、長野が考えられるけど、時折聞こえてくる一般人の会話のイントネーションから察するに、おそらく群馬だと思うわけ。オマエのクルマに着いてるナビで探せば一発だと思うからさ、なっ…、町立の病院だぞわかったか、んじゃよろしく」

「は、は、はぁ?」

 拓也が話を急いだのは、バッテリー残量を心配したからだけではなかった。盲人状態となってから、常に見張られているような気配を感じていたのだ。まして化学兵器の発掘騒動というこの状況は、彼の神経を過剰に先鋭化させ、妄想の域まで警戒感を高めていた。

 困惑の極致に達していた涼子が、はたして期待に応えてくれるかどうかは大いに疑問ではあったが、今の拓也には彼女以外にすがる相手がいなかったのだ。

 おそらく様々な薬のせいなのだろう、それとも疲弊した身体が求めるのか、意識が戻って以来やたらと睡魔に襲われ続けていた。

 相変わらずのさわやかなそよ風に、うたた寝しかけたそのとき、マナーモードに設定し忘れていた拓也の携帯電話が、けたたましい着信音を奏でた。

 驚いて飛び起き受話ボタンを押すと、相手は先ほどの涼子だった。

「もしもし、アンタ大丈夫? 頭確かだよねえ?

 もし本当に毒ガス爆弾なんか見つけちゃったんだったら、フツー殺されちゃうんじゃない? …口封じに。どこに居るのか知らないけど、んなとこすぐ逃げた方がいいよ」

「わかってるって。それより、町立病院は見つかったか?」

「んなもん、あるわけないじゃん。弟に頼んで検索してみたけど、全然ないよ」

「………」

「悪いこと言わないから、早くそのヤバイとこから逃げなよ、ねっ」

 拓也はゆっくりと携帯電話を降ろしながら、一瞬の動揺を沈めようとしていた。

 涼子から「病院なんてない」と言われたときは少々焦ったが、考えてみれば小さな病院の一つ一つがすべてナビに掲載されているとも考えられなかった。

 拓也は、思い出したようにマナーモードの設定を施し、携帯電話を枕の下に忍ばせた。そして、悶々とした胸のつかえを飲み込むかのような、大きな深呼吸を一つ残して、眠りへのドアを押し広げた。


 翌朝は、騒然とした下階の気配で目覚めた。

 救急車のサイレンや無遠慮に走り回る無数の雑踏、そして急患に叫び掛ける切迫した医師や家族の声。それらは、改めてここが非日常の世界であり、病院なんだということを如実に物語っていた。拓也は起きた早々に大きな溜め息をついた。

 この日は、笠井看護士も島崎医師も姿を見せなかった。おそらく、運び込まれた急患への対応で忙しかったのだろう。

 包帯の交換や給食、定期的な投薬、点滴薬の交換などといった毎日の業務は、笠井看護士に代わって無愛想な中年の女性看護士が担当した。

 拓也は終始無言で過ごし、中年看護士への応対も気の入らぬ最低限の会話で済ませた。

 その翌日も、同じように推移した。もはやバッテリーが切れたのか、あれから携帯電話が着信を知らせる振動を発することもなく、拓也は退屈な時間を過ごした。

 当然の成りゆきで、とにかくよく眠った。不摂生を極めたフリーター時代の不眠時間を全て取り戻すかのような爆睡状態が続いた。「それしかすることがなかった」と言ってしまえばそれまでだが…。


