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買ったばかりのブーツで、色づいた葉の絨毯を音を立てて歩くとき少し寂しくなる。
あっという間に粉雪が舞い始める北国で、私は27歳になろうとしていた。
「沼田ちゃん、今日は早番だったんだ?」
「はい。前日23時までの遅番の後、常連客のわがままに付き合ってマージャンを4時まで打たされたのちの5時起きで早番でした。が何か?」
そのわがまま常連客本人の前で露骨な嫌味を述べる私。
悪びれるでもなく、へへへと笑ってみせる中年の狂ったマージャンオヤジ『小島』は前日と同じタバコくさいカシミアのセーターにベージュのパンツで私の前に現れて、今日のマージャンの誘いに来たのだろうというのは明白だ。
「小島さん、私ね27なんだよ。来月で。わかる? 年頃の女の子がさリアルに結婚とか考える時期にさ、オヤジ3人と毎晩寝ないでマージャンって彼氏もできんわ!」
「沼田ちゃん結婚とかそういうの考えてたの!? あ。コーヒー頂戴ね」
席にも座らず、洗い物をする私の前で手をパチパチと打ちながら大爆笑してみせる小島に対して全力で殴りかかりたい衝動を抑える。
私がこのカフェに勤めて5年が経つ。小島との付き合いも5年だ。
「なんと言われようと今日はねダメだよ。しないよ。帰って寝る!!」
頑なな意志が伝わったのか、小島はそのあと昨日の対局の話を永遠として相変わらず席には座らず私の移動するところ移動するところ手渡したコーヒーを飲みながら歩いた。
散々しゃべって11時になろうとしているころ。小島がカップを洗い場において代金を私のポケットに入れる。なかなかのやりたい放題ぶりだ。
「沼田ちゃんがいるかぎり毎日通ってやるよ!」
「うそつけ。キャバのねーちゃんにも同じこと言ってるんでしょ?」
小島がドアを開けるとぶら下がっているベルが大げさに鳴り響く。店を出てから小さく手を上げてウインドウから投げキッスしてみせるとうるさかった店内は2組のお客さんがまだいるものの、静まり返ったようだった。
5年前の私は人見知りで、コーヒーひとつテーブルに置くにも手が震えてどうしようもなかった。
「すっかり仲間か。よく体力持つよな」
小島がいるとホールに出てこないマスターは私よりも5つ年上だ。
すらっとして、おしゃれパーマをあてた髪に無精ヒゲ。女性に大人気な故か女癖がそれはそれは酷い。
何度も女の子が店に、マスターである「加賀谷を出せ」と今にも刺し殺されそうな雰囲気で乗り込んできた。
そんな時も、この人は奥に隠れて
『沼ちゃん、GO!』
と縦じまのカラフルな旗を持って応援だけしている。
マスターが小島を避けるのは、もちろん寝れなくなるから。
私が入る前までは、マスターが毎晩のように付き合っていたようだったが、私を生贄に彼は小島から逃れたのだ。
「かーがーやーくん!」
噂をすれば、幼子から90のおばあちゃんまで抱けるんじゃないかといわれているマスターが絶対に手を出すこのない鮎子さんの登場だ。
「あぁ、おはよう鮎子」
がっつり開いた胸元、白いワンピースはもちろんミニ!
黒いヒールの高いロングブーツまでは網タイツ。ブランド物のバッグをカウンターに置き、くねくねと身をよじりながら近づく度にマスターは後ろへと追い詰められる。
横目で助け舟を求めるマスターの視線が私だけに向けられると、私はため息交じりに言う。
「そういえば土曜日にしかこないお客さまなんですけど、冬休みにハワイ旅行に行くらしくて鮎子さんに話聞きたいって」
鮎子さんは旅行代理店に勤めている。ノルマが厳しくて、なかなか数字が取れないと以前嘆いていたので私もお客様の中でそういう会話があれば鮎子さんに振るようにしていた。
「本当! 沼っちありがとう!! 番号聞いていい?」
マスターからさっと離れ、私が以前お客様から聞いていた番号や情報などを真剣な表情で自分の手帳に書きとめる鮎子さん。
安堵の表情を浮かべるマスターが彼女に手を出さないのは本気だからとかではなく、本気にされてしまうから。
『派手な女だけど繊細な子なんだよ。刺されるとかじゃなく、鮎子が死にそうだからヤダな。夢見悪くなる』
なんて言ってた。どっからどうとっても最低な男だ。
鮎子さんも私とマスターの関係を疑って一時期は蔑んだ目で見られたりもしたけれど、マスターの好みや私の夜な夜なマージャン大会の毎日を知るうちに私への敵意は消えていった。
「沼っちさ、来月の14日開けておいてね!」
「え、わかりました」
手帳から顔を上げた鮎子さんは、濃い化粧ではなくすっぴんの方が可愛い顔をしているんじゃないかと思ったがすぐにマスターへと視線を向ける。
「加賀谷くん! 14日休みにしてあげてね!」
一瞬びくついたマスターも首をかしげながら「あぁ」と答えた。
「あのね。マージャン三昧でテレビも見てなさそうだから知らないと思うけど、この間できたばっかで予約いっぱいのビュッフェのお店ね。予約が取れたの! 沼っちと行こうと思って今日は来たんだー」
