第3話 井の中の蛙
舞台を独占し先導し、観衆を魅了す歌手を気取ったその蛙は、深い井戸の底で鳴いた。その鳴き声の、なんと酷いこと。歌とも言えぬ雑音、よもや耳を害する騒音。しかし蛙はそれに気付かない。ただただ満足げに、その狭い井戸の中で、自己に恍惚として鳴く。鳴き袋を膨らませ、泥水に半ば足を突っ込んで、自己に恍惚として鳴く。自己に恍惚としながら、足は少しずつ、しかし着実に吸い込まれていく。
一方で井戸のへりには、あの少女が座っていた。いつものようにエロスとタナトスを付き添わせ、蛙の公害を下衆にやる表情で聴いている。エロスとタナトスの方は、耳を球体の中にしまって身震いしていた。
「ひどいものだな」
少女は蛙に聞こえないよう呟く。
「聞くに堪えん」
少女は吐き捨てるように言って立ち上がったが、少し考えて、ため息を吐き、振り返って、井戸の中を覗きこんだ。
「おい、蛙」
蛙は飛び上がって鳴き止んだ。
「空に人がいる! 空に人がいる!」
真剣に驚いているように見える。
「あなたは一体誰なのですか?」
少女は答えた。
「お前はそれを知る資格を持っていない。だがこれだけは言っておこう。私は私を中間者と呼ぶ」
蛙はぽかんとして、それからゲコと鳴いた。
「中間者さん。僕の歌を聴いてくださいよ」
少女は少し嫌そうな顔をしたが、承諾した。蛙は息を吸い込み、自信たっぷりに歌い始める。だが、鳴き声はやはりひどかった。
歌が終わって、少女は尋ねた。
「蛙。お前はいつからそこにいるんだ?」
蛙はゲコリと鳴く。
「生まれてからずっとですよ。居心地のいい場所です。そっちはどうなんですか? 空は良い場所ですか?」
それを聞いて、少女は静かに笑い始めた。蛙は不審そうに鳴く。
「良い場所か? 面白い質問をするのだな。そんなわけないだろう。『空』は神と<神>に毒されている」
蛙はゲコッと鳴く。
「どういうことですか?」
少女は羨むような目で蛙を見た。
「お前は恵まれているということだ」
ここで蛙は『空』に行ってみたくなり、少女に引っ張り上げてくれるよう頼んだ。
しかし、少女は首を振った。
「『空』に来てはいけない。お前は知ってはいけない。もし知れば、お前は太陽に干からび、踏みつけられ、大地にその身を滅ぼすだろう。来てはいけない、まだ仮面をつけるときではない。盲目の蛙よ」
蛙は飛び出た目を丸くした。蛙はしばらく黙っていたが、やがて肯首した。
「分かりました。歌を聴いてくれてありがとう」
少女は井戸から立ち去った。井戸の周りは全方位を道路に囲まれ、群れる自動車が円形の排気を描いていた。エロスが聞いた。
「彼に真実を告げなかったのは? 彼はただ井戸の中にいるだけだと、教えてあげれば良かったのに。焦らしプレイか?」
少女は答える。
「真実を告げれば、蛙に目が出来る。目が出来たその瞬間、彼の歌も、心も、永遠に失われてしまう」
「いいことじゃねえか、ひひ」
タナトスが言う。
「いいこと? 仮面を必要とすることが?」
「ふふっ……生き残るにはそうするしかない……だろううぅうう?」
少女は、それに対しては頭を振ったのみで、何も答えなかった。旅は続く。