指先
翌日、一通りの事務処理を終えた大槻は、ロキの部屋を訪れた。
清羅に招き入れられると、甘い、焼き菓子の香りに満ちていた。
バターとバニラエッセンスと、小麦粉の焼ける匂い。
ロキは、身に着けた三角巾とエプロンがどこかしっくりと来ず、調理実習のような初々しさで清潔感があり、真剣な眼差しに好感が持てた。
第一陣はすでに焼き上がり、オーブンには次のクッキーが熱せられ、ダイニングテーブルでは子供たちがクッキーの生地に型を押し付けている。
「大槻さん、みて、ぼくが作ったの。くるまだよ」
「ぼくのもみて。ほら、木のかたち」
「ああ、上手にできているね」
大槻に褒められて得意気な表情を浮かべ、再び型を選び始めたアキフユを横目に、ちょうどオーブンから天板を取り出そうとしているロキの側に立つ。
ロキが、一緒に庫内を覗いていたエンに問いかけるように視線を向けると、笑顔で頷いて返す。
焼き上がっている、取り出して大丈夫、という合図なのだろう。
たどたどしく、おそるおそるといった風に、クッキーが並んだ鉄板を運ぶ。
「あっつ」
ロキは天板を取り出すために使った取手を外そうとして、また熱い鉄板に指が触れてしまい、弾かれるように驚いて手を引いた。
大槻は咄嗟にロキの手をとり、水道をひねって流れ出る水に差し入れた。
「大丈夫か?」
呆気にとられるように大槻を見上げるロキにそういうと、俯いて小さく頷いた。
「ヤケドが残らないといいんだが」
「あの、大槻さん、もう大丈夫なんで」
「いや、ちゃんと冷やさないと」
しばらくそうしていて、水を止め、ロキの手首を離してタオルを渡した。
水滴を拭った指先は、ほんのり赤くなっていたが、自ら触れたロキは、
「ちょっとだけチリっとするけれど、すぐ治まると思う」
と、大槻に頭を下げた。
さらに何か言いかけて、心配したエンや清羅が近づくのに気付き、はっとして言葉を止め、
「大槻さん、よかったら味見して。
一回目に焼いたのは、もう冷めて来ていると思うんだ」
と、慌てたようにその場を離れた。
ロキの日記、二ページ目。
『今日は初めてクッキーを作った。
エンは、クッキーはとても簡単だと言っていたけれど、すごく時間がかかって、思っていたより面倒で大変だった。
チビたちが張り切って、楽しそうに手伝ってくれた。
大槻さんが、お店で売っているものよりずっとおいしいと言ってくれた。
あと、指をちょっとヤケドした。
大槻さんが、ロキは大事なんだから気を付けてくれと言った。
そういう風に言われると、今でもびっくりする。
いつか、自分が誰かに必要とされている事に驚かなくなるのかな』
「でも、これは、男とか女とかは関係ない、か」
書き終えて、読み返して、その日の事を改めて思い出していた。
大槻がロキの手首をつかみ、流れる水で冷やしてくれた。
ショッピングモールの雑貨店で、見知らぬ男に手首をつかまれたときは、すごく怖かった。なぜあんなに怖いと感じたのか、わからないけれど。
大槻は、怖くない。
今、いつもより背が低くなっているせいで、ふと近づいたとき、大槻が大きく見えるな、と思っていた。
「やっぱり大槻さんの事も、ちょっとだけ怖いって思っちゃっているのかなあ」
すっかり痛みの消えた指先に触れ、小さくつぶやく。
あの、ショッピングモールの男とは、違う感じだけれど。
胸がずきりと痛み、コトコト鳴って、緊張しているみたいな、変な感じがしてしまう。
危害を加えるわけでない事は、わかっているのに、こんな風に緊張したりするのは、なんでなんだろう。




