飛行船L59 ―友軍13,000名を救う航海に出よ!―
1917年11月21日、未明。
ドイツ同盟国、ブルガリア・ヤンブル飛行船基地、第一格納庫。
そこには、巨大な沈黙が横たわっていた。
全長226メートル。飛行船L59。
鈍い銀色に輝くその巨躯は、格納庫の隅々までを支配し、吐き出される吐息さえ吸い込むような威圧感を放っている。
その巨大な影の下に、一人の若い将校が立っていた。
ハインリッヒ・フォン・マイヤー少尉。
最新の航空力学を修めた彼は、自分の頭上にそびえ立つ「壁」を見上げ、隠そうともせずに鼻で笑った。
「……驚きました。本当にこの『空飛ぶガスボンベ』で、アフリカまで行くつもりですか、ボックホルト中尉」
艦長、ルードヴィヒ・ボックホルト中尉は、積み荷の木箱の封印を確認していた手を止め、ゆっくりと振り返った。その顔には、ロンドン爆撃という死線を幾度も潜り抜けた男だけが持つ、剃刀のような鋭さが刻まれている。
「不満か、少尉」
「不満ではなく、科学的な疑問です。今の空は、時速200キロで舞う戦闘機のものです。100キロ程度の鈍重な飛行船はすでに標的に過ぎない。ましてや目的地は5,800km先のマヘンゲ……。片道分の燃料を積むのが精一杯だ。」
ボックホルトは答えず、足元の木箱を指差した。
「中身は何だと思う」
「……弾薬ですか?」
「いや、マラリアの特効薬『キニーネ』だ。300万錠ある」
ボックホルトは一歩歩み寄り、少尉を射抜くような目で見つめた。
「今この瞬間、ドイツ領東アフリカ、マヘンゲの泥の中で、フォルベック将軍率いる13,000名の友軍が、熱病に焼かれながら死を待っている。イギリス海軍が海を塞いだ今、彼らを救えるのは、この空のクジラだけだ」
ハインリッヒが息を呑む。ボックホルトの声は、さらに低く、重くなった。
「たしかに君の言う通りだ、ハインリッヒ。
飛行船はもう、爆弾を落として誇らしげに帰ってくる主役じゃない。焼夷弾一発で火だるまになる、時代遅れの遺物だ。……たしかに、このままでは飛行船は不要になる」
「……では、なぜ」
「……しかし、それは今日じゃない。」
ボックホルトは、巨大な船体の腹部に手を当てた。
「今、13トンの命を積んでサハラを越えられる機体は、世界にこのL59一隻しか存在しない。未来の空は君たちの飛行機に任せよう。だが、今の窮地を救うのは、我々飛行船乗りの仕事だ」
ボックホルトが合図を送ると、格納庫の闇から男たちが姿を現した。
艦長以下、総勢21名の精鋭。ロンドン空襲を生き抜いた、死神の顔見知りたちだ。
船体中央のエンジン・ゴンドラから、オイル塗れの顔を出したのは機関長のカールだった。
「少尉、あんたの計算尺に『エンジンの機嫌』って項目はあるかい?」
彼は巨大なスパナを腰に差し、脂ぎった笑みを向けた。
「5基のマイバッハが奏でるコーラスが、少しでもズレりゃ、俺たちの命は地中海の藻屑だ。だがな、こいつらは分かってやがる。自分たちが、アフリカで戦う友軍の命を背負ってるってことをな」
「機関長、燃料パイプの点検は?」ボックホルトが問う。
「完了してます、中尉。地獄の果てまで回し続けてやりますよ。たとえ最後はこいつをバラして、発電機に作り変える運命だとしてもな」
ゴンドラの隅では、若手の機付兵エルンストが、気嚢(ガスの袋)の表面を愛おしそうになぞっていた。
「エルンスト、そこはさっき見たはずだぞ」
操舵手のハンスが声をかける。
「ハンスさん……。この船を降りる時、僕たちは自分の手でこの布を切るんですよね。だったら、空にいる間だけでも、最高に綺麗な状態で飛ばせてやりたいんです。破れなんて、一箇所もあってたまるか」
21名の乗員。それぞれが、この「銀のクジラ」を単なる輸送手段ではなく、最後を見届けるべき戦友として扱っていた。
「重作業員、配置につけ!」
ボックホルトの号令と共に、巨大な格納庫の扉がゆっくりと左右に分かれた。
外には、暗いブルガリアの荒野と、その先に続く果てしない南の空が広がっている。
「ハインリッヒ、お前の役割は計算だ。風向き、ガス圧、燃料消費。一滴の油、一リットルの水素も無駄にするな。お前の数字が、このクジラの寿命を1ミリでも伸ばすんだ」