 あれから何日が経っていたのだろう、この日は久しぶりに、笠井看護士の静かに作業を進める気配で目覚めた。

「…おはよう」

「あっ、おはようございまーす。

 すみませんうるさかったですか? 起こさないように静かに動いていたつもりだったんですけど…」

 空はどうやら曇っているらしく、決まって午前中に差し込む陽光が、ほとんど感じられなかった。

 決して広くはない病室の中で、二人はしばらく無言のまま過ごした。先に口を開いたのは拓也の方だった。

「…ねえ、あれからどうなったの」

「えっ、なにが?」

「…なにがって、オレの事故のことに決まっているでしょ。例の役人がらみの騒動の経過だよ」

 彼女は作業の手を休めて、拓也の方に向き直ったようだった。

「…この二日間でね、点滴や注射、それに頓服のお薬が代わったの、わかった?」

「………」

〈はぐらかしだ〉と思った拓也は、心の中で大きな舌打ちを放った。彼女は拓也の返答を待たずに続けた。

「あなたの目は、おそらく明日には光を取り戻せるそうよ」

「…えっ!」

 彼女の予想外の言葉に、拓也は同時に二つの驚きを感じた。ひとつは無論、予想もしていなかった視力回復の喜びであったが、もう一つはさらに予想外の、それを告げる彼女の寂し気な口調である。

 これまでの笠井看護士の人柄と性格から察すれば、少なくとも一緒に喜んでくれるはずなのに…、なぜ。

 胸に落ちないわだかまりを抱えたまま会話をつなげようと、拓也はかねてから考えていた一言を口にした。

「ねえ、例の女性がなぜ死んだのか教えてあげるから、事故の状況とここの所在地を教えてよ」

 彼女からは、拓也が期待したような反応は返って来なかったが、構わずに続けた。

「…いや、むしろ聞いてもらいたいんだ。彼女が亡くならなくてはならなかった悲しい理由を。なんで急に話したくなったのかは、オレにもわからない。でもどうしても、キミには知っておいてほしいと思った」

 じっとして動くことのなかった笠井看護士の気配が、ゆっくりと近づいてくるのを感じた拓也は、彼女を向かい入れるように右手を差し出した。

 元々奇跡的に無傷だった浅黒くたくましい右手は、ほどなくひんやりとした柔らかい両手に包まれた。拓也はその感触を懐かしんだ。

 それは、数日前に彼女がそれとなく脈拍を計測したときのそれではなかった。まさしく、バイクにまたがる拓也の脇腹に、しっかりと絡みついていたあの細い手の感触だった。

「聞かせて…」

 耳もとでつぶやいた彼女の小声は、心地よく拓也の全身に浸透して行った。空色のカーテンを踊らせる、晩春のそよ風のように。


「…十一年前に父が病死したときに、最期までかたわらで世話をしてくれたのが、まだ見習い看護婦になって間もないその女性、香織だった。明らかに職務の域を越えたその献身的な介護に、オレは胸を打たれた。

 ほどなく、父親という精神的支柱を失ったオレは荒れた。

 卒業間近だった高校は休みがちになり、煙草や酒に手を出しはじめ、父の形見でもあるバイクを乗り回すようになったのも、ちょうどこの頃からだった。

 そんな『不幸な遺児』を見かねてか、香織はオレに同情してくれた。

 年上だった香織はいつしか良き理解者となり、やがて二人はバイクで遠出する仲になった。

 ところが──、彼女の看護士としてのキャリアと能力が次第に向上していくに連れ、それと反比例するように、逢える時間は激減していった。

 同じ看護士のキミならわかるだろうけど、それが東京の大病院勤務ともなれば、その激務は相当なものだったようだ。

 すでに心の中を完全に支配されていたオレは、逢えない時間が増えることに我慢ができなかった。彼女の立場や事情を理解しようともせず、ひたすら苛立つようになっていったんだ。

 そして、その焦りは反動として憎しみに変化していった。事実、この頃から逢うたびに口論がたえなかった。

 そして、その日がやってきた。

 今日は喧嘩すまいと心に決めて出発した、雲凛院峠へのツーリングだった。ところが、結局このときも彼女の仕事をめぐって言い合いになってしまった。

『楽なシフトの病院に転勤するってかなり前から言ってるけど、いったいいつになるんだ!』などと、オレが語調を荒げて追求してしまったんだ。

 そして険悪な雰囲気を引きずったまま、帰途についた。

 月も出ていない暗い夜の峠道を、やけになっていたオレは猛スピードで疾駆した。恐がりの香織にいやがらせをしてやる程度の軽い気持ちだった。ところが急勾配の下りカーブで大スピン、やせ我慢して必死でオレにしがみついていた彼女は、ひとたまりもなく振り落とされた…。

