ノーラ・リクハルド
彼には作るべき法律がある、とるべき手段がある、仕えるべき国のため奔走する義務があった。
ベルカル人、スヴィンダ国ノーラ・リクハルド王子は窓際に座りつややかな毛並みに光を受けながら壁にかかった地図を見ていた。
政務室は四つある壁のうち一つの壁面全部に大きな地図を張り付けている。
ノーラ王子がこの部屋を受け継ぐ以前、五代前までは自国の地図だけが手が届く範囲に貼ってあった。
たくさんの領主たちがしのぎを削っていた時代はどの星よりも熾烈な戦い方をしていたが、それに終止符を打つ時は壮絶な代償と引き換えにやって来た。
それまでは小さな部族ごとに別れ集落を作って暮らしていたがより多くの頭数を必要とする戦いに代わると大きな街とそれを統治する強者も現れた。
戦いに勝ち名を馳せて虎視眈々と次の獲物へ睨みを利かせている最中、森からやって来た目に見えない病は瞬く間に伝染し多くの命を奪っていった。
大挙する軍勢に気持ちを震わせていた領主は戦の終結が全く思いもよらぬ結果になり唖然とした。
地図から街が一つ消え、病気が蔓延した都市は誰も近づかず荒れるに任せていた。
小さな集落で起きていた病は大きな都市を一つ軽く消え去るだけの威力があると分かると皆その原因を探し求めた。
古くは呪術師の呪いのせいだと言い、土地の精霊のせいだと言ったが誰も正確な理由は分からない。
恐れるべきは領地を狙う隣人ではなく得体の知れぬ病であるとベルカル人に知れ渡ると、勇敢なベルカル人研究者は病を知るために誰も近寄らない殲滅した街に入り研究を始めた。
我こそはベルカル人の救世主にならんと研究者の数は増え続け、権力者も民衆のトップに立つには力だけではなく病に立ち向かう姿勢を示すようになった。
他の惑星へ航行する技術がもたらされてもベルカル人の一番恐れる病(トリガ)に有効な治療薬を見つけることは出来ないでいた。
多くの研究者は方向性を変えた、治療薬が無ければ病(トリガ)に勝てる身体を作れば何も恐れることは無い、しかしその道は簡単ではない。
近代、細胞の構造の詳細まで観察し菌に対処する方法を探っていたベルカル人はマイクロスコープと形状測定機の圧倒的な進化を持ってしても病の原因と治療法は見つけられないでいる。
病(トリガ)は大地の至る所にある森の中に生息する菌で、一定の温度に達するとトリガに変貌するのである。
この菌を一掃するには大地に根付いた植物を焼却処分にするほかは無く、正体が分かっても手をつけられない現状に変わりは無く、菌の研究も進み解明される事柄は増えたが、明るい展望はまだ見えてはいない。
熱い夏を恐れずに過ごすにはベルカル人そのものの身体に、菌に対する抵抗力、抗体を持たせる以外無いがトリガにかかったベルカル人の生存率は皆無である。
そんな時ベルカル人を形成する最も小さな構造遺伝子を研究するグループは、特別なたんぱく質が遺伝子に影響を与える事を発見した。研究者たちは大地にあるたんぱく質を収集し知能機械にかけてシュミレーションを繰り返し、有効だと思われる一千万単位の組み合わせも失敗に終わった。
王子の専門は細菌学、王族の古い歴史の途中から民衆に尽くすという考えは生まれ、公職に就く者は遺伝子に関する項目を熟知することは必須条件として、王の親族は国民に対して、菌の脅威を取り除くのが代々受け継がれた命題である。
壁にかかった地図は大きくなりノーラ王子の版図も広大なものとなったが、住みやすい土地は見捨てられ生存しているベルカル人は不測の事態を考慮し集落は散在し、宇宙一と言われる医療技術を持ちながら暮らしむきは後退しているのが現状なのだ。
政務室のもう片方の壁にはびっしりと並べられたファイルの列が天井まで重なっている。
ベルカル人が住む星だけでなく空の向こう側には見た事もない他星人たちがいると子供心にわくわくしていた気持ちは今は無い。
大きな一つの原因は亜種差別という壁だが、その壁を遮二無二乗り越えて探した特別なたんぱく質、特別な遺伝子を見つける事は出来なかった。
ベルカル人の趣旨をスアレム人にだけは伝え、宇宙議会が作った緊急医療チームに率先して参加したのは自国の医療技術を自慢するためでも他星に技術を売るためでも無かった。
他星人の遺伝子情報欲しさにノーラ王子はすさまじい他星の内乱のまっただ中に自ら身を置いた。
それも徒労に終わった。シュミレーションして良い結果になった例は少ない、稀に突然変異の遺伝子の誕生を待てば活路あった。
だがその可能性は極めて低すぎて、もし突然変異の遺伝子を持ったベルカル人が誕生してもそれは明日にでも見つけなければ未来にベルカル人は一人も残っていないことになる。
住みやすい平地を離れ海抜の高い場所に移動し熱い夏を乗り切っている。
それでもある日一つの村から病の発症は伝えられる。病トリガの蔓延した村や町はすぐに捨てられベルカル人は高地へと居住区を移動させ菌の猛威から逃れるのだ。
壁の地図を眺めていたノーラ王子は扉が控えめにノックする音に気が付いた。