ハインリッヒは、手汗で滲みそうになる計算尺を握り直した。カールの油の匂い、エルンストの決意、そしてボックホルトの静かな狂気。それらすべてが、今、ひとつの塊となって浮き上がろうとしている。
「……計算通りなら、このまま月まで行けますよ。中尉」
ボックホルトは微かに口角を上げると、外の地上要員に向けて右手を高く上げた。
「……全索を放せ!」
ボックホルトの号令が夜の空気に突き刺さる。
数百人の地上作業員が一斉に手を離し、L59を繋ぎ止めていた数トンの重圧が消えた。
次の瞬間、巨大な「銀のクジラ」が、生物のような微かな震えを見せた。
「バラスト放出、開始!」
ハインリッヒが叫ぶ。艦首と艦尾の放出弁が開き、数百リットルの水が、まるでクジラの潮吹きのように夜の滑走路へ降り注いだ。
※【飛行船は浮力調整のため、上昇時には機体重量を減らす目的でバラスト(水など)を投棄した。
逆に降下時には浮揚ガス(水素など)を放出し、浮力を下げて高度を落とした。
――当時の飛行船は、空気より軽いガスと重量調整によって空を制していた。】
一気に軽くなった船体が、深海から浮かび上がる泡のように、音もなく地上を離れる。
「高度50……100……。上昇率、毎秒2メートル。安定しています」
ハインリッヒが計器を睨み、計算尺を叩く。
格納庫の天井灯が遠ざかり、代わりに漆黒の夜空がゴンドラの窓いっぱいに広がった。だが、まだL59は風に流される「気球」に過ぎない。
「機関科、エンジン始動!」
伝声管を通じて、ボックホルトの声が船体各所のエンジン・ゴンドラへ飛ぶ。
機関長カールが、五基のマイバッハ・エンジンの始動レバーを順に引き倒した。
ガガッ、ガガガガガッ……!
金属同士が噛み合い、爆発が起きる。一基、また一基と、巨大なプロペラが冷たい大気を切り裂き始めた。
「一番機、点火! 二番、三番……全基、正常! 暖気運転、完了だ!」
カールの怒鳴り声と共に、船体全体に力強い振動が伝わった。それは、この銀色の巨獣に「心臓」が宿った瞬間だった。
「ハンス、舵を取れ。進路、南南西。目標、地中海!」
「了解です、中尉!……いいか、お転婆娘。大人しく俺の言うことを聞きな!」
操舵手のハンスが、巨大な舵輪を力強く回す。
船尾の巨大な方向舵が動き、プロペラの後流を掴んだ。
ただ浮いているだけの巨大な塊が、その瞬間、明確な「意志」を持って夜空を切り裂く「船」へと変貌した。
「全エンジン、巡航回転数へ。……高度300。ヤンブル基地が、あんなに小さくなりました」
ハインリッヒが窓の外を見下ろす。
眼下では、地上作業員たちが振るカンテラの光が、まるで遠い星屑のように明滅していた。
「見ていろ、ハインリッヒ。これが我々の戦いだ」
ボックホルトは、計器盤の淡い光に照らされながら、闇の先を見据えた。
13トンの物資を飲み込んだ銀のクジラは、5,800キロメートル先の絶望を救うため、二度と戻らぬ航路へとその機首を向けた。
水平線の彼方から、冬の星座たちが、この時代遅れの挑戦者を見下ろしていた。
夜の静寂がL59を包み込み、5基のマイバッハ・エンジンの重低音だけが、巨大なクジラの心音のように船体を震わせていた。
・・・・
深夜2時。L59は高度1,200メートルを維持するために、目に見えない格闘を続けていた。
夜の冷気が船体内の水素を収縮させ、浮力が刻一刻と失われていく。
「高度、さらに50下がりました。……バラスト第4弁、開放しますか?」
ハインリッヒが伝声管を握り、ボックホルトを振り返った。計算尺を叩く彼の指先は、極度の緊張と冷気で白くなっている。
バラスト(重り)の水は、一度捨てれば二度と戻らない。アフリカまでの5,800kmを考えれば、一滴の水さえ「命の重さ」を持っていた。
「待て。今はまだ早い。……ハンス、昇降舵を4度上げろ。エンジンの回転数を50上げ、動的揚力で高度を稼ぐ」
ボックホルトの指示に従い、ハンスが舵輪を微調整する。プロペラが夜空を噛む音が一段と高くなり、船体がわずかに機首を上げた。巨大な機体が、空気の層を這い上がるようにして沈下を食い止める。
