dependence
大切なお友達であるユーザー様方より頂きましたお題『依存愛』で、短編を書いてみました。
駄作ですが、楽しんで頂けると幸いです。
────どこか遠くで、夕方五時を告げる鐘の音がしていた。僕は酸素の足りない頭でぼんやりと考えながら、唯一動くことを許された眼球で僕らしか居ない薄汚れた廃墟の中をぐるりと見渡す。視界の端でドブネズミがちろちろと横切ったのを見て、「あぁ、汚いなぁ」なんて他人事のように考えてしまう。
廃墟の中には何も無い。もともと互いに多くの物を持つのは好きではなかったことに加えて、出来ることならば互いに此処にいた痕跡を残しておきたくはなかったから。
天井の無い廃墟の中には、僕の首に手を掛ける彼女の荒々しい息遣いと、情けなく掠れた僕の呼吸音のみが存在して。白んでゆく思考の中で、「波の音が聴こえるな」なんて呑気なことを考えていた。
「……っ、とう、こ」
目の前で、どこか憎らしそうに、あるいは、何処か恍惚とした表情をその整った顔に浮かべながら、彼女────山野透子は優しくも荒々しく僕の首を絞める。それは僕らが共に過ごし始めてから始まった愛情表現の一種だった。荒い息と血走った目で僕の首を絞める彼女は、今日も醜くて何処までも美しくて。目の前のこの女の本性が透けて見えるこの瞬間が、僕はどうしようもなく好きだった。
「……ね、ねえ、櫂?櫂は私以外見たらいけないの。そう言う約束なのよ。そう言う約束なの」
透子は僕の首を絞めながら、まるで譫言のように何度も何度も「約束」と言う言葉を自分に言い聞かせるかのように呟く。紺と白のモノトーンで配色されたセーラー服を着る彼女の目は何処か虚ろで、それはどこか危うい美しさを演出していた。
目の前のこの血走った目をする女────山野透子は、中学生時代のクラスメイトだった。僕は今から少し前にこの目の前の女を誘拐して、それから一緒に住居を転々としながら、今はこの廃墟で山野透子とともに暮らしている。水道も電気もガスも止まっているが、雨風が凌げるだけで満足だと言っていたのは目の前のこの女だったのか、それとも僕自身だったのか、今ではもう思い出せない。
「……こ……とう、こ……」
数秒程経過した頃、彼女の腕を軽く叩いて「苦しい」と訴える。白んでくる思考が酷く心地良くて、僕は文字通り夢見心地で彼女の棒きれのような細く華奢な腕を叩く。
「……あっ……」
すると透子は先程の様子とは似ても似つかぬ程狼狽すると、元々血色の悪い顔を更に青褪めて恐る恐る僕の首から手を離す。黒目がちの何も映らない空虚な瞳には、見る見るうちに涙が溜まってゆく。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」
慌てて僕を起こすと、「ごめんなさい」とまるで譫言のように何度も繰り返しながら、僕の身体に縋りつくようにして泣く。まるで飼い主に捨てられる間際の子犬のようなその様子に、彼女の肩がほんの少し震えている事に、どうしようもなく満たされている自分がいた。
庇護欲を掻き立てられるから、同じだけ傷付けてやりたくなる。消えない鈍い痛みがいつまでも脳の裏に残る様に、どうしようもなく傷付けて────そして、どうしようもなく優しくしたくなるのだ。
どうしようもなく狂っていると自嘲的な笑みを浮かべながら、目の前で泣き崩れ身体に縋り付く彼女の体温を感じてそっと抱き締める。「大丈夫ですよ」と出来るだけ優しく声を掛ければ、透子は変わらずに「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」と譫言のように繰り返すだけだった。