 それは、文字どおり一瞬の出来事だった。

 幸いフルフェイスのヘルメットが彼女の頭部を守り、即死はまぬがれた。しかし左肘が粉々に砕けてしまったんだ。粉砕骨折だった。

 肘の内側がパックリと裂け、おびただしい量の鮮血が吹き出していたよ…」

 言葉を止めたときの室内は、水を打ったように静かだった。

 握ったままの笠井看護士の両手がかすかに温まるのを感じた拓也には、速度を増したその鼓動すら聞こえてくるようだった。

「…まだ看護婦としては新米だった香織は、この頃、救急看護法を修得している最中だった。オレもよく実験台にされたっけ…。

『拓也も一緒に覚えようよ』なんて、いやがるオレに無理強いして。『必ず役に立つから』と…。」

 このとき、笠井看護士の両手がピクッとかすかに跳ね、ささやくような声を上げた。

「あっ…」

「……………、

 そう、あのときオレが腕の止血法をちゃんと覚えておけば、香織は少なくとも失血によって命を落とすことはなかった。彼女自身があんなに一所懸命に教えてくれた止血法を、一時でもまじめに聞いてさえいれば…」

 なおも室内を支配する悲しい静寂は、拓也のこらえきれない嗚咽を際立たせた。それはまるで、すべてをやさしく受け入れる母性愛のように。


「オレは香織の棺に誓った。父の死を受け入れられずにもがいていたオレを、必死に救おうとしてくれた彼女の亡骸に。もう死なせない、第二、第三の香織は絶対に死なせないと…。

 それからほどなく、オレは救急看護法を修得したが、同時にその限界もすぐに理解した。だから迷わず医者になる決心をしたんだ…」

 笠井看護士は、まるで眠っているように静かだったが、時々鼻をすするかすかな音が、彼女の感情を示していた。

 しばらく重たい無音が続いた。それは拓也が、自身の口述の中で発見した驚くべき偶然に、絶句していたからであった。


「…ああ…、そうか。やはりここへは、アイツが導いたんだ。…雲凛院峠…」


 断続的な沈黙を伴う二人だけの時間はあっという間に過ぎ去り、拓也の病室にも、判で押したようなここでの日常がはじまった。

 笠井看護士の言う通り、窓の方に顔を向けるとわずかに光を感じるようになり、翌日の〈開眼〉も真実味をおびて考えられるようになった。しかし、拓也にとっては、彼女の沈んだようすが予告する〈胸騒ぎ〉の方が、はるかに現実的に感じられた。

 おそらく開眼と同時に、背広の連中が押し寄せて来るのだろう。涼子が悲観していたように、よもやこの場ですぐに消されることはないだろうが、口封じのための何らかの措置か処置が施されることは、十分に考えられると拓也は考えた。


 いよいよ当日──、この日は、これまでの夢のような晩春の気候がうそのように、早朝から台風並みの暴風雨だった。

 拓也の病室も、屋根を叩く豪雨の音とカタカタと窓枠を鳴らす強風のせいで、落ち着きを失っていた。

 二、三日前とは打って変わって眠れぬ一夜を過ごした拓也は、外のようすに気を取られ、人が近づく気配にはまったく注意が行き届かなかった。

「おはようございます、長谷川さん」

 ノックの音とほぼ同時に飛び込んできた大声に驚き、拓也は跳ね起きた。

「わっ! お、おはようございます」

 声の主は笠井看護士でも島崎医師でもなく、あの中年女性看護士だった。上半身を起こして当惑していた拓也を尻目に、看護士は一方的にベラベラとまくしたてた。

「これから、いよいよ残った腹部と頭部の包帯を取りますよ。目もちゃんと見えるはずです。今日の悪天候はあいにくですが、外の景色もご覧になれるでしょう。ここからの景観は最高なんですよ。…長い間、よくがんばりましたね」