数分の沈黙。やがて高度計の針が安定した。
「……水平維持。高度1,180で安定しました」
ハインリッヒが深く息を吐き、計器盤の影に腰を下ろした。ボックホルトは、ポケットから銀のスキットルを取り出し、無言で少尉に差し出した。中身はアルコール度数の高いブランデーだ。
「……ありがとうございます」
ハインリッヒは一口煽り、喉を焼く感覚に顔をしかめた。そして、暗闇に浮かぶ巨大な船体の中壁を、どこか冷めた目で見つめた。
「中尉。この船を見ていると、時々、私たちの祖国そのものを見ているような気分になります」
「祖国、だと?」
「ええ。美しく、巨大で、しかしあまりにも脆い。……この気嚢を支えているのはヘリウムではなく、火がつけば一瞬で終わる水素だ。アメリカがヘリウムを独占し、我々への供給を拒んでいるから。……『持たざる国』の悲哀ですよ」
ハインリッヒは自嘲気味に笑った。
「イギリスやフランスが世界中の美味い席をすべて占領した後で、我々ドイツがようやく食卓に並ぼうとした時には、もうパンの屑しか残っていなかった。出遅れた植民地獲得、そして今の海上封鎖……。海を塞がれたから、火薬一発で灰になる水素のクジラに乗って、空を泳ぐしかない。……滑稽だと思いませんか」
ボックホルトはスキットルを受け取り、窓の外の漆黒を見つめた。
「滑稽かもしれんな。だが、ハインリッヒ。我々が今使っているこの水素こそが、ドイツの執念そのものだとは思わないか?」
「執念?」
「ヘリウムがないから諦めるのではない。爆発する危険を承知で、それを手なずけ、飛ばそうとする。
資源がない、土地がない、出口がない……。その『ない』の果てに、知恵と勇気だけで道をこじ開けるのが我々のやり方だ」
ボックホルトは、足元に眠る補給物資に思いを馳せるように言葉を継いだ。
「この船が水素で満たされているのは、我々に選択肢がなかったからだ。だが、その危うい浮力だけが、今、アフリカで死を待つ友軍を救える唯一の希望なんだ。持たざる者が、持てる者を凌駕する……。この銀のクジラは、そのための挑戦状だよ」
ハインリッヒは、ブランデーの余韻が残る喉を鳴らした。
エリートとして学んできた航空力学では、「水素は危険であり、避けるべきもの」だった。しかし、この密室のようなゴンドラでボックホルトの言葉を聞いていると、その危険なガスさえ、祖国の意地が形を変えたもののように思えてくるから不思議だった。
「……マヘンゲに着いた時、この水素を抜くのは私の役目ですね」
「ああ。その時、この船は空の歴史を終え、地上の礎になる。……それまでは、この『危うい夢』に付き合ってもらうぞ、少尉」
ボックホルトは、再び水平線の先、まだ見ぬアフリカの空へと視線を戻した。
深夜の艦内。エンジンの唸りだけが、二人の会話を吸い込んでいった。
・・・・
午前10時。L59はクレタ島南方、地中海の真っ只中にいた。
海面は穏やかだが、陽光は残酷なまでにこの「銀のクジラ」を照らし出している。
「ハインリッヒ、太陽光によるガスの膨張率は?」
ボックホルトの問いに、ハインリッヒは計算尺を弾きながら即答した。
「限界値の80%に達しています! 排気弁を開いて水素を逃がすべきですが……それをやれば夜間の浮力が持ちません」
「……耐えろ。まだ開けるな」
その時、見張り台にいたエルンストが伝声管に叫び声を上げた。
「敵機、10時方向! 雲間から急降下してきます!」
ゴンドラの窓からハインリッヒが目を凝らす。
青い空に、二枚の翼を持つ小さな影――イタリア海軍のマッキ M.5 水上戦闘機だ。その軽快な機体は、鈍重なクジラを嘲笑うかのように、距離を詰めてくる。
※【マッキ M.5 は、小型軽量の水上戦闘機で、最高速度はおよそ190km/h前後に達した。
時速100kmほどで巡航する飛行船に対しては、追従・追撃ともに十分な速力差を持っていた。
旋回性能にも優れ、巨大だが鈍重な飛行船にとっては、脅威となりうる俊敏な存在だった。】
「戦闘配置! 機銃班、撃て!」
L59の背中、そしてゴンドラ左右に配置された機関銃が火を噴いた。
タタタタタタタタ!