喰らい尽くされてしまえば良い。落ちるところまで、一緒に落ちてしまえばいい。僕を置いてさえ行かなければ、僕が彼女の手を離すことも無いのだから。
僕は透子の髪を優しく梳きながら、「落ち着いて」と優しく宥めるように声を掛ける。透子の細く華奢な肩がぴくりと跳ねて、澄んだ大きな瞳が戸惑ったように僕を見つめている。
「透子は今のままで良いんですよ。何も変わらなくていい。……大丈夫、僕が全部何とかしますから」
そう優しく語りかけてから透子の柔らかな髪を指で優しく鋤くと、透子はきごちなく微笑んで「ん」と子供のように肩に頭を浅くのせる。深い信頼を与えるような幼さを残したその行動に、心の奥深くが満たされてゆくのを感じながら「僕がずっと傍にいますからね」と、その耳元で優しく囁く。
────だから、どうか君も僕から逃げないでいて
喉の奥まで出かかった言葉を呑み込んで耳元で意識しながら優しく囁くと、透子はまるで子供のようにこくりと頷く。この何処か大人びて、けれども誰よりも幼い子供のような彼女が好きだ。愛している、なんて、そんな腐る程ありふれた言葉では、こんな醜い感情は言い表せないけれど。
庇護欲と、独占欲と、そしてほんの少しの支配欲が顔を出して、僕の脳内で暴れだす。それはいっそ────殺してしまいたくなる程に。
────透子。透子。透子
世界でひとつしかない、その美しい言葉を心の中で反芻しては密かに笑う。
────透子。透子。透子
嗚呼、何て綺麗で、醜くて、美しい存在なんだろう────嗚呼、やっぱり彼女は、誰よりも醜くて、綺麗だ。
透子。透子。君は僕を必要としてくれる限り、僕もそれ以上に君を必要としてあげる。「愛してる」なんて、そんな言葉じゃ足りないくらいのありったけの愛情に埋もれて、崩れた世界の中で二人で静かに息をとめよう。
「────櫂」「うん?」
透子が僕の肩に浅く頭をのせたまま、小さな声で僕の名前を呼んで。それに出来るだけ優しく聞き返せば、透子は薄い唇を開いて「私、櫂が世界で一番好き」と呟く。それに「僕も透子が一番好きですよ」と返せば、透子は安心したようにぐりぐりと僕の肩に頭を押し付けて、やがて寝息を立てて眠ってしまった。
僕は彼女の身体を抱えると、前の住人が置いて行ったであろう廃墟の中の汚れたソファーに身体を横たわらせて、
────やっと、手に入れたんだ
僕は愛おしくて堪らない彼女の髪を梳き、ほんの少し身動ぎする彼女を見て、思わず口元が緩む。
湖乃透子は、クラスの人気者だった。誰とでも分け隔てなく明るく付き合い、いつも彼女の世界には「他人」が中心に居座っていた。
クラスで浮く僕のような存在を一番気にし、いつも誰かの輪に入れようと必死だった。けれど押しつけがましくは無く、やはり少々お節介だったけれど、彼女は間違いなく「人気者」だったと言えるだろう。
────ね、××君。日曜日に皆と図書館で勉強しない?
────××君。数学が解らないんだ。教えてくれるかな?
────××君。××君
最初のうちは、鬱陶しくて嫌いだった。綺麗に手入れされた髪も、柔らかく僕を呼ぶ声も。全てが嫌いで、ただただ憎らしかった。
────すみません。僕、日曜日は用事があって
────僕も数学は苦手なので。クラス委員の彼に聞いた方がきっと解りやすいですよ?
