第7話 観光する仮勇者
オーラキア帝国は、この世界最大の帝政国家である。
その国土は文字通り世界の中心に位置し、その国土面積も世界最大。肥沃な大地に恵まれ、農業・鉱業・繊維業等等、数々の産業を発展させている。
帝都はこれまた世界最大の都市、オーケルン。現皇帝はエドワード。若干28歳という若さながら、帝国の元首として厳かに君臨し、広大な帝国の領地を統治している。
この皇帝を支えるのが、主に8貴族と3大騎士団である。8貴族は主に内政面を、3大騎士団は主に軍事面を司る。特に3大騎士団――《蒼の騎士団》《紅の騎士団》《白の騎士団》は世界中にその名を轟かせており、世界最強の騎士団として名高い。
普段から何かと人々の話題に上ることの多い帝国であるが、最近は際立って多い。
魔王復活と、それに伴う《勇者召喚》のことがあるからだ。魔王に対抗するため異世界より勇者を召喚する《勇者召喚》は現在は皇帝直下の宮廷魔術師によってのみ行われるとされる。魔王復活の噂に比例するように、帝国はいつ《勇者召喚》を行うのかという憶測が飛び交う。
栄華を極める帝国だが、外交面では問題を抱えている。
その1つが、帝国の東側に位置するヴァルゴアン王国とはちょうど反対側、西方に位置するキルクハイム王国との関係だ。この王国とオーラキア帝国は、ほんの10年程前に戦争を――後に《白竜戦争》と呼ばれることになった戦争を起こしている。最終的な結果だけを見れば、双方痛みわけのままに講和した形だが、その因縁はたかが10年ほどの歳月で消え去るものではない。
俺とゲオルグ先生が護衛することになった女性――クリスティアナ・バーグマン。
元を辿れば、彼女の運命はこの《白龍戦争》の頃から決まっていたのかもしれない。
ヴァルゴアン王国南部、交易の港町ガルト。
この街には潮の香りが漂っていた。暖かな、というよりは熱い日差しが大地を照らし、気温がぐんぐんと上昇しているように感じられる。街道沿いの丘から見える港には複数の帆船が停泊しているのが眺望でき、白いレンガ造りの街並みと調和してしているように思われた。沖では帆船が揺れている海原が綺麗に煌き、無限の広がりを見せている。
異世界だ―――丘の上からガルトを一望したとき、俺は思わずそう呟いていた。初めて目にする光景は、王都サンエストルでの暮らしによくも悪くも慣れ始めていた俺に、改めて自分が異世界にいるのだということを思い知らされた。
このガルトには様々な人々が行き交う。ヴァルゴアン王国とオーラキア帝国の国境には常闇の大森林《夜の森》が広がっているため、多少回り道になっても人々は必ずこの港町を経由することになる。人が集まる場所では当然商売も成り立つから、商売人も多く集まる。そして、この街に一旦集約された物資や人々は、街道沿いに王国の諸都市へと広がっていくのである。一種のターミナルだ。
「ちなみに、この港街には港湾治安隊がいる。王都治安隊と似たようなものだな。人が集まれば、それだけ悪さする輩も集まって入り乱れる。締め上げるべきは締め上げないと、交易に支障が出るからな。王国騎士団の中でも選りすぐりの騎士達が常に目を光らせてるってわけだ」
噴き出してくる汗を拭きつつ、ゲオルグ先生はこの街の解説を続けた。
このガルトを東西に貫く目抜き通りを俺達はゆっくりと歩いて見て回っていた。
通りは実に騒がしかった。帆船から降ろされたと思しき積荷を乗せた荷車がそれぞれの店へと運ばれていく。山のように荷が積まれている馬車が慌ただしく走っていくのは、他の街へ運ばれるからだろうか。港町なのだから当然だが、魚介類もちらほらも見かけられた。腐っては商品にもならないから、塩漬けにされて運ばれていく。
王都サンエストルはどちらかと言えば静かで整然とした印象があったが、この交易都市ガルトは活気と喧噪で満ち溢れているように思われた。
