水妖
ふいに、空気が変わった。大気に水のにおいが強く混じる。泥と、雨と、水草の、冷たく懐かしい匂い。
周辺が、霧が起ち込めた様に白く煙る。ロキが警戒したように緊張を含んで動きを止める。
「来る、か?」
「うん」
ロキは、姿を現したその生き物を、哀しげな目で見た。
見た目はカワウソに似ている。
大型犬よりもわずかに大きく、小型の馬より小さい。
「子供を殺したのは、アンタ?」
「聞くまでもなかろう」
ロキの問いに答える獣の声は、しわがれ、老人のように聞こえた。
「俺さ、アンタ、殺さないといけないんだ」
「そなたの事は聞いている。この流域の水源を守る、谷城の当主だそうだな」
「今は、違うよ。もう、俺の一族の土地じゃない」
「そして、覇天の守り人だと」
ロキは、きゅっと唇を噛んで俯く。
大槻はそのやり取りをハラハラしながら聞いていた。ロキが動揺している。水妖は、何が言いたいのだろう。
「巣には、神から賜った宝玉があった」
水妖の声に、ロキがはっと顔を上げる。
「踏みつぶされ、壊れ、持ち去られてしまったがな」
「ごめん。謝って済むことじゃないけど」
「人も、謝罪などするのだな」
水妖は瞠目して頭を下げ、再びロキを見た。
「我は、この地の水質を守ってきた。
川水は毒を含み、腐敗し、水源から送られてくる清き水も減った。
我が被毛を見よ。このように薄汚れ、わが身も穢された。
それでも、そなたの一族の守りを支えに、必死に使命を全うしようと働いた。
それに対する報いが、これか」
ロキは言葉無く立ち尽くし、無言のまま泣きそうな目で水妖を見た。
「不平や泣き言を漏らすなど、我ながら情けないにも程があるな。
御当主よ、頼みがある」
水妖の言葉に、首をかしげて言葉の先を促す。
「頼みというより、取引、か。
そなたと、そこで身を隠しているそなたの眷属二人に、我が呪いを受けてもらう。呪いと言っても、命に関わるものではない。
それで、遺恨と報復の因果を断ち、この身とこの命、そなたにくれてやる。
どうだ?」
ロキの背後に、エンとレヴィが姿を現した。彼らもまた、主同様沈んだ表情を浮かべている。憂いているのは、呪いを受ける事より、水妖の心情だろう。
「アンタ、それでいいの?」
「やがて、我の代わりにここの水を護る者が創られるだろう。
身の腐敗は、心をも侵食する。
我は、な、何より、これ以上、性根まで腐っていくのには耐えられぬ。
ヒトを恨むのも、もう、疲れた」
ロキの脳裏に過ったのは、現在は自らの眷属となっている、この流域の水源を護る天狗であった、清羅の事。
谷城の家に入り込んだ、神であった曾祖父が、一族の守護してきた土地を他者に売り渡し、豊かな森が宅地として造成されると共に力を失い、聖域を汚染され、人を愛しつつも恨みを抱いてしまう自らを責め続けて苦しんでいた。
ロキは視線を落とし、すん、と鼻をすすり、再び水妖をみた。
「わかった。いいよ、アンタの呪いをもらう。
アンタの今までの思いのほんの少しでも、俺の中に残していって」
「ロキ」
大槻の制する響きを込めた呼びかけを無視して水妖の前に立つ。
「呪いは我が消えた後、徐々にその姿を現すだろう。
さあ、一思いにやってくれ」
ロキは周囲を見回して深く息をし、水妖に微笑みかけ、湿地に膝をつき、凛と背筋を伸ばして正座した。
「ここ、いいとこだね。すごく気持ちがいい。
今まで、護ってくれてありがと。ほんと、ごめん」
カワウソに似た生き物は、地に両の手をつき、深々と頭を下げたロキを見下ろしてじっと立ち尽くし、すっと天を見た。
「そう言ってもらえると、わずかながらも報われた思いがする。
もう少し早く、そなたが御当主となられていれば。もう少し早く、出会えていたら、な。
次の水守は、きっと我なぞより良くこの地を治めよう。では、これにて」
頭を下げる黒ずんだ妖を、静かに、紅蓮の炎が包む。
焔の中で、黒い影が崩れ、灰塵と化して消えた。
ふいに、ポツリと葉を、川面を叩く音を軽やかに響かせ、雨が降り出した。
晴天のまま雨雲もなく、次第に雨脚は強さを増し、柔らかな水が天から落ちてきた。さああ、と、降り頻る雨に打たれた地面が薫る。大気を、草を、跪いたままのロキを洗い、降り始めた時と同じく、唐突にその雨は止んだ。
夜明けの風が吹く。
全てを目覚めさせるような力強さを含んだ風が、濡れたロキの髪を揺らす。
水妖の遺した灰塵が過ぎ去ったあとには、淡い水色の花が一斉に咲き乱れた。
昇ってくる太陽の一閃。雲が虹色に煌めく。星は消え、薄紅から水色に変わっていく空を、海鳥が横切っていく。
新しい、朝が来た。