────用事があるので、また
鬱陶しい。煩わしい。僕にとって彼女は、まさに目の上のたんこぶだった。
気紛れならば、話しかけないで欲しい。クラスの立ち位置なんて知ったことではない。
それでもめげずに僕に話しかけてくる彼女を見て、「馬鹿な奴だ」と心の中で嘲笑うと同時に、何故だか尊敬の感情も浮かんできた。
鬱陶しくて、煩わしい存在。…けれど、何故か気にかかる。
彼女はそんな存在へと、僕の中で徐々に変化していった。
大きな変化―それは僕にとっては『幸運』であり、彼女にとってはある種の『不幸』でもある。
―…だけど、ねえ、僕は思うんですよ。
『不幸』と『幸福』の境界線は、酷くあやふやで、ぼんやりとしていて、酷く、酷く、空虚だと。
天井の無い薄汚れた廃墟の二階。
見上げた空は、優しくて、柔らかなオレンジ色をしていて…。―…まるで世界が、すべてオレンジ色に塗りつぶされてしまったみたいだ…。
優しくて、静かで、毒々しくて、醜い。
この世界のすべてを表している。そんな気がする。
「…ねえ、透子。世界は今日も、とても醜くて、そしてとても綺麗です」
僕は透子の明日の分のセーラー服を用意するために、透子を起こさないよう、そっ、と立ちあがる。
僕等しか居ない廃墟に、僕の靴音がカツン、カツン…と響く。
透子は、いつも僕を「好きだ」と言うけれど。
僕は透子のセーラー服が置いてある場所まで歩く。
僕は知っている。
湖乃透子という少女は、僕を好きな訳でもなく、ましてや、友好的に思って居る訳でもない。
それはそうだろうな、なんて僕は喉の奥をくくっ、と鳴らして嗤う。
―…だって、彼女を孤立させたのは僕なんだから。
鬱陶しかったんだ。彼女の周囲の人間も、彼女に言い寄る人間全てが。
穢い手で彼女に触れるあいつ等が。それを平気で許す彼女自身も。
大嫌いだったんだ。
だから、彼女を孤立させた。
口の軽そうなクラスメイトに彼女のデマを流して…ね。
「陰で他人の陰口言って喜んでいるんですよ」とか、「君等の事も嫌いだって言っていましたよ」とか。
あの美しく、優しく醜い彼女が、そんなこと言う筈がないのにねぇ。
僕の笑い声が、廃墟の中に反響して、そして、吸い込まれていく。
―…だけどさぁ?
あのクラスメイト(馬鹿共)は何の疑いも無くそれを信じ込んだんだ。
…まあ、簡単にあんなデマを信じちゃうんだから、彼等もきっと透子の事を、『うわべだけの友達』だと思っていたんだろうけどね。
僕がしたのは、ただそれだけ。
だけど、誰も僕に文句は言えないよねぇ?
僕は一応、「内緒ですよ?」と口止めをして、それだけだと不十分だから、念のため少しの金銭も握らせてみた。
…まあ、カモにされる危険性もあったから、万が一の時の為に彼等に金銭を渡している僕の写真を隠しカメラで撮影して、ビラを作成したけれど、流石にそこまで非常識な人間では無かったみたいだ。
「惜しかったなあ…。もうすこし、頭の弱い奴らだと思ったんですけどね…」
作成したビラの出番がこの先訪れる事は無いだろうと思ったから、さっさと処分したけれど、とんだ無駄骨だったよ。
「…人間の口を封じるには、金銭が一番、って聞いたけど、それほどでもないですねぇ」
まあ、昔誰かが言っていた言葉で、人間の心理の中に、「誰にも内緒」という秘密めいた言葉を含めば、例えそれが、どんなにつまらない事だったとしても、心理的に作用して勝手にペラペラと話してくれる―…だとか何だとか言っていたけれど。
…まあ、僕のクラスメイトが全員馬鹿ばかりで、すぐに自己保身に走る様な屑ばかりだった事が唯一の救いかな。万が一の予防線を張り巡らせておいて、噂を流した犯人が僕じゃないように偽の証拠まで作り上げて。
どうせ、あの屑共の事だから、僕が渡した『口止め料』なんて、とうに使い切っちゃったんだろうけど。
あいつ等に渡した口止め料を、あいつ等が使い切る頃と同時期に僕と透子は高校を休学した。
『退学』という道が一番理想的だったけれど、それだけだとせっかく作った証拠が無駄になる。
それに、僕等の休学とあいつ等が僕から金銭を受け取っていたという事実を関連付けたかったのも本心だし。
「…貴女を手に入れるまで、本当に苦労しましたよ」
そう呟き、僕は透子の食事を購入しに近所の二十四時間営業のコンビニエンスストアへ行く為に、財布と携帯電話をパーカーのポケットへ入れて、廃墟を後にする。
『出掛けてきます。すぐ戻りますね。 櫂』
メモ帳を千切り、そこへ手近にあったボールペンで走り書きをする。
こうしないと、万が一透子が目覚めた時に、精神状態が不安定になり、発狂する。
以前、同じように食事を購入しに行った際に小一時間外へ出ていた間に透子が目覚め、ふらふらと外を徘徊した為に、探すのに苦労した事がある。
それから、毎日出掛ける度にこうしてメモに走り書きをしてから出掛ける事にした。
夕方から夜にかけて街を走り回り、透子を見つけたのは、古ぼけた、小さな教会の前だった。
―…こ。…透子。
―…か、櫂…!ご、ごめんなさい…ごめんなさい…!わ、私…櫂が居ないから、ふ、不安で…。
―…うん。ごめんなさい。僕が悪いですね。
―…そ、そんなことないの…!櫂は悪くないの…。
―…ね、ねえ櫂…!櫂、私を置いていかないで…!棄てないで…!