「お、あれが港湾治安隊だ」
そう言ってゲオルグ先生が指刺す方向を見れば、数人の男達が周囲を鋭い目つきで眺めながら歩いていた。まるで故郷の世界の警察官のような青い制服の出で立ちだが、警察官と違うのは拳銃を持っているのではなく、帯剣しているところか。王都治安隊はまさに騎士といった甲冑を装っていたが、どうやら港湾治安隊は趣が異なるらしい。まぁ、こんな熱気のある場所で甲冑など着て治安維持にあたるのは地獄に等しいだろう。
それにしても――……
「……いいのか、こんな暢気に観光してて」
物珍しげに辺りを見回すゲオルグ先生には、俺の声は届いていないようだった。そもそもの目的を忘れているのではないかと思えるほどだ。背後をついてきている女性も呆れ顔――否、興味がなさげか。
汗がじんわりと浮いて出てくるような気候の中でも、彼女は――クリスティアナ・バーグマンは涼しい顔をしていた。彼女の怜悧な雰囲気がそう思わせるのか、それとも暑いと思っていても顔に出さないだけなのか、判断はつきかねた。
王都サンエストルを発ってからの行程は非常にスムーズなものだった。
クリスティアナは【とある事情】から暗殺者集団《焔》に狙われていると考えられたが、暗殺者からの襲撃はなく、最大限に警戒しながらの道中はただ疲労感だけが残された。勿論、これは護衛する俺とゲオルグ先生にとっては喜ばしいことではある。
問題――といえば問題なのが、クリスティアナだ。
見た目どおりにクールな彼女は、感情というものを持っているのかと疑わしくなるほどに淡々としており、つい先日に父親が惨殺されたばかりとは思えなかった。俺はいまいち彼女という人間がよく分からない。
ともあれ、旅の行程はスムーズに消化されているということもあり、ゲオルグ先生の発案でガルトの観光と相成った。俺にとって初めての街でもあり、とても新鮮な光景だったが――。
「――暗殺者に狙われている状況なのに」
「!」
心の中を見透かされたかのような発言に振り向けば、やはりいまいち表情が読み取れないクリスティアナの表情だ。見透かされた俺は余程間抜けな顔をしていたのか、クリスティアナは唇の端をつりあげる。
「心配性ね、傭兵さんは」
「……当然だろ。貴方は暗殺者に狙われているんだ。こんな人が入り混じるような場所で、何が起こるか分かったものじゃないだろ」
周囲の街行く人々に聞かれて面白い話しでもないので、前を歩くゲオルグ先生の背中に隠れるようにして小声で話す。
俺たちは護衛の傭兵であり、彼女を護る義務があるのだ。それがなくとも、傍にいる女性が殺されるのを見逃せるはずがない。そう思っての発言だったが、返ってきたのは彼女の背筋の凍るような冷笑だった。
「どうせ暗殺者に狙われるぐらいなら、人の少ない場所よりは、こういう賑やかな場所の方がいい。暗殺というぐらいだから、こんな人前で白昼堂々と狙ってくることもないでしょう?」
彼女は堂々と言ってのける。この状況下でそんなことが言えるとは大した度胸だというほかない。表面だけを見れば、現に狙われている彼女より俺の方が余程警戒しているような感じだ。
「それに、私にも港町の喧噪を楽しむ権利ぐらいあるわ」
そう言われてしまうと、俺としては否とはいえない。
そんな俺たちの会話を聞いていたのかいないのか、ゲオルグ先生がぴたりと立ち止まって振り返る。
「さてと、俺は港の方も回ってこようかと思っているんだが……タカオとクリスティアナ嬢はどうする?」
……まったく、どこまで観光する気だ。
夜。
結局、今日はこのガルトで一泊することとなった。これもゲオルグ先生の提案である。旅の日程は順調に消化していたし、別段反対する理由もなかった。ガルトの街中を一日見て回ったおかげで、手ごろな剣を購入することもできたので、なかなかに有意義な観光だっとといえる。