「あっ、あのう…」

 拓也の小声がようやく看護士の動きと舌ぽうを止めた。

「はい、何でしょう…」

「担当医の島崎医師と笠井看護士は…、今日はいらっしゃらないんですか?」

 閉め切った窓からは、いつものような心地いい風は吹いて来るはずもなく、室内はジメっとした生温かさと湿気が充満していた。

「今日もいつものように、院長先生がもうじき見えられますが…」

「………」

 暴風雨の騒音がたたみかけ、よく聞き取れなかった。

「…今、誰っておっしゃいました?」

 拓也は自身の耳を疑った。

「いっ、いや。

 ですから…、僕の担当医の島崎医師と笠井看護士は…、見えられないのですか…と」

 中年看護士が不得要領に首をかしげていると、入口の方から初めて聞く初老の男のダミ声が飛び込んできた。

「やあ、ずいぶん元気になったようだね。…それじゃあ早速、包帯を取るとしようか」

 この男が看護士の言う院長のようだった。彼は看護士と何やら打ち合わせ、拓也の双眼にペンライトのようなものを当て、検査をくり返した。

「よし、大丈夫だ」

 院長の声を合図に、事故以来十日間以上、拓也の視力を遮り続けてきた最後の包帯が、ゆっくりと剥ぎ取られていった。

 力強く見開いていた拓也の二つの眼球は、次第に薄くなる包帯の層に比例するように、ぼんやりとした光が徐々に拡大していく様をとらえた。

 そしていよいよ、目の前の最後の薄い布がはらりと落ちた。

「………」

 拓也は、絶望の淵であれほど取り戻したいと懇願していた視力を、ついに取り戻したにもかかわらず、自身でも驚くほど冷静だった。いや、むしろいきなり飛び込んできた眼前の光景が、喜びを打ち消したというべきだった。

 老若大小、四人の背広の男たちが院長の真後ろに並んでいたのだ。院長や看護士を含め、みな「笑顔」…とは言いがたい、むしろ「薄笑い」と形容すべきぎこちない表情を浮かべていた。

 拓也は冷や汗と動揺をごまかすように、まだ完全には開かぬ双眼をキョロキョロと反復横移動させながら、心の中で「中年女性看護士は思ったより若かったけど、予想をはるかに超えるデブだった」などという感想を浮かべたり、「どれが町長でどれが東京の役人だろう」と詮索してみたりした。

 最初に、二番目に小さく一番歳老いた男が口を開いた。

「おめでとう、長谷川拓也君。わたしはこの町の長だ。キミには今日退院した後、すぐにわが町役場に同行してもらうよ、いいだろう」

 全員が依然として笑みを浮かべ、うなづいている。

「………」

 今度は一番大きく最も若い、といっても軽く五十歳は越えているであろう男が口を開いた。

「退院、おめでとうございます。わたしは当町、観光協会の副理事長です。

 長谷川さんとは、速やかに契約に交わしたく、お迎えにまいりました次第です」

「…け、契約?」

「はい、長谷川さんが掘り当ててくださった温泉の権利に関する契約です。

 工事関係者や当院の理事長にお聞きしましたところ、吹き出したイオウガスの直撃を受けて、二ヶ月以上もの長き入院を余儀なくされ、ご苦労されましたようで…」

「………? 二ヶ月?」

 そのとき、枕の下の携帯電話がブルブルと震えた。拓也は呆気に取られたまま、すでに動くようになっていた左手を枕の下に素早く潜り込ませ、おもむろに持ち上げると受話ボタンを押した。取り囲むように佇立する面々は、相変わらず笑みをたたえたまま、拓也のゆっくりとした動作を見守った。

「はい、…………ああ、母さん」

 拓也のその声に一同は破顔し、通話の邪魔にならぬよう気づかいながら、小声で談笑をはじめた。

「母さんじゃないよ、この間は『心配いらない』なんて言ってたけど、入院は入院だろ、気になって折り返してみても繋がらないし、この二ヶ月、ずいぶんと心配したんだから…」