―…ごめんなさい。大丈夫、僕は此処に居ますから…。
―…う、うん…。うん…。うん…。
―…さあ、もう夜も遅いです。帰って眠りましょう、透子。
―…い、いや…!櫂…!『enemy』が来る…!
―…大丈夫。『enemy』は来ませんよ。
―…どうして?
いつの間にか降り出してきた雨に濡れながら、僕は歪に微笑んだ。
―それはね―×××からですよ。
―…本当?本当に『enemy』は―…×××…の?
―…ええ。本当です。『enemy』は×にました。…さあ、帰りましょう?
―…うん…。
『enemy』は×××。
そして、新しい『enemy』は―…
コンビニで買い物を済ませると、いつの間にか頭上に広がる空間は毒々しいオレンジ色から、暗く、全てを喰らい尽くしてしまう『闇』が広がる夜空が広がっていた。
夜道を歩くのは僕以外にはおらず、闇と同化した僕の影が、僕と同じリズムで歩いていた。外灯には蛾が忙しなく集り、バチバチ、と舞い続ける蛾が羽を焼く音が聴こえた。
―醜い姿でも生き続ける事と、美しい姿のままで死ぬことと、どちらが正しいのだろう。
「…ねぇ、透子。透子はどう思いますか?」
届く筈の無い問いを発しながら独り、コンビニエンスストアの白い袋をガサガサと揺らしながら夜道を歩いた。
「透子。今帰りましたよ。」
廃墟の錆びついた扉を開けると、ギイイイイッ、と錆びついた嫌な音がした。
「透子?居ないんですか?」
古ぼけた簡易テーブルの上にコンビニの袋を置き、透子を探しに廃墟の中を歩く。
「透子?とう…」
すると、三階建ての廃墟の二階右側の一番奥の部屋から、何かを堪える様な、くぐもった悲鳴が聴こえた。
「透子!?」
慌てて二階へと駆け上がり、右奥の部屋のドアを思い切り開けると、そこには。
自分の腕を噛む、透子の姿があった。
透子の細く、白い腕に痛々しく食い込む、白い透子の歯。細い手首からは、鮮やかな血が流れて―…。
白と赤のコントラスト。
それは、危険な『美しさ』だった。
「…い。か、い…」
赤く染まった唇が、ゆっくりと弧を描く。
まるで、この事態を予測していたかのように。
「櫂…」
「おかえりなさい」
そう呟いて、艶やかに微笑むと、透子は手首を噛むのを止め、小さな声で何かを呟いた。
「…あかい」
「……え」
何が?とは流石に訊けずに戸惑うと、透子が全て見透かしたように微笑んだ。
「…血がね、赤いの。不思議ね。赤いのよ」
「それは―…それは『当たり前』なんですよ、透子」
「『当たり前』?当たり前はいくつあるの?」
透子の、感情を映さない暗いふたつの瞳が、こちらをじいっ、と見つめる。
「とう…」
「見えるものは見えなくて」
不意に、透子が僕の言葉を遮って、呟く。
「見えないものは、見えないのよ。櫂」
そう呟くと、僕に縋るように僕の首に腕をまわす。
「…ね、ねえ、櫂。こわい…こわいよ…」
ガタガタと震えながら、透子はきゅっ、と僕の首にまわした腕の力を強くする。
「見えないの…。見えないのが、怖い…」
「透子。透子。大丈夫ですよ。大丈夫ですから…」
そう透子の耳元で呟くと、透子は「うん…うん…」と呟きながら、徐々に落ち着きを取り戻した。
廃墟の中は、いつの間にか夜の闇の中に吸い込まれて、頭上にはたった独りで輝き続ける、神々しいほどに孤独な月が、僕等を見下ろしていた。
「…ねえ、透子」
僕は月を見上げながら、透子へ呟いた。
「明日、一緒に死にませんか?」
「…うん。櫂となら、何処までも」
僕等は同時に月を見上げた。
「ねえ、櫂。櫂には、あの月は何色に見える?」
「…そうですね。僕には、赤く見えます」
