日々
翌朝のミーティングの席で、ロキから職員たちに小さな袋が配られた。
中には、昨日作ったクッキーが三枚ずつ入っていた。
ロキは、早速口にした職員たちから口々に褒められ、頬を染めて恥ずかしそうに笑っていた。
さらに数日後、ロキとエンは食器やキッチン用品をいくつか買ってきた。
ロキも満足そうだし、やはり、エンはかなり上機嫌だった。
「弘法、筆を選ばずって言うけど、やっぱり、道具はいい方がいい。
今日は焼き魚にするから、買ってきた平角皿使おうぜ」
ロキはにっこりとうれしそうに頷く。
部屋を訪れていた大槻と薗田に、この包丁、みて、と手招きする。
「これだとさ、野菜とか、硬い物でも、力を入れなくても、すうっと簡単に切れるんだって。
トマトも汁が出ないし、タマネギも目が痛くなったりしないって。
素材とか、職人の技とかがすごくて。
店員もさ、すっげえいろいろ知っていて、質問するとなんでも答えてくれるんだ。
正直、値段も安くはなかったんだけれど、頑張って修行してきた職人も、包丁について一所懸命勉強している店員も、ちゃんと評価したいって思った。
最上級の物ばかり買うわけにいかないけど、いいものは、そうして残って欲しいし、買い物って、俺がいいって思っている事を伝える方法でもあるんだね」
興奮気味にそういいながら、そういえばさ、と急に不機嫌そうになる。
「エンが包丁を買おうとしていて、お……じゃなかった、私、も、いろいろ質問していたのね。
すげえなって思って。
そしたらさ、元気なお嬢ちゃんだねって、お嬢ちゃんは、御嫁入りの包丁を揃えるのはまだ先みたいだねっていうんだ。
言葉遣いが荒かったからみたいなんだけど。
なんかさあ、失礼しちゃうと思わない?」
そんなロキの言葉に、どう反応していいのかわからず、大槻と薗田はほぼ同時に困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
ロキの日記。
『今日はお皿とか包丁とかを買った。
なんにでも、職人さんって、いる。
ガラスも、陶器も、漆器も、鉄瓶とか耳かきとかも。
代々技術を受け継いでいくとかそういうの、すごくいいな。
ひたすらにそればっかりやって、じいちゃんになって、それでも、自分はまだまだだって、そういう域で。
引き継げるものを持っていないせいか、すごく憧れる。
いつか、なにかのプロになって、カッコよくなりたい』
その日は、雨が降った。
さあさあと、穏やかにいつまでも降り続く雨だった。
本部施設内も、どこか緩慢に、職員それぞれがゆるゆると作業をしていた。
しんみりと静かで、廊下の先が昏く、遠い。
軒から落ちる雨粒の、タチ、タチ、という音さえ聞こえそうな、異空に紛れ込んだような不思議な空気に包まれた日だった。
午後二時近く、大槻はロキを訪ねた。
なぜかノックの音を響かせるのも躊躇われて、いつもより静かに扉を叩いた。
と、やはり、そっと開けられたドアの向こうで、清羅が微笑みながら、人差し指を立てて唇に当て、「お静かに」と伝えてきた。
足音を忍ばせて入った室内は、甘い香りに満ちていた。
馴染みはないはずなのに、せつないように懐かしく、愛おしい。
幼児特有の体臭。
ダイニングテーブルの向こうで、エンが手を挙げて大槻に挨拶をし、目の前のさやいんげんの小さな山から、一つとって筋を引く。
エンと清羅で向かい合っていんげんの筋取りをしていたらしい事がわかる。
窓辺に寄せたダイニングの椅子には、レヴィを膝に抱いたロキが座り、大槻と目を合わせて微笑むと、ガラスを伝って落ちる雫に視線を向けた。
僅かに体を前後に揺すり、小さな声で歌っていた。
聞いた事のない曲だったが、雨がどうの、という歌詞の童謡らしかった。
やわらかな澄んだ声のリズムに合わせてロキが揺れるたび、くったりとロキに体を預けたレヴィがとろんとまぶたを落とすのがわかる。
その椅子の足元には、白黒の若犬が、並んで丸くなって眠っている。
大槻は、忘れていよう、と思った。
そう思って、どうしても浮かんできてしまう考えを必死に打ち消した。
彼らが、壮絶な力を持つ戦士たちなのだと。
時に惨忍に、冷徹に、妖魔の命を奪い、人類の命運をすら握っているのだと。
彼らは、戦いも、誰かを傷付ける事も望んではいない。
眷属たちは、ロキに従っているだけ。
その主のロキは、本来、こんな静かで穏やかな日々こそ似合う。
彼らに課せられた使命も、人類の期待も、凄惨な戦場も、今だけは忘れていよう、と、思った。
ロキは、何を思うのだろう。
窓の外は、ただ静かに、雨が降り続いていた。
その日の、ロキの日記。
『今日は雨で、本を読んだり、食材の下ごしらえをするエンを手伝ったりした。
雨が降ると、水妖を思い出す。あの時も雨が降った。
水妖は、恨んでいるかな。
人は、人のために働く妖魔に悪い事ばかりをする。
私も、知らなかった頃は、無意識に水や空気を平気で汚していた。
知らないのに恨まれるのは、ちょっとかわいそうと思う。
知らないのに、無意識で悪くされる妖魔は、もっとかわいそうだ。
人の事だけじゃなくて、エンやレヴィの事も、恨んでいないといい。
呪いなんて、私だけでよかったのに。恨むなら、私だけで。
やっぱり、恨んだりすると気持ちが悲しくなるから、水妖がもうかなしくならないように、誰も恨まない方がいい。
水妖だけじゃなくて、誰も、誰の事も、恨まない方がいい』
窓際のカラーボックスと、キッチン近くの小さな花瓶に、白く小さな野菊が活けられている。
ロキと散歩に出かけたレヴィとアキ、フユが摘んできたのだという。
その後、ロキの日記には、買い物に行ったらお菓子を一つおまけしてもらった、エンにダシのとり方を教わった、果物がおいしく感じる、などと綴られた。