空気を引き裂く乾いた音が、静かな航海を一変させる。
イタリア機のパイロットもまた、精鋭だった。
彼はL59が「水素」で満たされていることを知っている。焼夷弾を一発、気嚢に叩き込めば、この銀色の巨獣は一瞬で巨大な火柱に変わる。
「ハンス、面舵いっぱい! 奴に背中の死角を取らせるな!」
「分かってまさぁ、中尉!……カール、エンジンの回転数を上げろ! 逃げるんじゃない、奴の鼻面に銃座を向けるんだ!」
機関長のカールが、悲鳴を上げるマイバッハ・エンジンのレバーを押し込む。
「無茶を言うな! だが、ここで焼かれたらアフリカの連中に顔向けできねえ!」
敵機が機首を下げ、まっすぐにL59の腹部を狙って突っ込んできた。
イタリア機の機銃が火を噴き、ジュラルミンの骨組みを弾丸が叩く不気味な音が艦内に響く。
「……右舷、第3気嚢に被弾!」
エルンストの声が響く。
「ハインリッヒ、計算しろ! 奴が次に潜り込んでくる位置はどこだ!」
ボックホルトの問いに、ハインリッヒは恐怖を押し殺し、空中の敵機の軌道を脳内の座標に叩き込んだ。
「……15秒後、機首の下を潜って右舷後方へ抜けます! そこが唯一、こちらの機銃が届かない死角です!」
「……そうか。ならば、その死角をくれてやれ」
「中尉!?」
「ハンス、あえて右に傾けろ! 敵を誘い込め!」
ボックホルトの賭け。
巨大なクジラが大きく右に傾斜する。イタリア機のパイロットは、勝機と見てL59の腹下へ潜り込んだ。しかし、そこにはボックホルトの最後の一手が待っていた。
「イタリア機がL59の「死角」に飛び込みました!」
イタリア機のパイロットは確信していた。
「勝った。この巨躯、腹下に入り込めば手出しはできまい」
銀色の外壁が視界を埋め尽くす。焼夷弾の引き金に指をかけ、水素の海を火の海へ変えようとしたその瞬間――。
「今だ! バラスト第3弁、強制開放!」
ボックホルトの鋭い声と同時に、ハインリッヒがレバーを力いっぱい引き倒した。
イタリア機が狙いを定めていたL59の腹部、その排出口から、数百リットルの「水」が凄まじい勢いで放出された。
「なっ……!?」
イタリア人パイロットの視界が、突如として白い奔流に飲み込まれた。
高度2,000メートルで放たれた水塊は、重力に従って加速し、時速200キロ近い「水の壁」となって複葉機の翼を叩きつけた。木製の華奢な翼が悲鳴を上げ、機体は激しい乱気流に巻き込まれて木の葉のように反転する。
「……計算通りです! 奴の姿勢が崩れた!」
ハインリッヒが叫ぶ。
「ハンス、さらに右へ! 機首下の1番銃座、射線確保!」
L59がさらに身をよじらせるように傾くと、機首下部に隠されていた機銃座が、無防備に腹を晒したイタリア機をその照準に捉えた。
「撃てッ!」
タタタタタタタタタタタ!
機関銃が火を噴き、曳光弾が青空を切り裂いてイタリア機のエンジンカウルを粉砕した。黒煙が吹き上がり、マッキ M.5は力なく海面へと向かってきりもみ状態で落ちていく。
「……墜落を確認。パイロット、脱出しました。パラシュートが開いています」
「……ハンス、面舵。元の航路へ戻せ」
「了解、中尉。……ったく、ハインリッヒの旦那、今の水鉄砲は最高だったぜ!」
ハンスが豪快に笑いながら、巨大な舵輪を引き戻す。
戦闘が終わり、再びエンジンの重低音だけが響く静寂が戻った。
だが、艦内の空気は確実に変わっていた。
最新の航空理論を語っていたハインリッヒは、今やオイルと火薬の匂いにまみれ、自分の計算が「命」を左右したという重圧に耐えながら、再び計算尺を握り直している。
「……中尉。失ったバラストの分、これからの高度維持はさらに厳しくなります。夜間の冷え込みで、船体は今の計算よりも100メートルは余計に沈むでしょう」
「対策はあるか、少尉」
ハインリッヒは、唇を噛みながら地図の先――リビアの海岸線の先にある、広大なサハラ砂漠を指差した。
「日中の砂漠の熱を利用します。捨てた水の分、上昇気流を捕まえて高度を稼ぐしかない。……綱渡りですが、やってのけるはずです」
ボックホルトは、微かに満足げな笑みを浮かべた。
「よし。総員、次の難関に備えろ。……サハラが我々を待っている」
太陽は中天に達し、銀色のクジラは傷ついた翼を誇らしげに輝かせながら、ついに暗黒の大陸、アフリカの入り口へとその影を落とした。
深夜の診察:傷ついたクジラ
地中海を南下するL59の艦内は、エンジンの重低音と、風を切る単調な風切り音に支配されていた。
ハインリッヒ少尉は、懐中電灯を片手に艦内のキャットウォークを巡察していた。
※【キャットウォークとは、飛行船の船体外部や内部に設けられた細い通路のことである。
乗員はここを移動し、機関部の点検や索具の調整、緊急時の修理作業を行った。】
