Ⅱ
マスターの部屋は悪趣味だった。
「この部屋、写真とって鮎子さんに売ってもいいですか?」
「本当に頼むからヤメテクダサイ」
そして、私の影に隠れたマスターはぐいぐいと背中を押しクモの間に案内する。
「ちょっと! ちょっと!! 押しすぎだから! ぎゃー!!」
前を確認せずにぐいぐい押し続けるマスターの陰謀で、私の顔面にまとわりつくクモの巣。
悲鳴を聞いて、マスターは全速力で走り去りその部屋のドアを閉めてしまった。
「あの男、本当に許さん」
手に握られた新聞紙は日経。
たいして読んでるとも思えない頭の悪い男に私は今、猛烈に怒りを感じていた。
「神妙に勝負!」
日経をくるくる回してクモの巣を絡め取ると、クモは慌てて上へと逃げていく。
クモの大きさは3cm。
車の中であの男は手のひらを広げて「こんなにあった!」と豪語していたけれども、そんなものアマゾンにしかいないと鼻で笑ってやった。
「てい!」
大きくジャンプして、憎らしいほど高い天井からクモをはぎ落とす。
おぬしもここまでじゃ。と心の中でつぶやいて、クモを新聞で包むと私は部屋の扉を開けた。
「外に逃がしてくる」
「ひぃいいい!」
新聞の中にクモがいるとわかると、私から逃げていくマスター。
しかし、タワーマンション。外までが長い。こんなものもってエレベーターに乗り、ロビーを通過して外に出たとき、すこしぐったりした。
毎日毎日これを往復するマスターは意外にすごい。
また長い廊下やエレベーターでの時間をすごし、部屋の前まで戻ってきた私はインターホンを鳴らす。
それは実は数分だったのかもしれないし、数秒だったのかもしれないけれど、私には死ぬほど長い時間に思えたので、高速連打をしてみる。
部屋の中からピンポンピンポンとしつこいほど音が響いてくるのに、マスターは姿を現さない。
頑なな意地で機種変更をしないガラゲーを開き、マスターに連絡するも呼び出したまま出てくれる様子はなかった。
「用済みってこと?」
何だろう、この体の底からわきあがるような熱い気持ちは。
そうだ、怒りだ。私はご立派な白い頑丈そうなドアを思い切り蹴り飛ばし、また長い道のりを経て外へとつながる自動ドアをくぐった。
「どこ、ここ」
道中爆睡していた私が、帰り道などわかるはずもない。
勘を頼りに歩きはじめたとき、街灯の向こうに人影を見つけて少し安心する。
「あの……」
街灯の下でその人の足を止めたとき、私は少し言葉に詰まった。
かっこいい。
スーツを着たその男性は驚いた様子で私を見つめている。
「あ、の。ここの住所を知りたいんです。迷ってしまって」
「あぁ、ここは……」
男性から教えてもらった住所は私の住むところから駅2つ分はなれたところ。
再び湧き上がる怒りを抑え、私はありがとうございます!と駆けていこうとしたときだった。
「歩いていくの? 駅まで送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。ご親切にありがとうございます」
なんという紳士。マスターに少しでもこういう気持ちがあれば私は彼を尊敬できていたかもしれない。いや、ないな。
人懐こい笑顔で目を細めながら彼は続けた。
「知らない人の車だと不安でしょう? 歩いて20分くらいかな、嫌じゃなかったら送らせて。その先で事件とかにあわれたら責任感じちゃうから」
私ははっとさせられた。
そうなのだ。いくらかっこよくて、いくら親切満点でも、この人は見知らぬ人なのである。
何があってもおかしくないご時勢に知らない人に送っていただくのはよくないかもしれない。
街灯が伸ばした影を見つめながら、少し考えて答える。
「いえ、もし私を駅まで送った後に私ではなくてお兄さんに何か起きたら私も責任感じるので、ここで大丈夫です!」
プッと吹き出し、肩を震わせる。ここで「気づかれては仕方ない私は悪の大王だ」とか言われてもおかしくないシチュエーションで、彼は涙をぬぐっていた。
