第7話 神の空間
白く白く、すべての純白が眩い。この白すぎる空間に地面があるのは間違いないのだが、一見すればまるで永遠の延長を続けているような錯覚に陥ってしまう。ここは、ある神の空間だ。その中に、ぽつんと木の椅子と机が置かれている。両方とも、重々しい黒みがかった色をしている。机の上には書類とインク瓶があって、インク瓶には無造作に羽根ペンが突っこまれている。
そこに、三十代ほどの女が突如として現れた。
知らぬ間に女神と呼ばれていたその神は、名をアークと言った。見窄らしい水色の長髪と、庶民と変わらない老けた顔をしている。アークは、女神と言っても到底信じてもらえないような自身の貧しい容貌に、納得がいっていなかった。化粧を試したり、シワに効くと謳われるものを片っ端から試したりと努力はした。だが、全く効果は見られなかった。ついこの間には、幾分顔が良く見えるかと背中に羽衣を纏ってみたりもしてみたが、その意に反して羽衣は、アークの見窄らしさを引き立ててしまった。どうも華やかさはアークには似合わないようだった。
アークは鏡を取り出してため息をついてから、鏡をしまってまた取り出してを数回繰り返し、またため息を吐いた。唇を噛んだ後、懐からよれよれになった革の袋を取り出す。中身を机に開けると、濁った金色の硬貨が、音を立てて飛び出した。アークは頬筋を力づくに上げ、投げやりに嘲笑した。
「今日も信者から沢山の金貨を巻き上げたわ。信者も馬鹿ね、私の魔法に騙されてるとも気づかずに。クスクス」
アークは容姿の改善を保留し、魔法で人々に幻影を見せていた。誰が見ても美人と言うような、そんな理想的な姿に成りすますことにより、信者を集め、金を貢がせていた。
アークは山になった金貨を見つめる。しかし、浮かべる笑みとは裏腹に、彼女の心は全く満たされていなかった。イカサマは心を蝕んでいた。
声がした。
「神よ、なぜ嘆息する?」
アークの背後に、中間者が立っていた。両肩のそれぞれに、エロスとタナトスを浮遊させている。アークは汗の粒を浮かべながらも、平静を装い答えた。
「神はため息をついたりしないわ。私たち神は、人々に笑いかけることが仕事なのよ」
中間者は嘲笑した。
「なるほど。人々に笑いかける、か。どうやら、八百長の笑いは余程高くつくようだな」
中間者は見下した笑みを浮かべながら、アークの背後、金貨を指し示した。
アークはとんでもない汚点を見られた気がした。慌てて金貨をすくい取り、革袋に注ぎ入れる。数枚が溢れて転がり、そのうち一枚が、中間者の足元で止まる。
中間者はエロスに金貨を拾わせ、それをまじまじと眺めた。
「かなり汚れている。人々の手汗、手垢。よほど強く握りしめていたようだ」
「それがどうした」
アークは威勢良く言ったものの、中間者に目を合わせられると咄嗟に目を逸らしてしまう。
「それがどうした、と? 腑抜けが。お前の信者は目が潰れている悪だが、お前は頭が潰れている悪だ。道徳の『ど』の字も分かっていない」
鋭く飛んだ声に、アークは怯んだ。
「まず、お前は自分の身分が分かっていないようだ。私はお前達を便宜上神と呼ぶが、実際お前達は神などではない。お前達は全知全能でもなければ、善でもなく、また隣人に愛を与えることもないではないか。あの不完全な神にも及ばないお前達を、誰が神と呼べようか?」
アークは目に怒りを灯した。
「私が神でない? そんなはずないわ。私は人々に神と呼ばれ崇められている。私は彼らに作られた存在よ。彼らが私を神として作ったのだから、私は絶対に神。間違いないわ」
アークは熱を込めて訴えたが、中間者はまるで憐れむように首を振る。
「残念だが。お前の言っていることは真実ではない。お前を作ったのは別の存在だ」
アークは驚きと疑いの入り混じった目を向けた。
「別の存在? 彼らではなく?」
中間者は満足げに肯首した。
「そう。彼らなどではない。彼らには力があるが、彼らではまだ足りないのだ。お前を作ったのは、それよりも絶対的で自惚れた存在。そう、他でもない、<神>だ」
アークは拍子抜けしたと言わんばかりに肩をなでおろす。
「カミ? つまり、あんたは私が私を作ったと言いたいの?」
アークのその発言は、中間者のみならず、エロスとタナトスまで失笑させた。アークは訳が分からず困惑する。
「面白いわね。お前は自分で自分が作れるとでも言いたいの? ああ、おかしい、こんなおかしなこと久しぶりに聞いた」
中間者は打ち解けたような柔らかな表情で笑っている。
「でも、あんたカミって言ったわよね?」
「確かに言った。しかしそれはお前のことではなくて、また別の存在のことだ。お前は気付いていないのだろうが、この世界はその<神>によって作られたのだ」