「……中尉、損傷の最終確認です」
艦橋に戻った彼は、手帳を広げた。
「イタリア機の銃撃により、第3、第4気嚢の外皮に数箇所の貫通痕。幸い、エルンストが素早くパッチを当てました。ガスの漏出は無視できるレベルです。……ただ、あの戦闘で放出したバラストのせいで、燃料消費と浮力のバランスに4.5%のズレが生じています」
「許容範囲だ。……ハンス、交代の時間だ。少し目を閉じておけ」
ボックホルトが声をかけると、舵輪を握っていたハンスが大きく肩を回した。
「アイ・アイ・サー、中尉。……ったく、あのお転婆娘、一発お見舞いしてやったら、すっかり機嫌を直しやがった」
ハンスは、交代の操舵手と交代する際、舵輪のスポークを一撫でした。それが、死線を共にした相棒への彼なりの労いだった。
ボックホルトとハインリッヒは、非番の乗員たちが休む居住区を通り、エンジン・ゴンドラへと向かった。
狭い通路には、毛布にくるまった男たちが横たわっている。彼らが眠るすぐ上には数万立方メートルの水素が詰まっているが、その寝顔に怯えはない。
エンジン・ゴンドラへ続くハッチを開けると、オイルの焼ける匂いと凄まじい熱気が二人を襲った。
そこには、冷えたジャガイモをかじりながら、5番エンジンの吸気弁を睨みつける機関長カールの姿があった。
「カール、交代の時間だぞ」
「……中尉。……こいつの『心音』が少し高い。イタリア野郎の弾丸が、冷却パイプを掠めてやがったんですよ。ほんの数ミリの凹みですがね、それが熱の巡りを変えちまう。今、整えたところです」
カールは、油にまみれた手でエンジンの筐体を叩いた。
「もう大丈夫だ。こいつはマヘンゲまで、一秒も止まらずに回り続ける。俺がそうさせます」
「頼むぞ、機関長」
ボックホルトはカールの肩を叩き、静かにハッチを閉めた。
艦橋に戻ると、東の空がわずかに白み始めていた。
地中海の深い青が終わり、海面の向こうに、乾いた土の色をした線が一本、水平線を横切っている。
「……アフリカ大陸。リビアの海岸線です」
ハインリッヒが双眼鏡を覗き込み、低く言った。
乗員のうち、当直の者たちが一斉に前方を見据える。そこは、一度踏み込めば二度と基地には戻れない、引き返し不能地点だ。
「総員、配置につけ」
ボックホルトの声が、伝声管を通じて全艦に響く。
非番だった男たちが素早く起き上がり、それぞれの持ち場――銃座、エンジン、バルブ、無線機へと散っていく。
「これよりサハラ砂漠に入る。……ここからは空気が、そして熱が我々の敵だ。一人も欠けることなく、この荷を届けるぞ」
「ハッ!」
短い、しかし鋭い返声が、夜明け前の静寂を切り裂いた。
銀のクジラは、太陽の光をその背中に受けながら、ついに灼熱の砂漠へとその巨躯を滑り込ませた。
・・・・
嵐の前の、死のような眠り
11月21日、22時。アフリカ大陸まで残りわずか。
ボックホルトは、交代要員のハンスたちに舵を預け、自らも椅子に座って深く帽子を被った。
「ハインリッヒ、2時間だけ目を閉じろ。ここから先は、我々二人の脳がこの船の動力になる」
ハインリッヒは答える間もなく、計算尺を握ったまま床に崩れるようにして眠りに落ちた。艦内を支配するのは、エンジンの単調な唸りと、非番の乗員たちの重い寝息。それは、これから始まる「地獄」への、束の間の猶予だった。
・・・ ・
2日目、11月22日、午後。出撃から34時間。
L59は、リビアからサハラ砂漠の核心部へと足を踏み入れていた。
目が覚めた時、世界は青から「暴力的なまでの黄金色」へと変わっていた。
「……温度計が48度で止まった。壊れたのか、それともこれが現実か」
ハインリッヒが汗を拭いながら、歪んで見える計器を睨む。
太陽光が銀色の外皮を焼き、内部の水素はかつてないほど膨張していた。気嚢がパンパンに膨れ上がり、ジュラルミンの骨組みが「ミシミシ……」と内側から引き裂かれそうな悲鳴を上げている。
「中尉! 第2、第5気嚢の圧力がレッドゾーンです! 排気弁を開けないと破裂します!」
「……耐えろ。まだだ。今捨てれば、今夜の浮力がなくなる」
ボックホルトは不動の姿勢で、陽炎の向こうの砂丘を見つめていた。だが、ついに限界が来る。船体中央部で気嚢が膨らみすぎ、歩行通路が歪み始めたのだ。
「……5秒だけだ! 排気弁、開放!」
シュウウッ――! 乾いた音と共に、貴重な水素が熱い大気へと逃げていく。それは、このクジラの「寿命」を削る音だった。
水冷エンジンの断末魔
エンジン・ゴンドラでは、機関長カールがラジエーターから噴き出す蒸気に巻かれていた。
「エルンスト! 砂塵フィルターを替えろ! 10分おきだ! 水冷パイプの圧はどうだ!」