泣かせてしまった。
「あーおかしい子だね。いいよ。夕飯まだなんだ。だから君を送りがてらなんか食べる。何か食べるついでに君を送るから」
笑い泣きするほどのことなのか、そこまで意地になって送りたいのか、何かあるんじゃないのか。
不安が渦巻く中、私は彼の後を歩くことにした。
「ねえ。何でこんなとこにいたの?」
歩き始めてまもなく、彼が問う。
どこからどう説明すれば手短なのか、考えながら少しの沈黙が訪れて、アスファルトと靴底が音を鳴らす。
「勤めている店の店長が男のくせにクモを倒せなくて私を自宅に無理やり連れてきた挙句、倒した後に追い出したんです」
ほーっと間の抜けた相槌をして、少し何か考えていそうな横顔が私へ向く。
「じゃあ店長さんの家があのあたりなんだ」
なかなかの具合で伝わったようだった。
彼が続けて話す。
「俺も虫苦手だなぁ。得意なの?」
「まさか!」
私の妙に力の入った言葉は辺りに響き渡り、驚いたように目を丸くして見つめられて初めて恥ずかしいと思った。
「そうでもしないと帰れない感じだったんです」
今度は意識しすぎて声が小さくなる。
消え入りそうな私に対して、安定してリラックスした様子の声が心地よい。
「でもさ、口実だったら危なかったんじゃない? 男の人の部屋でしょ? 好きな人とかだったの?」
「まさか!!」
アリエナイ。
学習しない私の声は再び静かな住宅地に響き渡り、彼はくすくすと笑い始めた。
「そんなに力入れて否定しなくてもいいのに」
顔が赤い気がする。
多分真っ赤だと思う。目もあわせられなくて、うつむいたとき彼のピカピカの革靴が止まった。
「俺も悪いやつだったらどうする?」
意地悪く笑みを浮かべて私に近づくと、私の足は勝手に数歩下がってしまう。
「俺もって言われても……マスターは何もしてないんですけど」
なぜそこで人の揚げ足をとってやろうと思ったのかは正常ではない私の脳内に聞いてほしい。
「確かにそうだ。俺勝手にその人のこと悪者にしちゃったね」
「十分悪いですけどね」
またゆっくり歩き出す。
きっと私に合わせて歩いているんだと思う。
飼い犬が人を寄せ付けまいとほえている声が聞こえた。
「お腹すいたなー。牛丼とぎょうざだったらどっちがいいと思う?」
「私はぎょうざかなー」
たわいのない会話。
よく覚えていないほど、内容のない、でも不思議と苦痛じゃない。
まったりゆったりと時間がすぎていくのがわかった。
多分波長が合う。というのはこのことなのだろうと、翌日になっておもった。
「沼田沼田沼田ー!」
「お願いだから静かにしてください。話しかけないでください」
ハヤトのやかましいコミュニケーションのとり方にうんざりしていたとき、フッと昨日の人の名前を聞いていないことに気づいた。
また会いたい。そう思うのはこいつといるからなのか、好意なのか。
「昨日さ、マスターの車乗ってどこいってたの!?」
「マスターんち」
大興奮でマジかよ!とガッツポーズしてみせるハヤトを肩でどついて避けながら、冷蔵庫を開けているとまた後ろをべったりとマークされている。
「で? で?」
「クモが怖くてどうもならないから、駆除してくれって言われて、駆除したらそのままカギ閉めてチャイム鳴らしても携帯鳴らしてもムシされましたよ」
私の静かな怒りが彼に伝わり、ようやくあの高すぎるテンションが収まってきた。
「つまり、あの…あの」
「感謝もされず、見え透いた居留守を使われ、歩いて自宅まで帰りましたよ! 徒歩7分の通勤が1時間以上になりましたとさ!」
その日のハヤトはよく働いた。
言われてもいないのに、掃除を率先したり、電話にも飛び掛る勢いででるし。
そして終業時刻間際、マスターの出勤時刻になると落ち着きがなくなって、ソワソワと私の顔色を伺っていた。