そう答えると、透子は嬉しそうな声で呟いた。
「―…私も」
僕等は、階下へ降りて、冷え切った夕食を二人で食べた。
機械的な味のする『ソレ』は、とても美味しく、そして、寂しく感じた。
「明日」唐突に透子が呟いた。
「…海へ行こう。誰も来ない海の中で、二人でずうっと一緒に居よう?」
透子はそう呟くと、僕を見て淡く微笑んだ。
「…だって、私達はずうっと一緒…でしょう?」
「…ええ。僕等はずうっと一緒です。永遠に、一緒です」
君を閉じ込める『檻』が欲しかった。その為に、僕自身を『檻』にしようと思った。だけど、君は―…
―…『僕』を、『君』と言う檻に、逆に閉じ込めた。
君は、僕を必要としてくれた。
僕だけを、いつもその澄んだ瞳で見つめて居てくれた。
僕は、君に依存していた。
君の、その瞳に、弱さに、依存していた。
―…僕等は互いに、『依存』しあっていた。
『enemy』は、確かに二度死んだ。
最初の『enemy』は、透子の父親だった。
僕等の依存に一番最初に気付き、僕と透子の関係に危険を感じた彼は、僕と透子を引き離そうとした。
不幸な事故だった。
透子を無理矢理家に連れて帰ろうとした瞬間、頭に血が上っていた彼は気付かなかったのだろう。
信号は、赤信号だった。
大型トラックに轢かれて、初代『enemy』は死んだ。
次の『enemy』は、透子のクラスメイトだった。
勘の鋭い奴だった。と同時に、恐ろしく頭の切れる奴でもあった。
彼は多分、透子に好意を抱いていたのだろう。
だからこそ、僕が指定した踏切にまで来たのだ。
透子を護るために。
その日は、不幸にも雨で路面が滑りやすくなっていて、同時に強風でもあった。
細身だった彼は、強風に煽られ―…不幸にも電車に轢かれて亡くなった。
僕と透子は、二つともそれを見ていた。
静かに、それを見届けた後、二人でどちらともなく呟いた。
―…さようなら、と。
透子も僕も、不思議と涙は出なかった。
互いに、『悲しみ』という感情が、欠落していた所為かもしれない。
―…死んじゃった、ね。
―…うん。
―…悲しい?
―…悲しくないですよ。
―…私も。
―…うん。
透子は、踏切をぼんやりと見つめると、感情を映さない瞳で呟いた。
「ごめんね」
罪悪感。
僕等にはそれすらも浮かばなかった。
ただぼんやりと、透子は自分にとって『必要不可欠な存在』と過ごした記憶を、僕は『クラスメイトと呼ばれるべき存在』を失った喪失感を、互いに心の奥底で探していた。
けれど―…
―…僕も透子も、その感情だけは見つからなかった。
透子には、母が居なかった。
一歳位の頃から、そう呼ばれるべき存在は居なかった。彼女は虚ろな瞳でそう呟いた。
その頃、僕は独り暮らしと呼ぶには遠い、けれど、家出と呼ぶには何処かずれている。そんな生活を送っていた。
僕の父と呼ばれるべき人と、僕の母と呼ばれるべき人の顔を、僕は知らない。
物心ついた頃から、独りであの廃墟で生きてきた。
自分の親戚だと名乗る人達に、生活費や学費は出して貰えたけれど。
僕が彼等の『家(居場所)』で生活することは、許されなかった。
その頃、奇しくも同じ時期に天涯孤独となった透子に、一緒に廃墟で生活する事を提案した。
『もう、どうでもいいよ』
その時、彼女の瞳に映る『感情』が、そう物語っていた。
その日から、僕の『廃墟』に、もう一人住人が増えたのだった。
―…思えばその頃からだった。透子が僕に異常なまでに執着するようになったのは。
―…生きることと、死ぬことと。どちらが辛いのかな、櫂。
彼女はよく僕に、そんな言葉を吐いた。