水冷マイバッハ・エンジンの宿命。砂漠の細かな砂が吸気口を塞ぎ、ただでさえ高い外気温が冷却システムの限界を試していた。水が沸騰し、圧力が上がれば、パイプが破裂してその時点でエンジンは止まる。
「機関長、予備の冷却水が足りません!」
「……俺たちの飲み水を注ぎ込め! 一滴もこぼすんじゃねえぞ。これはマヘンゲの連中の命なんだ!」
カールは自分の水筒をラジエーターの注入口に逆さにした。彼の目は血走り、熱せられた鋼鉄の心音を聞き分けようと、配管に耳を押し当てていた。
・・・・
夜。サハラは一転して氷の世界へと変わった。
膨張していた水素は急激に収縮し、L59は巨大な鉛の塊となって砂丘へと引きずり込まれようとする。
3日目、11月23日、深夜2時。
「高度、200……150……。中尉、このままでは砂に呑まれます!」
ハインリッヒの報告に、艦橋に緊張が走る。日中に水素を捨てすぎた代償だ。
「……バラストはもうない。ハンス、機首を上げろ。全エンジン、最大戦速だ!」
ボックホルトの賭け。
砂漠の地表が夜間に放出するわずかな「放射熱」による上昇気流を、超低空飛行で捉えようというのだ。
「……100メートル。……50メートル。……中尉、砂を噛みますよ!」
ハンスが、冷や汗で滑る舵輪を力いっぱいに抱え込む。
暗闇の中、L59の腹部が巨大な砂丘の頂を掠めた。
「シュッ……」という乾いた音が、ゴンドラの床板を通じて伝わってくる。20名全員が、息を止める。窓の外には、触れられそうなほど近くに、月光に照らされた砂の波が流れていた。
……やがて、船体はわずかな熱の浮力を得て、再び闇の中へ浮上していった。
「……助かったのか」
ハインリッヒが、震える指で計算尺を握り直す。
だが、その時、無線室から一人の男が這い出すようにして現れた。その手には、震える文字で書かれた一枚の紙があった。
『作戦中止(ABRUCH)。マヘンゲ陥落。帰還せよ』
「……中尉。……これを見てください」
砂漠の冷気よりも鋭い「絶望」が突き刺さった。
・・・・
11月23日、午前3時。サハラの極寒が、L59の水素を無慈悲に収縮させていた。
通信兵が差し出した、ベルリンからの『ABRUCH(中止)』の電文。
「……マヘンゲ陥落。帰還せよ、か」
ボックホルトは、その紙を握りつぶすことさえせず、ただ暗い窓の外へ視線を投げた。
ハインリッヒ少尉は、凍りついた指で計算尺を叩き、震える声で告げた。
「中尉、マヘンゲまでは……まだ2,400kmあります。この電文が事実なら、我々は存在しない友軍のために、貴重な燃料を空に捨て続けていることになります」
「……」
「今すぐ反転すれば、ギリギリで地中海までは戻れるかもしれない。ですが、あと一時間でも南下を続ければ……我々は二度と北の土を踏むことはありません。数字は残酷です。」
ボックホルトはゆっくりと振り返った。不眠で血走ったその瞳には、ハインリッヒが期待した「撤退」の色は微塵もなかった。
「ハインリッヒ、君は今、『存在しない友軍』と言ったな」
「……言いました。司令部が公式に陥落を認めた以上……」
「司令部は、この空の上にある13トンの薬の重さを知らない。奴らは机の上で数字を動かしているだけだ。」
ボックホルトは一歩歩み寄り、ハインリッヒの胸倉を掴んで、計器盤へ押し付けた。
「いいか、ハインリッヒ。我々が信じるべきは、ベルリンの電信ではない。マヘンゲでまだ引き金を引いているはずの、フォルベックの兵たちの執念だ。……計算尺を捨てろ。現状で帰還は困難だ。我々は引き続き南下する。」
「……め、命令違反。……ですが」
ハインリッヒは、ボックホルトの目を見つめ返した。
「……私も、航法士である前にドイツの将校です。マヘンゲに軍旗が一本でも残っている可能性があるなら……燃料計を叩き壊してでも、そこへ届けてみせますよ」
「ハンス! 舵を戻すな。進路はそのまま、南だ!」
「合点だ、中尉! 帰り道なんて、ハナから気にしてねえ!」
ボックホルトの怒声と共に、L59は巨体を震わせながら南へ押し進み始めた
燃料消費を度外視した過負荷運転。5基のマイバッハ・エンジンが、サハラの冷気を吸い込んで断末魔のような咆哮を上げる。
・・・・
11月23日、夜明け。
地平線が血のような赤に染まり、前方に巨大な積乱雲の「壁」が現れた。
「……中尉。あれを避ける燃料は、もうありません」
ハインリッヒが、嵐の稲妻に照らされた顔を上げた。
「……案ずるな。アフリカの神が、我々の覚悟を試しているだけだ」
ボックホルトは、セントエルモの火で青白く光り始めた窓枠を掴み、真っ直ぐに嵐の心臓部を指差した。
「突っ込めッ!」
銀のクジラは、退路という名の全ての鎖を断ち切り、咆哮を上げながら、雷鳴轟く暗黒の雲中へとその巨躯を滑り込ませた。
