39.無かった事に
『昨日、何かあった?』
陸からそのメールが来たのは、ホームルーム終礼の時だった。それを見て、心が痛んだ。優しい彼の事だから、きっとずっと自分を気にしてくれたに違いない。
とにかく、真っ先に陸へ向かわなくてはならないと思った。だけど、本当に何をどう話せば良いのか分からない。自分でも呆れる。下駄箱で靴を出して、溜息を吐いた。ふがいない。
「早瀬」
さらに、追い打ちを掛けるように、武藤匠の声がした。自分の肩が、びくっと大袈裟に揺れるのが分かった。
「今一番会いたくないよな、俺なんて」
彼の大きな黒いマフラーは、口元を覆っている。冷たい風に、前髪が揺れている。香菜はおずおずと見た。しかし、目は合わせなかった。
「……この間はごめん。あんな無理矢理……ひどい事したと思ってる」
声を聞きながら、香菜は静かに靴を履き変えた。匠は、突っ立ったままでいる。
「我慢……できなくなった。自分でもびっくりした」
「うん」
「本当ごめん」
ここで、全部彼の所為にできたらどれだけ楽だろうと思った。実際、彼は全部自分が悪いと思っている。ここで何もかも知らんぷりして、陸の元に帰りたいと思った。
(でも……私もダメなんだ。一瞬でも陸さんのこと、忘れたから)
しーんとなったところに、北風が抜けた。お互い鼓動が速いはずなのに、どこか冷静だった。
「じゃあ……無かったコトにしようよ」
視界の端で、彼が顔を上げたのが分かった。その後に「え?」という声が聞こえた。
「あの日、体育館裏で会わなかったんだよ。私たち」
「……早瀬」
提案している自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、これが間違っているという事だけは確信していた。自分が、自分の責任を無かった事にしようとしている。最悪だ。しかも、そんな事出来ないと分かっている。簡単に忘れられるわけないと分かっている。二人はそれを分かった上で、承諾している。
(どんどんダメになる。私、どんどん最悪になってる)
やがて香菜は、彼に背を向けた。そして、弱弱しい足取りで家に向かった。
*・・・・・・・・・・
陸は、自分の部屋にいた。
仕事帰りの疲れた体で、コートを脱ぐ。最後の客が閉店ギリギリにやって来た為、今日はいつもより遅くなった。丸テーブルの上の携帯電話を手に取った。
(香菜ちゃんどうしてるかな)
メールの返信は来ていなかった。寂しさが、つんと胸を突いた。明日は店自体休みだ。もちろん、香菜のバイトは入っていないので、会えない。返信が来たら、どこかに行こう、と誘おうと思っていた。
ここ最近、香菜の様子はおかしい。時折、何かを考えるように遠くを見る。その時、決まって表情は暗い。みんなで笑っている時も、以前のように大きな口を開けたりしない。昨日部屋に来た時だって、思い詰めたような顔をしていた。
(今すぐ会えたらいいのに)
悩んでいる事があるなら、聞きたい。出来る事があれば、したい。
普段あまりビールは飲まないが、冷蔵庫に貰った物があった。プルトップの蓋を開け、台所で口に含んだ。
その時、チャイムが鳴った。古いアパート独特の安っぽい音だ。一瞬、香菜の顔が過った。早足で、玄関に向かう。
「七海?」
そこに立っていたのは、愛知七海だった。真紅のピーコートに身を包み、軽く笑っている。陸は少し驚いた。
「こんな夜遅くにごめんなさい」
申し訳無さそうに、眉を顰めた。
「どうしても資料を渡したくて。明日からしばらく出張になるし、仕事でこっちまで来たから」
「それでわざわざ?」
外の寒い風が、七海の髪を靡かせている。彼女は、革のバッグから資料を取り出そうとチャックを開いた。中には大量のプリントが綺麗に並べられて収納されている。それでも、探すのに時間は掛かりそうだった。
「中、入りなよ。寒くない?」
陸が言うと、七海はしばらく考えるような表情を浮かべた後「おじゃまします」と微笑んだ。ドアを閉めると、冷たい風は遮断された。
折角、寒い中来てくれたので、温かいお茶くらいは振る舞おうと思った。数少ない食器の中から、湯呑を取り出す。
七海は、資料をテーブルの上に置いた。そして、陸の淹れたお茶を飲む。ほっとしたような顔で「ありがとう」と言った。
「じゃあ、もう行くわね。お茶美味しかったわ」
「駅まで送ろうか?」
「大丈夫。神崎君も疲れているでしょう?」
七海はそう言うと、扉のところで小さく頭を下げた。礼儀正しい彼女らしい行動だと思った。
最後、出て行く寸前に、もう一度振り向いた。
「お邪魔しました」