「………」

「…聞いてるのかい?」

「あ、ああ…。

 …あっそうだ、母さん実はね、この病院で………、やっぱりいいや」

 拓也は何かに気づいたように、突然、携帯電話をたたむとカルテの加筆に熱中していた院長に問いかけた。

「あのう、峠に向かう途中に小さな診療所はありますか? 僕、急いでそこへ行きたいのですが…」

「それならわたしがクルマでお送りしましょう。あそこの診療所は街道からの進入路がわかりにくいし、この天候だ。わたしの運転手ならあそこは慣れているはずだからね。

 それに、車内で契約の下話しもぜひ、させていただきたいので…」

 そう言いながら名刺を差し出した、背が最も小さく痩せこけたこの男の肩書きは、弁護士だった。

 まだ完全ではない拓也の体調を気づかって、中年女性看護士が同行してくれることになったらしく、慌ただしく病室に車椅子が運び込まれた。

 拓也の頭は混乱の極致に達していた。様々な記憶が時系列を超越して複雑に錯綜し、脳裏をかき乱した。

 車椅子のまま乗り込める車内の広いミニバンは、一同をを満載しゆっくりと滑り出した。風雨は激しさを増し、悪化する一方の視界に悩まされて運転手は苦慮しているようだった。それでも病院を離れてからずっと、車内では運転手と看護士が当地の世間話に華を咲かせていた。

 登り勾配に差しかかり、一層スピードが低下した当たりで、それまで沈思していた弁護士が重たい口を開いた。

「若い人には、わかりやすく単刀直入にモノを言った方がよいと思うので、前置きを失礼して簡潔にお話しましょう。

 これといった産業を持たぬこの町は、今、日本中を吹き荒れる市町村合併の荒波の矢面に立たされ苦悩しています。まるでこの嵐の中の我々のようにね。

 あなたがこのタイミングで偶然にも発掘された温泉が、わが町の未来にとってどれほど貴重なものか、お察しいただけると思います。

 それもただの温泉ではない。町長の要請でさっそく飛んできた厚生労働省の泉質調査専門の係官でさえ驚嘆するほどの、素晴らしい泉質の極上温泉らしいのです。

 …とはいっても、現在の町の財政はもはや破たん寸前の状態であり、給湯場の整備やアクセスの改善、インフラの強化など、温泉が利益を生むようになるまでには、かなりの先行投資が必要です。

 そこでどうでしょう。いきなりでぶしつけだが、病院でかかった治療費はもちろん、プラス何千万円かの契約金でキミが本来所有する権利をすべて譲渡してもらえないでしょうか? 具体的な金額は後ほど提示します」

 拓也の耳は、堅苦しい弁護士の口述をほとんど捉えることはなかった。依然として脳中を飛び交う過去の記憶と格闘していたからである。

 わずかに片耳に残った「何千万」という漠然とした金額に対してのみ、「一千万円以上あれば、医大の全修業課程でかかる経費をまかなえるかも知れない」という感想を抱いただけだった。