彼らの前にはもう、数字では計れない「奇跡」への道しかなかった。
L59が積乱雲の「壁」に突っ込んだ瞬間、世界から水平が消えた。
巨大な上昇気流が銀色の腹を突き上げ、226メートルの巨躯が、木の葉のように垂直に跳ね上がる。
「高度計が狂った! 1,500、2,000……まだ上がります! 中尉、気嚢の圧力が抜けない! 破裂します!」
ハインリッヒは、浮き上がる体を計器盤に押し付けながら叫んだ。
「自動弁を信じろ! ハンス、機首を下げろ! 抑え込め!」
ボックホルトの怒号も、乱気流が船体を叩く轟音にかき消される。
船体各所から、ジュラルミンの骨組みが悲鳴を上げる「ミシミシ……」という音が、死のカウントダウンのように響いていた。
次の瞬間、凄まじい衝撃と共に、艦内が真っ白な光に包まれた。
落雷。
一瞬の静寂の後、窓枠や計器、さらにはハインリッヒの指先から、青白い火花がチリチリと音を立てて噴き出した。
「セントエルモの火……! 水素に、水素に引火するぞ!」
ハインリッヒは絶望に目を剥いた。もし一箇所でも外皮が破れ、漏れ出した水素にこの静電気が触れれば、彼らはアフリカの空で最も巨大な松明となる。
しかし、エンジン・ゴンドラではカールが吠えていた。
「止まるなマイバッハ! 風も雨も、すべて飲み込んで回りやがれ!」
水冷エンジンのラジエーターは沸騰し、蒸気が男たちの視界を奪う。だが、カールの手は狂ったようにバルブを回し、出力を維持し続ける。荒れ狂う大気の中で、エンジンの推進力だけが、彼らを「気球」から「船」に繋ぎ止めていた。
数十分にも、あるいは数時間にも感じられる死闘の末。
L59は、積乱雲の「出口」という名の断崖から、叩き出されるようにして飛び出した。
「……静かだ」
ハインリッヒが、震える手で顔の汗を拭う。
窓の外には、嵐を抜けた後の、あまりにも残酷で美しい赤道の青空が広がっていた。
「ハインリッヒ、現在地は」
ボックホルトの声は、もはや喉の奥で擦れる音に近かった。
「……ビクトリア湖の東方。マヘンゲまで、残り約640km。……燃料は、計算上まだ保ちます。嵐の中での過負荷運転で消費は嵩みましたが、マヘンゲ到着分は残っています」
ハインリッヒが地図を確認しようとした、その時。
澄み切った青空の向こう側に、不自然な黒い点が三つ、陽光を反射して光った。
「……中尉。11時方向。……高度、同じ」
ハインリッヒの声が、再び緊張で強張った。
双眼鏡を覗き込むまでもない。積乱雲を抜け、消耗しきった銀のクジラを待ち構えていたのは、獲物を狙う鷹のように旋回する三機の影――イギリス軍のソッピース・キャメル戦闘機だった。
※【ソッピース・キャメルは、小型ながら高出力エンジンを備えた単座戦闘機で、最高速度は約190km/hに達した。
高い上昇力を持つ一方、操縦は敏感で癖が強く、扱える者には恐るべき性能を発揮した。】
「……イギリス野郎どもめ。中止命令は、やはり本当だったのか」
ハンスが舵輪を握る手に力を込める。
マヘンゲの空に、イギリスの戦闘機が悠々と浮かんでいるという現実。それは目的地がすでに敵の支配下にある可能性を強く示唆していた。
嵐を抜けた直後の低高度。背後にはまだ荒れ狂う雷雲。
燃料はあれど、逃げるための高度も、隠れるための雲もない。
「……中尉。……どうしますか」
ハインリッヒがボックホルトを振り返った。
三機の敵機は、L59が「水素」の塊であることを熟知しているはずだ。奴らが焼夷弾の引き金に指をかけるまで、あと数分。
ボックホルトは、三機の戦闘機を見つめたまま、静かに、しかし決然と告げた。
「機銃班、配置につけ。……ハンス、面舵。……逃げるな、奴らの懐へ突っ込むぞ」
銀のクジラは、最後の直線を前に、アフリカの青空で三機の刺客と対峙した。
・・・・
イギリス機1機の機首が下がり、攻撃態勢に入る。ハインリッヒは息を止めた。焼夷弾が1発でも巨大な気嚢を掠めれば、この数千キロの旅路は一瞬で火柱となって終わる。
ボックホルトは、動かなかった。
「機銃班……撃つな。まだ撃つな」
「しかし、中尉! 奴らが来ます!」
「……待て。撃つな!」
226メートルの銀色の巨体が、3機の小さな刺客とすれ違う。イギリス軍の編隊長は、引き金に指をかけたまま、その「異常な光景」に目を疑った。
イギリス編隊長の目には、ボロボロに傷ついたL59の姿が焼き付いていた。
外皮は砂漠の砂で薄汚れ、弾痕がパッチで塞がれ、積乱雲の中を潜り抜けてきた証である傷跡が船体各所に刻まれている。何より、エンジンの排気管からは、限界を超えて回り続けてきた男たちの執念のような、濃い黒煙が吐き出されていた。
(どこから来た……? まさか、地中海を越えてきたのか?)
