幻魔
ロキの故郷、眷属の風魔、清羅が守護していた山を水源にもつ河川の河口近くで、子供が襲われた。目撃情報などから、妖魔の仕業とされた。
職員はみな、いつも通り、歴史や伝承を調べ上げ、決戦に備えて周辺の地理などを把握し、余念なく準備した。
その河川は、潮の満ち引きにより、海水が逆流する感潮河川。
ロキの眷属の一人、最強の魔獣と謳われる、海龍、レヴィアタンは、水妖の一種だろう、という。
「どちらでもない、という場所に住まう魔族は、幻術を使う場合が多い。
今回の状況から見ても、その類のモノだろう」
「どちらでもない、場所?」
眷属の言葉に、ロキがオウム返しに問うと、人の姿を模す海龍は静かに頷き、イフリートが、言葉を続けて説明する。
「淡水と海水が混ざる場所は、海であり、川でもあるし、高い山の山頂は、空でもあり、地面でもある。
他に言うなら、例えば、夕方。黄昏時、ってやつだな。逢魔が時、ともいう。
昼でも夜でもない時間。冬から春になりかけている季節、大人になりかけている子供。
どっちでもないし、どっちでもあるっていうヤツは、『マ』を呼ぶ。
『間』は『魔』に通じる。魅入られ易くなる。『マ』は麻痺のマ、麻薬のマでもある。感覚を狂わせ、判断力を鈍らせ、混乱に乗じて幻術で迷わせる。
敵を味方に、味方を敵に入れ替え、心のスキに入り込む」
「戦力自体は、然程ではないが、面倒な相手になる事が予想される」
「それに、なあ」
ロキは海龍レヴィと、イフリートのエンの言葉に、真剣な表情で頷き、続くエンの促す視線を追って軽くため息をついた。床に置かれたクッションの上で、白と黒、二匹の若犬がちらりとロキを見て、申し訳なさそうにきゅうんと鳴き、居心地悪そうに身を竦める。
こちらも、ただの犬ではない。白い方が、アキと名付けた狛犬の阿、黒犬が、狛犬の吽で、名をフユという。
彼らは結界の瑞獣。絶対的な守護域を作って主を護り、聖域を侵す者に制裁を加える。
人型になれば、小学校低学年程度の双子の男子といった姿だが、成獣になって以降も、育ってきたままの体が楽なのか、若犬の姿でいる事も多い。
ロキは同情的な表情を浮かべて、少し小柄な中型犬の側にしゃがみ、頭を撫でる。
「シュートー、具合はどうだ?」
犬たちは撫でられて一瞬嬉しそうな笑顔を見せ、再び、しゅん、と項垂れた。
幼くして肉体を失ったフユの魂は、アキの肉体に宿り、一緒に成長してきたという。一つの体に二つの魂。やがて彼らは成獣となり、正式にロキの眷属となってからは、それぞれ肉体を得て二匹に分かれる事ができた。一匹だった頃は、そんな事情を知らず「アキ」と呼んでいたが、最近は二人をまとめて秋冬と呼ぶことが多い。
緩やかに近寄る気配に顔をあげると、若葉色の髪に、深い花緑青の眼の、二十代後半くらいに見える男性が、微笑みながら立っている。
彼もロキの眷属の一人。シルフ、風魔の清羅。
以前、出会ったばかりの頃は、漆黒の髪に大きな羽を持っていたが、彼いわく、その姿は当時務めていた天狗の「制服」なのだそうだ。その任から離れ、本来の姿に戻ったというわけだ。ロキの眷属たちの中で唯一、それほど強力ではないとはいえ、癒しの力を持つ。
「吐き気は治まったようですが、まだ、内臓の疲労が」
そう言いながら、自らが精製した水を満たした器を、横たわったままの犬の前にことりと置いた。
「脱水症状も心配ですから、水分はきちんと摂ってください。良くなったと思っても無理は禁物。しばらくは、病後用のドックフードですよ」
にこにことそう告げる清羅に、横たわったままの若犬が不満そうな視線を向ける。
「もう、あのごはん、いや」
完全に成長した魔族は食事を摂らないのだが、彼らはまだ肉体が出来上がっておらず、あと数年は外部からの栄養の補給が必要なのだという。成獣になったとはいえ、まだ幼さが残り、くいしんぼうのアキフユ達にとって、病後食は味気ないらしい。
「自業自得だろ。鳥のささ身と大根の茹でたヤツ、少し混ぜてやるから」
エンの言葉に、大根なんてきらい、と、哀しそうにクッションに頭を落とす。
こうなった原因が、職員の歓談室に置かれていた差し入れのチョコレートを、少年の姿になっていたアキとフユ、二人で勝手に食べてしまった挙句、チョコレート中毒を起こしてひどいおう吐を繰り返した為、とあっては、さすがに当人たちは文句も言えない。
完全な神獣となればチョコレートを口にしても問題ないが、彼らは未だ、肉体を与えてくれた仮母の雑種犬、ナツの影響を濃く受ける。今でこそ食事の不満が言えるまでに回復したが、一時は命を落としかけない重症だった。
「まあ、アキとフユは、良くなるまでゆっくり休んで。清羅も、コイツ等についていてやって。今回は、エンとレヴィで何とかなるだろ?」
アキとフユの事がなくても、水源を守っていた清羅に、その下流を守る妖魔を倒せ、と命じるのは気が引けた。
主であるロキの言葉に、エンとレヴィは、もちろん、というように、自信ありげに頷いて応えた。