39章 安寧に屈する勇者
異世界日本に転生してからというものの、俺は徐々に危機意識が低下していくのを自覚していた。
科学の優越性を認めながらも、生物として生き抜く力に深い自負があったから。
群体としての力でこそ敵わないが、個としての俺に比肩する者などいないという傲慢な思い。
その末路がこれだ。
彼我の戦力差を過小評価し見誤った結果、俺は忌まわしき呪印に侵され無様に地を這っている。
そう、名無の指摘は正しかったのだ。
正直に言うなら、状況に浮かれている自分が確かにいた。
女王の探索という使命や謎の探求とは別に、この世界での俺は、あらゆるしがらみから解き放たれ……自由だったから。
琺輪世界では勇者としての名誉と共に、崇高ではあるが逃れられない宿業に縛られる。
終わりなき戦いの日々。
親しき者達との死別。
俺の掲げる剣の下で散って逝く命。
ふと振り返れば屍山血河の頂きにさらに屍を積み立てる自分が観える。
先程苦しげに述懐するミーヌに強く共感した俺の心。
人々の希望になるという俺の誓い。
俺に期待する皆の願いを無碍にする訳じゃない。
ただ……俺も勇者たる自分に疲れていた。
誰も彼もが俺に期待を寄せる。
だが俺は何なんだ?
人々の希望を一身に背負い、
限りある時を人族の御旗で在り続けなくてはならない。
勇者に至る今までを後悔する訳ではない。
けれど幼馴染と結ばれ穏やかに過ごす……
そんな生き方もあったのかもしれない。
普段はそんな自分を押し殺す、どころか意識すらしてない。
しかし俺の対極と云ってもいいミーヌの告白を聞いてから激しく動揺し、
意識し、
そして……惹かれ始めている俺がいた。
光と闇。
背中合わせで出会う事のない筈の俺達。
皮肉な巡り合わせが俺達を新たな舞台に引き上げた。
配役の役目を満足に熟せない三流役者でも、せめてミーヌ・フォン・アインツヴェールという『人間』の手助けをしてやりたいと深く思った。
けど……それはどうやら叶わない望みらしい。
力を無くした指先から聖剣が零れ落ち耳障りな音を奏でる。
だというのに、今の俺にはそれを五月蠅いと感じる感覚すらない
俺は屋上を染める出血と、
呪印の引き起こす激痛に意識が薄れゆくの認識していた。
(武藤翁、綾奈、恭介……
恩義もロクに返せず申し訳ない。
でもこの世界で貴方達に出会えて、俺は本当に幸せだった)
(ヴァリレウス……
こんな不甲斐無い俺をいつも支えてくれてありがとう。
神々の一柱である貴女が俺を誘ってくれたのは、
例え戯れでもホントに嬉しかったよ)
(ミーヌ……
約束した手助けが出来ずにすまない。
お前とは、もし違う出逢いがあったら……
きっと俺は……)
混濁する意識に浮かぶ泡沫の様な思考の断片。
どこか遠くで俺の名を呼ぶ声がする。
今意識を手放せば再び覚醒することは恐らくない。
されど今の俺に手招きする深淵に抗う術もなく。
安寧を約束する昏き闇に、俺は誘われる様に身を委ねるのだった。