「すでに契約書はちゃんと用意させてある。町役場に到着したら、すぐに調印できるようにね。昨今は情報の伝達スピードが早いから、急ぐ必要があるのだよ。

 もうすでに、レジャー産業の大手グループ企業が察知したと言う知らせも届いている。長谷川さん、何とか首を縦に振ってはもらえまいか、お願いだ」

 拓也の方に上半身を捻り、弁護士の肩越しに頭を垂れて懇願したのは老いた町長だった。この小男は、誠実さを強調するためか、なかなか頭を上げようとしなかった。

 拓也は面倒臭そうに、背もたれから上体を跳ね上げると右手を伸ばし、小男の肩を軽く一つ叩き早口でまくしたてた。

「わかりました、あなたにお任せします」

 小男の顔が雀躍し、張りつめていた緊張感が一気に霧散した。

「ただし条件が一つ」

 拓也の一言に、今度は弁護士が身を乗り出した。

「あ、ありがとうございます。…して、条件とは…」

 猫の目のようにクルクル変化する弁護士の表情を見下ろしながら、拓也はきっぱりといい放った。

「僕が将来入学する予定の医大でかかる一切の費用を負担してください。例えそれがいくらであってもです。それ以外は一切必要としません」

「………、わっ、わかりました。

 それでは早速、契約書の内容を至急そのように修正するよう、検討させていただきます。いやー、賢明なご決断、ありがとうございました」

 この小男の弁護士が町と全町民の運命を掛けて挑んだ下交渉は、わずか十数分であっけなく片付き、その後しばらくの間、狭い密室は途切れがちなラジオの音声と天井やフロントガラスを叩く豪雨のハーモニーに支配された。

 いよいよ、低く垂れ込めた雲の中に頂きを突き刺した黒っぽい山々が近づいてきたとき、道の左前方に一件の木造家屋が浮かび上がった。

 クルマは滑らかに制止し、一行は拓也の車椅子を囲むように傘を寄せ合って団子状となり建物にかけ込んだ。

 そこは薄暗く、カビ臭い部屋だった。

 こんな日に、山麓の小さな診療所の待合いを埋める患者の姿などあるはずもなく、事情説明に走った中年看護士と応対する所長と思われる男の会話が、どんよりと響いき渡った。

 ほどなく、白衣をまとった白髪の老人が姿を現した。

「キミかね、…こんな嵐の中、ワシに話があるという人は」

 老人は窓に向かって顎を一しゃくりした後、なめるように拓也を凝視すると、待合い室の長いベンチに腰かけ、改めて拓也の双眼を覗き込んだ。

 与えられたタオルで頭髪を拭いていた手を休め、拓也はすぐさま老人に語りかけた。

「僕は十日…、いや二ヶ月前にひどいケガをして、一度ここに運び込まれたらしいのですが、先生は覚えていらっしゃいますか」

「ああ、覚えとるよ。キミがあのときの患者かね」

 老人は即答したが、驚愕の表情を隠すこともせず、大きく両目を見開いて口を半開きにしたまま、拓也の頭部や左腕、腹部のあたりを観察した。

「…よくもまあ、こんな短期間で治ったものじゃのう。いやー驚いた…」

 老人は身を乗り出して軽く目礼をすると、拓也の左側頭部の頭髪をかき分け、更に細かく観察を続けた。

「申し訳ないが、ワシャまだ半信半疑じゃよ。あのときは一目見て、これは助からんと思ったぐらいじゃからのう。

 確かに、ここにはまともな医療設備なんぞはないが、例え東京の大学病院でも、あの状態のキミをここまで甦生させることは不可能だったと今でも断言できる。まったく信じられん…」

 ようやく老人は両手を引っ込め、詫びるような仕種をした後、大きな咳払いを一つした。拓也は老人をまっすぐに見据えて言った。

「あのときは素晴らしい病院を紹介していただき、ありがとうございました。ついては、あの病院で僕がお世話になった島崎医師と笠井看護士についてお尋ねしたいのですが…」

 少し和みかけた老人の顔が、再び険しく凝固した。

「…シマザキに、カサイじゃと…?