―…さあ。僕には解りません。
冷たくそう返すと、意外にも透子は微笑んだ。
―…そう。私にも、解らないよ…。
廃墟の内部は、暗く埃っぽい。
けれど、月の光に融けていく廃墟は、僕の存在よりも、酷く儚くて、そしてとても価値があるのだと思った。
「櫂…」
不意に透子に名前を呼ばれる。
「…何ですか?透子」
透子は何か言いたげに口を開いたが、微笑む。
「…ううん。…月が綺麗だね」
「…ええ。何時の時代でも、月はとても綺麗だったそうです」
そのまま、僕等は長い事月を見上げた。
不意に、透子と僕の手が触れる。
そのまま、どちらともなく手を繋いだ。
静かに、月を見上げながら―…
「…ねえ、透子…」
「…ん?」
僕は月を見上げながら、呟く。
「…貴女に出逢えて、僕は幸せでしたよ」
そう微笑むと、透子が大きく目を見開く。
「だから―…」
僕は透子へ微笑んで
「…良いですよ。明日は、海の中を見ましょう?」
すると、透子は大きく目を見開く。
「……っ!」
すると、僕のジーンズに、透子の涙の粒が、ぽたり、と丸いシミを作って、落ちる。
「…ん。ごめんね、櫂…。ごめん…ごめんね…」
僕は透子の頭をそっ、と撫でる。
「…大丈夫。大丈夫ですよ。僕は幸せですから…」
泣き止まない透子の悲しみをまるで代弁するかのように、遠くから聞こえる波の音が静かに、静かに音を奏でていた。
透子の頭を撫でながら、僕等はいつの間にか眠ってしまった。
遠くから静かに聴こえる波の音が、いつまでもいつまでも、僕の頭の中に残っていた。
「…い。櫂。起きて」
不意に、透子の声が聴こえる。
眩しいほどの太陽の光が、僕の瞼を透かして、赤い血の色が僕の視界に広がる。
「…朝…?」
ゆっくりと瞼を開けると、透子が淡く微笑む。
「…お、おはよう。櫂」
つられて、僕も微笑む。
「…おはようございます、透子」
二人で、いつも通りの挨拶を交わし、今日は二人でコンビニへ朝食を買いに行く。
時間帯の早い所為か、すれ違う人は居なかった。
コンビニで買い物を済ませ、店を出ると、何処までも澄んでいる青空を見上げ、不意に透子が呟いた。
「綺麗…」
「…ええ。本当に、綺麗です」
二人で暫くそのまま、もう見る事は無い青空を目に焼き付けた。
「…帰ろう」
「…はい。帰りましょう」
二人で来た道を帰る途中、透子がゆっくりと口を開く。
「…櫂」
「はい。何ですか、透子?」
僕が透子の顔を覗き込むと、何か言いたげに口を開いたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべて
「…ううん。何でも無い…」
「…そうですか」
そのまま、二人で廃墟へと戻り、朝食を食べる。
「…櫂」
「はい。どうしましたか、透子?」
透子は寂しそうに微笑んで
「…ごめんね」
「…え?」
「一緒に、」
連れて行っちゃって、と透子が言葉を続ける。
「…良いんですよ。僕は、透子と一緒に居られるだけで、幸せですから…」
すると、透子が泣き出しそうな子供のように
「……ん」
そう呟いて、僕の手を握るから。
僕は思わず微笑んで、透子の手を優しく握り返す。
「…いこ」
「…はい」
僕等はゆっくりと海の中へ入る。
「…ねえ、透子」
「…なあに、櫂…?」
僕は軽く透子の額に口づけて、微笑む。
「…永遠に愛していますよ。透子」
波が僕等の足跡を消して―…
後には何も、残らなかった。
お題を頂きました皆様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。誠に有難う御座いました。