「つまり、私もこの世界が作られると同時に、その<神>に作られたってこと?」
中間者は頷く。
「お前達は神として<神>に作られた。しかし<神>は、お前を神として見てはいない。さっきも言った通り、お前はかの愛の神にも及んでいないのだ」
アークはやはり納得できないようだったが、今度は眉をしかめるだけで反論せず、静かに話を聞いている。
「お前は確か水の神だったと思うが。お前はその時点で、神の冠を外している。気付いていたか? できない事のある神など神とは言わない。お前達は、特殊な力を持った人間だ。それ以外の何者でもない。ただ道具として、神の名を付けられているだけなのだ」
アークが定まらない瞳で中間者を見た。
「私が、人間?」
中間者は頷き頷く。
「そう、人間だ。お前が金を巻き上げていた、信者たちと同じ人間だ。さて、話が戻ってきたな。お前の行っていること全てについて話そう」
中間者は口角を吊り上げ、金貨を見せつけた。
「お前の愚行を挙げていこう。まず一つ。お前は自身を神だと偽り、人間の目を潰した」
中間者が金貨を真上に投げ上げると、金貨は真っ直ぐに上がり、真っ直ぐに下りてきて、そのままタナトスの口に入った。タナトスは美味しそうにそれを頬張り、飲み込む。
「私に非は無いわよ。人間が勝手に私を拝むだけだわ」
アークは不服だと言わんばかりの表情を浮かべた。
「では、二つ目。お前は人間の若者を殺し、都合の良いように利用している」
「私は殺してない。死んだ子どもにもう一度チャンスをあげているだけ」
中間者は呆れたと首を振る。
「では三つ目だが、なぜお前は若者ばかり助ける? 老人はどうだ? 人生をやり直したい人は多いはずだ
ろう? まだ働き盛りだった大人は? これから積み上げていくはずだったものはどうなる? 流産で死んでしまった胎児は? 奪われた未来はどうなる?」
アークは、眠りから覚めたような目で中間者を見た。
「恥ずかしい話だけれど、考えたこともなかったわ」
「まだある。少年は少年でも、飢餓で喘ぎ苦しんだ末に死んだ少年はどうなんだ? 奇形の少年は? 障害を持った子供は?助けないのか? 神と自称する存在が!」
アークは体を震わせた。今までなぜ頭にそのことが浮かばなかったのか、まったく不思議でならなかった。
中間者は、哀しげに笑う。
「ああ、お前は人間だ。だが、悲しいかな、お前は人間だが人間でないかもしれない。お前の思考は、まったく自由でなかった。束縛によって、思考が狭められていたのだ」
誰が束縛していたのかは、わざわざ言わなかった。
「お前の存在によって多くの若者が夢を見たが、その中に闇は一切なく、血もなく、争いも結局はファンタジーだ。闇という名の光と、血糊と、悪を自称する悪と、そういった悦楽が世界にもたらされ、盲目的な理想論者を生んでいる。彼らの目は潰れた。手探りでしか前に進めない」
アークは彼女の言っていることが全くと言っていいほど分からなかったが、適当に唸っておいた。
「で、結局、あなたがここに来たのは私に説教をするため? それだけならもう用は済んだんじゃない?」
中間者はタナトスをちらりと見て、話を続ける。
「『説教』はもう一つある。お前の死生観の狂いだ。狂気的で、死を笑う。死を笑いの手段としたのは<神>だが、死を笑ったのはお前の意思だ。違うか?」
アークは俯く。
「……そうよ。たぶん」
「だとすれば、由々しきことだな。死は一度しか訪れず、肉体は物と化すのが理だが、死そのものは崇高なものだ。死を笑う、お前の行為は罰せられて然るべきである」
中間者が片手を挙げると、タナトスは身震いし、狙い定めるようにアークを睨んだ。
捕食の態勢。
アークは自分の最期を悟る。細い目に涙を浮かべて訴えた。
「なぜ、なぜ私が死ななければならないの?」
中間者は見下すように冷笑する。
「なぜか? 答えるまでもない。不死と唄われるお前たちにも、死は忍び寄っていた、それたけだ。死はあらゆる瞬間に可能である」
アークはさっと青ざめる。
「死を笑う神よ、神と名付けられた人間よ。あるいは、人間になりきれなかった存在よ。お前は、死ぬべきなのだ」
瞬間、中間者が手を振り下ろした。
タナトスが電光石火の勢いでアークに飛びかかると、アークの首がまずもがれる。次に胸のあたりが食い散らされ、心臓に行き着くと、白い歯が鋭利に食い込み、袋が破れた。血が一面に華を咲かせ、白を完全に塗りつぶしてしまった。
タナトスが食事を続けるなか、中間者は喜びに胸を満たす。そして大きく息を吸って、紅く染まった白にこう宣言した。
「私はダイナマイトではないが、ここではあえてこう言おう。神は死んだ! 神は死んだ!」