 はて、あの病院はワシにとって裏庭のようなもんじゃから、知らん医師などおらんはずじゃが…。多恵さん、そんな人おったじゃろか…」

 老人は拓也の頭越しに、中年看護士に問いかけた。すぐさま看護士は返答した。

「いいえ。病室でも同じことを聞かれたんですが…。何かの勘違いか、記憶の混乱だと思いますよ」

「そうじゃな、あれだけの大ケガをされた後なんだから、多少の後遺症はむしろ当然と言える…」

「…………やはり…」

 拓也は力なくうなだれた。二人の消息のきっかけをつかむ最後のチャンスが消滅し、熱くなる目頭を押さえて更に深く頭を垂れた。

「…せめて、せめて笠井凛看護士だけでも…」

消え入るようなつぶやきとともに、身体を震わせた。

「…りん? 今りんと言ったのか…」

 老人の突然の一言に拓也は驚き、顔を上げた。

「凛という名の女性なら知っておるぞ。

 …しかし、しかしあり得んことだ。到底彼女には、キミの看護なぞできるはずがない。…キミは幻覚を見たのじゃよ。そうとしか思えない…」

「ど、どういうことですか?」

 老人は目をつぶり、ゆっくりと何度も首を左右に振りながら記憶を整理しているようすだったが、やがて双眼を見開くと、やさしく拓也に語りかけた。

「もう十年ほど前のことじゃ。

 東京の大病院に勤務する後輩から、『当院に勤務しはじめたばかりの見習い看護婦が、山村の小さな診療所に移りたがっている』という話があった。『二十歳前と思われる若い娘が、何を血迷ったことを言っておるのか』と思ったことを、よく覚えているよ。

 何でも容姿の端麗なお嬢さんだったらしく、その後、輩は半ば興味本位で相談に応じてやっていたらしんだがな、その理由はなんと『恋人と一緒に過ごす時間を増やしたいからだ』と告白したらしい。

『そんな、甘えた理由はありえんじゃろ』とワシは一蹴した。

『山村の診療所はどこも人手不足じゃて、そのくせ過疎化のせいで、看護婦の手間を要する老人患者の数は相対的に多い。むしろ東京の病院より大変じゃ』とな。

 それでもその娘は、生まれも育ちも東京のくせに、ここらの土地に親しみがあるから、どうしてもと譲らんかったらしい…」

 まだ腫れの残る拓也の目は涙に濡れたまま、口述を続ける彫の深い老人の顔を見つめていた。

「それで、彼女はどうなったのですか?」

 老人は先端に刻み煙草の詰まったキセルパイプを取り出して点火すると、おいしそうに大きく青白い煙りを一吐きし、続けた。

「結局ワシは根負けし、『まあ一週間もやってみりゃすぐ逃げ出すだろう』というぐらいの軽い考えで引き受けることにした。ごらんの通り山と森しかないこんなへき地だ、都会育ちの今時のギャルごときが暮らせる環境ではないからな。

 ところがなんと──、赴任する一週間前にオートバイ事故で亡くなったというから驚いた。しかもその現場はこのすぐ裏の峠道だと聞いて、ワシは腰を抜かしそうになった…」

 拓也は、充血した双眼から流れ落ちる涙をそのままに、硬直していた。もはや疑いようのない不可思議な確証が、脳中を何度もこだましていたからである。

 香織はあえて本名ではなく、〈凛〉という変名を名のった。母親の故郷であり、オレが大好きだったこの峠の名の一文字を…。拓也には、香織のそのけなげなユーモアが、なんとも哀しく愛おしく思えて仕方なかった。

 まだ痛みの残る全身を思いっきり車椅子から投げ出し、拓也は床に突っ伏して号泣した。驚き、呆然と見守る周囲の目もはばからず…。

 そのとき、拓也のズボンのポケットで、マナーモードに設定されたままの携帯電話が、めんめんと着信を告げていることに気づく者は、誰一人としていなかった──。

 遠く離れた大都会の片隅で、耳にめり込むほど受話器を押し当て、息子の元気な声をまだかまだかと待ち続けている母親が、医大の入学金に相当する額の保険金を残して命を絶とうとしていることにも、…気づく者はいなかった。

 その母親が、拓也の学費を肩代わりしてもらうために、以前、自身にとって断じて恋愛の対象とはなりえない「島崎」という初老の資産家との再婚を画策したことも…。

 そして、晴れて医師となった愛する息子がその恋人と一緒に、自身の生まれ故郷である雲凛院峠の、自然に囲まれた田舎町の小さな病院で、仲むつまじく働くことを夢見ていたことにも…。


 気づく者は、誰もいなかった…。

                                           《完》


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