暁天
水妖が現れたのは、夜でも朝でもない時刻、明け方だった。
頭上の空は深い紺色を残し、星が瞬き、東の水平は薄紅に染まり、遠く水平の上にかかる灰色の雲は下半分を茜色に朝日を返し、大気は淡い紫。
穏やかな空気の流れが、磯の香りと、ざああ、という潮の響きを運んでくる。
ロキはその空気を胸いっぱいに吸い込んで伸びをした。
「いいねえ、あったらしい朝が来たって感じだね」
同行した大槻は、眠気に欠伸を噛み殺し、ロキに倣って深呼吸をした。
数か月前、ロキが実の曾祖父である神と対峙するまで、人類は地球を離れ、月と火星に移住するより他に、絶滅を回避する道はなかった。そうなれば当然、この景色とも永遠に別れなければならなかったはずだ。
かけがえのない、生命を育む水の星。青い宝石。惑星、EARTH。
こうして明け方の空気の中にいると、なおの事、現状が奇跡のように思える。
大槻は、清々しそうに辺りを窺うロキを、複雑な思いで見た。
ロキは他者と比べるまでもなく、争いごとを嫌う。自らの眷属同士のちょっとした言い合いでさえ、すぐに遮ろうとする。
以前、妖魔を倒したくない、と言った事もあった。
妖魔とて必要があって存在しているのではないか。人にとって邪魔だからという価値観で、その命を奪ってもいいのか、と。
ある時、ロキは、こうして戦わなくてはならないのは、贖罪なのだと言った。
彼の曾祖父である神が、人類を滅ぼそうとして放った魔獣たち。その尻拭いとして。
曾祖父は、自らの孫にあたるロキの父親を操って幼い彼にひどい虐待を加え、ロキの命でさえ取引の材料として利用し、邪魔になれば奪おうとさえしたというのに。
神を恨んでいるか、と問えば、おかげで眷属たちとも会えたし、と笑う。
世界は広く、魔獣の数は依然として多い。地球上の人口は、ロキと神の対峙以前と比べれば幾分穏やかになったとはいえ、徐々にその数を減らし続けている。
その、失われた数十億の命の責任を、本来、繊細で優しすぎる少年が、一人で負おうとしている。
人と言い切るには神の遺伝子を濃く持ち、かといって決して神ではなく、人を守りたい思いと責任感は強く、けれども、妖魔の命を奪う事も躊躇う。
彼こそが、どちらでもあり、どちらでもない者なのかもしれない。今回のケースのような場合、特にその思いは強くなる。
今回、対峙する妖魔は、自らの縄張りを定めていた。
その場から出る事もなく、ただ、踏み込む釣り人などに悪戯をした。
釣竿からテグスを切って針を奪い、餌に喰らい付く魚を逃がしてしまう。時には、人の目を盗んで、荷物を川に落としたりもした。
その警告に従い、距離をとってさえいれば、充分に共存できていたはずだった。
地元の小学生数人が、そのなわばりに踏み込み、巣を見つけてしまった。
子供たちは、遊び半分で妖魔の巣を壊し、威嚇の咆哮をあげた妖魔に、石を投げて怪我をさせたという。逃げ遅れ、捕えられた九歳の男の子は、翌日、近くの巨木に、変わり果てた姿で吊るされていた。
惨殺され、見せしめとしてその死体を曝された子供の両親をはじめ身内の者たちの心情を思えば、同情の気持ちも湧く。
が、やはり、近づきさえしなければ済んだのに、という考えが過ってしまう。
今回の妖魔は、やられた事をやり返しているだけなのだ。それでも、人は妖魔の存在を疎み、死を望む。片付けるのは、大槻達の仕事。ロキのよく口にする台詞そのままの心情、
「公務員も辛いよ」
というわけだ。
「髪、伸びたな」
大槻に言われて、うん、と笑って応える。
ロキは髪を伸ばしていた。以前は前髪を眉に、サイドが耳に掛かるくらい、襟足は短くしていたが、今、後ろ髪はうなじを隠して肩に掛かる長さがあり、束ねてまとめてある。
これは、眷属たち、主に、清羅の助言に従っての事。
髪は生命力の証。妖力を纏う。なので、魔族は基本的に髪を切らない、という。実際、人間であるロキにどれだけの効果があるのかはわからない。けれど、魔族と対峙し、死線に近くある者としては、僅かなジンクスにでも擬えておく方がいい、という事か。
顔のラインに沿ってこぼれた後れ毛の合間からは、眷属たちの証である宝玉をはめ込んだピアスが煌めく。
アンティークな印象のそれは、シンプルで然程変わったデザインではないが、じっと見つめると惹き込まれるような、威圧を感じるような、不思議なオーラを放つ。