3.陸の夢
その日のバイトは、いつもより精が出た。終わった後にまたあのラーメンが食べられるかと思うと、香菜は仕事中でも飛び上がりたくなった。
しかし、天気は雨。ざーざー降りの雨。いつもなら賑わっている時間だが、今日はカウンター席に二人座っているだけだ。客足は格段に少なく、やる気のある彼女に水を差した。
(ああ……ラーメン食べたい……)
香菜は物乞いするような目で、厨房を見る。ちょうど、陸がラーメンを作っているところだった。彼はトントンと手早くチャーシューを切っている。そして時間になると、寸銅に入っているスープの様子を確認する。再びチャーシューに手を付けようとした時に、ふと彼女と目が合った。陸は「どうしたの」と柔らかい笑顔を向けた。
「慣れた手つきだなあって思って」
「全然だよ。まだまだ修行中だから」
「修行っていつまでするの?」
彼はとりあえず作業を終えたらしく、一息吐いた。そして、カウンター席を挟んで立っている香菜の方を見た。
「俺の目指すラーメンを作れるまで」
「陸さんの目指すラーメンって?」
不意打ちの質問だったらしく、陸は「え?」と口を開けた。その様子がおかしくて、彼女は思わずくすくすと笑い始めた。戸惑う彼に追い討ちを掛けるように、もう一度「どんなラーメン?」と問い掛ける。
陸はしばらく、うーんと考え込んでいた。テストの難問でも解くような苦戦の仕方だった。しかし、やがて考えが纏まったらしく、体勢を立て直す。そして彼女の方を見て、答えた。
「誰かが美味しいって思ってくれるラーメン」
……何でも白黒はっきりさせたい香菜にとって、その結論は曖昧なものだった。誰かが美味しいって思ってくれるラーメン。何度か心の中で繰り返したが、しっくり来なかった。しかし、陸の方はその響きが気に入ったらしく、機嫌良さそうにこちらを見ていた。
「……そんなラーメンが作れたら、嬉しい?泣いちゃう?」
「そうだね。泣いちゃうかもね」
くしゃっとした笑顔を浮かべる陸は、お兄さんというよりも少年のようだった。目指すラーメンの方は納得できなかったが、夢を見る彼の姿は、香菜を応援したい気持ちにさせた。
(陸さんの夢、早く叶うといいな)
*・・・・・・・・・・
やがて大して客も来ないまま、閉店の時間を迎えた。今日のバイトは退屈なものであったが、香菜はそんな事を忘れるくらいに浮き足立っていた。今から昨日のラーメンが食べられるかと思うと、にやにやと笑みが零れてしまう。その様子を不気味に思ったのか、鉄が声を掛けた。
「早瀬、随分と楽しそうだな」
「えへへ。今からラーメンが食べられるかと思うと、嬉しくて嬉しくて」
深い皺が無数に刻まれた褐色の肌に、太い眉毛。どこからどう見ても『がんこおやじ』の風貌の鉄。彼は、香菜にとって憧れのラーメン屋店主であった。むやみに雑誌の取材を受け入れないところも、陸を含めた弟子達に慕われているところも、香菜は心の底から尊敬していたのだ。
「ああ、そうだ。昨日のラーメンどうだったか?」
「もうすっごく美味しかったですよ!新作ですか?」
「いや、違う。あれは俺の作ったもんじゃねえよ」
「……え?」
思いがけない事実に、彼女は思わず固まった。今まで食べたラーメンの中で、鉄の味を超えるものは無かった。グルメ雑誌に載っている店だって、テレビで紹介された店だって、鉄に比べれば劣っている。
……あの美味しいラーメンが、鉄の作ったものではない。じゃあ、誰が?誰があのラーメンを作れるのか?香菜の頭の中で、ぐるぐると思考は回っていた。
「あれは、神崎に作らせたんだよ」
「……陸さんが!?」
信じられないというような目で鉄を見つめたが、彼は嘘なんて吐かない。鉄が言うのであれば、あれは陸の作ったものだったのだ。まったく予想もしていなかった事だが、本当なのだ。
「陸さんは?陸さんは今どこに?」
「あいつなら、今日は先に家に帰らせたよ」
鉄が言い終わらないうちに、香菜は走り出した。後ろで「おい」と自分を呼ぶ声がしたが、頭まで届かなかった。
扉を開け、のれんを潜り、コンクリートの上を走って行く。雨はすっかり上がっていて、澄んだ夜の空気になっていた。街灯に負けない明るい月光が、水溜りに反射している。
(誰かが美味しいって思ってくれるラーメン……!)
陸の食べたラーメンを食べて、素直に美味しいと思った。それを伝えなくてはならないと思うと、いても立ってもいられなくなった。
陸のラーメンに対する情熱は、今まで何度も感じてきた。鉄に怒られても、忙しくても、陸は決して手を抜いたりしなかった。自分の与えられた仕事に、いつも全力だった。そんな人の夢が叶ったのだ。人間の義務として、一瞬でも早く伝えなくてはならない。早く喜ばせてあげたい。美味しかったと教えてあげたい。
(陸さんの夢、叶ってたんだ!)
陸の家を正確には知らないが、前に二丁目だと言っていた。香菜は歩道橋を駆け下り、水溜りを飛び越えた。そして細い路地に入ると、寂れた公園に向かう。そこを越えたところが、二丁目の始まりなのだ。
「おじょーちゃんっ」
公園を抜けようとした、その時だった。低い声が、彼女を呼び止めた。
行く手を阻むように、一人の男が立っている。ちょうど、定年したくらいだろうか。禿げ上がった頭に、所謂メタボ。汚れたシャツの隙間から、ぷっくりとした大きな腹が見えている。おまけにボロボロのジーンズに、サンダルという格好だ。
「一緒にさぁ、食事でもどう?ラーメンでもおごるよぉ?」
「……いいです。あなたとラーメンなんか食べません」
男の虚ろな瞳に一種の怪しさを感じ、足早に通り過ぎようとする。しかし、男の大きな手が、香菜の細い腕を掴んだ。
「おじょーちゃんを食べさせてよぉ」
そう言うと、顔を近付ける。驚いた香菜は、異常な事態であることに気が付いて、離れようと力を入れた。
「や……やめて!いや!」
「うるっせぇよ!このクソ女が!」
耳元で急に怒鳴り散らされ、体がよろけた。その隙に、強く引っ張られる。錆びた茶色いベンチの上に、背中から押し倒された。