編隊長は計算を巡らせる。欧州からここまで、およそ5,000キロメートル以上。
そして地中海以南にドイツ軍の中継基地はない。
この「空飛ぶガスボンベ」で、満身創痍になりながらここまできたというのか。
(彼らは何をしに来た? この絶望的な戦況の中……)
それは軍人としての任務を超えた、人類の限界への挑戦に見えた。
この銀色のクジラを火だるまにすることは容易い。
だが、それをすれば、この歴史的な冒険の記録もろとも、空の彼方へ消し去ることになる。
イギリス軍の3機は、攻撃を仕掛ける代わりに、L59の両脇を固めるようにして同航を始めた。
艦橋の窓越しに、ボックホルトとイギリス軍の編隊長の視線が交錯する。
機銃士は、機銃のトリガーから指を離した。
「……中尉。奴ら、撃ってきません」
「ああ。……分かっているようだ。我々が爆撃機ではないことを」
数分間の、奇跡のような沈黙の飛行。
エンジンの轟音だけが響く中、イギリス軍の隊長は、自分たちの目の前にいるのが「敵」ではなく、同じ空を愛し、不可能に挑んだ「同志」であることを認めた。
やがて、編隊長はL59の艦橋に向けて、ゆっくりと右手を上げた。
軍人としての、そして空を飛ぶ者としての、最大級の敬礼。
続いて、彼は機体を大きく左右に振る「バンク」を見せた。
(――幸運を、空の冒険者よ)
その翼の動きが、言葉以上の意味を持ってボックホルトたちに伝わり、一同は敬礼を返した。
3機のソッピース・キャメルは、鮮やかな旋回を描きながら、青空の彼方へと去っていった。
「……中尉」
ハインリッヒの声が、安堵で震えていた。
「ハインリッヒ。方位を確認しろ。……イギリス軍にまで見送られたんだ。……不格好な姿で着陸するわけにはいかんだろう」
ボックホルトは前を見据えた。
嵐を超え、敵さえも味方につけた銀色のクジラは、最後の直線に向けて、力強くプロペラを回し始めた。
目標、マヘンゲ。
そこには、自分たちの到着を信じて待っているはずの、友軍がいる。
・・・・
11月25日、正午。
出撃から100時間を超える極限の航海が、ついに終わりの時を迎えた。
L59は、マヘンゲ近郊のなだらかな草原に、滑り込むように着陸した。
226メートルの巨体が静止し、5基のマイバッハ・エンジンがその長い咆哮を止めたとき、艦内には耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
「……着いたんだな」
ハンスが舵輪から手を離した。その指は、勝利を確信したかのように震えていた。
ハッチが開くと、アフリカの熱気と共に、泥と草の匂いが流れ込んでくる。
駆け寄ってきたのは、幽霊のように痩せこけた、しかし瞳に光を宿したフォルベック軍の兵士たちだった。ボックホルトとハインリッヒがタラップを降りると、そこには言葉にならない歓喜の渦が待っていた。
その日の夜。
マヘンゲの野戦本部に、L59の乗員たちが集まった。
壊れかけのテーブルには、飛行船から下ろされたわずかなワインと、粗末ながらも精一杯の敬意を尽くして用意された食事が並んでいた。
ハインリッヒは、手元に残ったボロボロの航法記録を閉じ、隣のボックホルトを見た。中尉は、グラスをじっと見つめている。
「中尉。……ベルリンに報告を送る術はありませんが、我々はやり遂げました。燃料は底をつきかけ、船体もガタガタですが……あのサハラの温度も、積乱雲も我々を止めることはできなかった」
ボックホルトは、ようやく顔を上げると、不敵な笑みを浮かべた。
「ああ。……ハインリッヒ、君の計算尺が、最後は『執念』を弾き出してくれたおかげだ」
翌朝、彼らはマヘンゲの丘の上から、草原に横たわる愛機を見下ろした。
これから、この銀色のクジラは解体される。
外皮は包帯やテントになり、骨組みは野戦病院のベッドになり、エンジンは基地の発電機へと姿を変える。
「……ハンス、カール、エルンスト。寂しいか?」
ボックホルトの問いに、機関長のカールが、油の落ちきらない手で鼻をこすった。
「いいえ、中尉。最高の死に場所ですよ、こいつにとっては。空で焼け落ちるより、ここで連中の命になる方が、よっぽどマシらしい」
22名の男たちは、それぞれの思いを胸に、静かに立ち尽くした。
彼らにはもう、ヨーロッパへ戻る翼はない。だが、その顔に悲壮感はなかった。自分たちが救った友軍の命が、希望が、士気が、力強く鼓動を再開しているのを肌で感じていたからだ。
ボックホルトは、空を仰いだ。
そこにはかつて、自分たちを見送ったイギリス軍機がいた青空が、どこまでも高く広がっている。
「……諸君。我々の旅は終わった。だが、このクジラが遺した物語は、このアフリカの地で永遠に語り継がれるだろう」
ボックホルトがグラスを高く掲げ、21名の男たちが一斉にそれに応えた。
「――我々の航路に、乾杯!」
その咆哮は、アフリカの乾いた風に乗って、遠いマヘンゲの山々へと響き渡った。
銀のクジラは静かに眠りにつき、その魂は13,000人の命へと引き継がれていった。
(完)