「否定できないけど、なんか悔しいです」
この人、たまにそうやって女の子らしいお店に連れて行ってくれるのだけれど、マスターを誘っているのは見たことがない。
うれしくてつい緩む顔を見て「あ」と鮎子さんが続けた。
「7月に行ったときみたいに、お皿が山盛りになるほど盛るのやめてね! 何度でも取りに行っていいから。一度に乱雑に盛るの沼っち!!」
そのときの写真をマスターに見せながら「高級なお店ですから」と笑う。
マスターもうわ、と私を横目で見つめ
「残飯にしか見えない。センスとかそういうもの以前に女としての恥じらいとか皆無だな」
と腕を組んでスマホの画面を見つめた。
「よし。今日はお仕事ももらえたし、沼っちの予定も取れたからかえるねー」
カップに少し残っていたカフェラテを飲み干すと、ちょうどの代金を置いく。
「楽しみにしてるね」と鮎子さんが出て行くのが早かったか、マスターのため息が早かったか。
マスターはすぐに向き直り、私の肩に手を置いてまじまじと見つめた。
「お前の容姿があと3倍良かったら、お前と一緒にいたいと思うくらい俺、お前がいないとダメだわ。食われてた」
「いやいや、私の容姿が3倍よくても悪くても、マスターの嫁にはなりませんから。ご安心を」
男の人はいつまで子どもでいるのだろう。先のこととか考えたことあるのだろうか。
5歳年上とはいえ、幼すぎるこのマスターを見ていると先がますます不安になるのだ。
この後、数名のお客さんが来た。
そして、あがる時間になると遅番の人がホールへ姿を現す。
「沼田、おはよう!」
青春さわやかBOY『ハヤト』
同い年のわりに若く見える。なのに義理人情とかそういうじいさんみたいな精神を持つ、すごく面倒くさい話すだけでエネルギー使うタイプ。
「先輩!おはようございますー」
5つも年下の22歳で彼氏もいて、デザートのことをスイーツと呼んだり、飲むと「とりあえずビール」とは言わないカクテル派、いかにも女の子な女の子『チャコ』
本名は誰も知らない。マスターは履歴書にも『チャコ』だったからついおもしろくて採用した。とのちに語っていた。
「おはよう。あーやっと眠れるー」
なんとなくみんな小島会に参加していたのを察しているのかくすくすと笑い、お疲れ様でした。と送り出してくれた。
今日は休みだけどもう一人『小宮さん』という28歳の男の人が勤めている。
小宮さんは話さない。とにかく無口で、すべてがなぞに包まれていて、色白に切れ長の目とミステリアスなので、マスターは「ユキヒトは影でヤバイ仕事してるんだろう」といっている。
「沼ちゃん、ちょっと待って。俺も上がるわ」
エプロンの紐を解き、上着を身にまとう途中でマスターから声をかけられて少しむっとする。
家の方向は逆だし、待ってる必要がないと心底思っているからだ。
多分すごくわずかな時間だったと思うのに、事務所の小さなデスクでうとうとしていた私は肩を叩かれ目覚めたときになんだかスッキリしていた。
裏口から店の外に出ると目の前は駐車場。車で来ているマスターは歩きながらキーをあけてつぶやく。
「待っててもらって悪いね。で、さ。お願いがあるんだよねー」
こういう切り出し方をするとき、たいていがいいことではない。
私はクルリと背を向けて「今度聞きます」と早足で逃げ出そうとするも、腕をマスターに掴まれて失敗する。
「ま、車に乗って乗って。送るから、送るから!」
「いーやーでーす! 一人で帰れますから! 買い物して帰るし!」
「どこでもつれてってやるから! 頼むよ!」
結局、無理やり助手席に押し込められて、私は窓を見つめマスターに背を向けた。
「聞きたくない。何にも聞きたくないよー。帰りたいー」
「ま、いいから。お前にしか頼めないんだって」
車の中は意外ときれいに片付いていて、シトラス系の香りがした。
電灯が後ろに流れていくのを見つめながら、脳裏にマージャン稗のぶつかり合うジャラジャラ音が聞こえ始める。
「……い!おい」
目が覚めてから自分が寝ていたことに気づく。
そして夢の中でもマージャンをしていたことに。
「どこ! うちじゃないじゃないですか!!」
高いタワーマンションの駐車場で、私は目を丸くする。
マスターはハンドルに頭を凭れるとそのままゆっくり私のほうへ向く。
「実は、俺の家なんだけど」
「何する気ですか!?」
「なんもしないな。お前がするんだよ。やつを倒してほしいんだ……」
「へ?」
マスターの話を要約すると一週間前に大きなクモが現れたようで。そのクモはとても大きくてとても怖い顔をしているので、退治せずにその経過を見守ったそうな。
しかし今朝部屋の中に大きなクモの巣をつくり、居座ろうとしているので退治してほしい。というものだった。
「何もしてないわけじゃない。調べたんだ。やつの名前はオニグモだ!」
今にも泣き出しそうなこの男。
散々渋ったものの、帰れる近道はクモ退治であることに気づき私は首を縦に振るしかなかった。