河口(2)
立ち止まるロキの傍らに立ち、見回すと、そこは一層凄惨だった。
水辺には魚の、水鳥の、何かの獣の死体が浮かび、泥まみれのパサついた被毛の塊に、薄汚れた漂白剤の容器が引っ掛かっている。
一面、死を思わせる光景ばかり。命の欠片すら、見つける事はできそうもない。
「たった二週間で、こんな」
口元を抑えたハンカチ越しに、思わず声が漏れた。
ロキがあの日、水妖に「ここは気持ちのいいところだ」といった意味が、改めて胸に浸みる。
確かに、あの時この場所は、上流から流れてくる家庭排水に汚染されながらも、清浄な空気と命の営みに満ちていた。
ロキの横顔を窺うと、強張った、青白い頬でじっとその光景を見ていた。
ふいに、背後の枯草が揺れた。
びくりと振り向くと、六〇代前後と思われる男が、厳めしい顔で立ち、ロキと大槻を不審そうにじろじろと交互に見た。
「こんなところで、何をしている?
立ち入り禁止の看板をみなかったのか?」
「すみません、ちょっと、思い入れのある場所で。
少し前に来た時と、ずい分変わってしまって驚いていたところです。
何か、あったんですか?」
ジェーナホルダーの身分を明かすわけにはいかない。
大槻は、ふらりと立ち寄った一般人を装って、できる限り親しげに声を掛けた。
その目論見が成功したのか、男性はふっと肩の力を抜き、近づいて来た。
「人を襲う怪物が出たんだ。
役所は退治したって言っているが、怪しいもんだ。
その後も調査だ、なんだって見に来ているし。
だいたい、この様子を見れば、誰が見たってわかりそうなもんなのに、奴らは仕事で楽をする事ばっかり考えていやがる」
「それは、どういう」
内心の怒りを極力出さぬよう、大槻は訊いた。
男性は、心底バカにするように、得意げに愚痴をこぼし始めた。
「ここの土も水も腐っていやがる。
化け物の仕業以外に考えられねえだろ。
ひどくなるばっかりなんだ。まだ化け物が悪さしているのさ。
俺は、この近くの団地に住んでいるんだが、臭くてかなわねえ。
ここの上流にダムと浄水場を作って、ちゃあんと治水すりゃ、水だってきれいになるって、ずっと言ってやっているのに、役所のバカどもはわかってねえ。
てめえらの給料の心配と、見当違いの無駄な税金、遣うばっかりだ」
ロキが、男から視線を逸らすのが視界の隅に見えた。
わかっていないのはあなたの方だ、と、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「まあ、少し前ならともかく、そんな若いねーちゃん連れ込むのには、こんなとこ、さすがにムードが無さ過ぎだろう。
また化け物に襲われでもしたらつまんねえし、他、行ってやるこった。
恨むならここをこんなにした、怪物を恨むんだな」
冗談のつもりなのか、下卑た笑いを残して、男は去っていった。
胸が締め付けられる。
怒りと、不快感と。
拳を握りしめたまま立っていると、ロキが動いた。
声も出せず、掛ける言葉も思いつかず、ただ、その動きを見守った。
ロキは、数歩進み、汚泥に跪き、枯草を分けはじめた。
大槻が背後に立ってその手元を見下ろすと、やがて、動きを止めた。
ロキの指先辺りには、くすみながらも、以前青い色の花であったものの残骸。
冬枯れた草が折り重なって積り、早春の若葉を寒風から守るように、小さな黄緑色の葉があった。
「ごめんなさい」
ロキは、かろうじてそこだけ乾いて白さを残す地面に両手をついた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
頭を下げ、嗚咽に震える少女の声でそう繰り返しながら、泣いた。
大槻は堪らず、しゃがみ込んでロキの両肩を抱いて体を起こした。
「ロキが謝る事じゃない。
ロキは、悪くない」
「けど。けど、どうすればいいの?
このままじゃ、世界が終わっちゃう。地球が死んじゃうよ。
水妖は頑張ってくれていたのに、あんな事いわれて。
俺の、せいで。俺が、殺した」
「ロキのせいじゃない!」
泣きじゃくるロキを、強く抱きしめた。
どうすればいいかなんて、大槻にもわからない。
ロキの曾祖父である神が、妖魔を実体化させたのがきっかけではある。
けれど、遅かれ早かれ、いつかはこんな風に、命の連鎖から切り離され、生命を維持しきれない場所が増えていたのだろう。
人の傲慢さが招いた災禍。
人がこの地球からいなくなればいいのか。
どう足掻こうとも、緩慢に、着実に、滅びに向かっていく他、道はないのか。
全てが手遅れで、どの選択も不正解なのか。
ただ、今、腕の中で慟哭する少女には、なんの罪もない。
せめて、そうあって欲しい。そうでなければ、あまりにも救われない。