そのホテルは目抜き通りから北に数本ほど通りを渡った先にあった。大きな通りからは少し離れているので立地自体はよくないのかもしれないが、街並みに調和する白い壁と、涼しげな木製の調度品は中々の雰囲気だ。それでも、客の入りはよくないらしい。
一階には受付ロビーと、その奥の方に質素な造りのバーがあり、俺とゲオルグ先生は横並びのカウンター席に座っていた。2人揃って果実酒だ。一応、故郷の世界を基準にして考えても、俺はもうアルコールを摂取していい年齢ではある。もっとも、ゲオルグ先生ほどのうわばみではなく、弱い方ではあるが。
「どうだ、少しはクリスティアナ嬢と仲良くなれたか? 俺の後ろで、2人して何やらコソコソと話をしていたみたいだが」
「仲良くなれた、というのがどの程度の親密さを表すかによるんじゃないかな?」
俺の素っ気無い言葉に、ゲオルグ先生が可笑しそうに鼻を鳴らす。
「それはつまらん答えだな。あれだけの美人と行動を共にしているんだぞ。それもいいところのお嬢さんだ。女ッ気のないタカオにとったら絶好のチャンスじゃないか」
「……酔ってる?」
まさか、とおどけるゲオルグ先生は、こんなもの水も同然とばかりにグラスを傾ける。素面で言っているのだから、たちが悪い。
「真面目な話、な。……俺は少し心配なんだ。お前は俺が教えた剣の技や戦闘技術は瞬く間に覚えていったが、遊ぶことだけは覚えなかった。いろいろ連れて行ってやっただろ? アイスラー団長には言えない様な、ちょっとばかり悪いところにも」
いろいろ……。
確かに、いろいろな場所に連れて行ってもらった。純粋に感動した場合もあれば、刺激が強すぎた場合もある。……敢えて、個別に論評はしないこととしたい。
「だから、今回の護衛任務は本当にいい機会だと俺は思った。……ま、直前になってややこしい連中に狙われることにはなったがな。見聞が広まれば、お前も視線が広がるだろうってな」
「今日の観光もその一環――ですか」
「暗殺者のことを危惧していたことは承知してる。俺も気を配っていたが、怪しげな気配は感じなかったがな」
危険な雰囲気だとか、殺気だとかを察知する能力は俺に比べればゲオルグ先生の方が余程発達しているから、街中に暗殺者がいなかったのは確かなのだろう。
「ともかくだ。これから先、タカオまでそう気を張らなくていい。俺が責任とってお前とクリスティアナ嬢を帝都まで連れて行ってやる。俺にとってみれば、お前とこうやって旅を出来ている時点で十分なんだからな。誘った時は、一人の傭兵として、なんてことを言ったが、あんなもん建前だ。可愛い弟子の成長に協力できればいいのさ」
邪気のない笑顔は一切の嘘偽りを感じさせず、俺は照れくささを誤魔化すように果実酒を口にした。
「お、噂をすればなんとやらか」
ゲオルグ先生の言葉につられて、薄暗いロビーの2階へと続く階段に目を向ける。そこに、今日はもう就寝すると言って部屋に入ったはずのクリスティアナがいた。薄手のシャツとスラックス姿の彼女は、昼間に比べてどこか小柄に見える。
「どうしたい、お嬢さん。眠れないのか? 馬車の中で寝るよりは余程寝心地はいいはずなんだがな」
「そのお嬢さんという呼び方、やめてもらいたいのだけど」
気に障ったのか、ゲオルグ先生を睨むようにしてクリスティナは俺の横に腰掛けた。髪を洗ったところなのか、彼女の金髪はまだ濡れていていっそう艶やかに感じられ、石鹸の匂いがアルコールの匂いの中に混じってくる。薄着のおかげか、彼女は容貌だけでなく、スタイルもかなりのものであることが分かり――……って、セクハラだな、これは。
カウンターの奥にいたはずのホテルのオーナーがいつのまにか現れ、彼女の注文を手早く聞いていく。このホテル、客が少なければ従業員も少ないようで、オーナーがほとんど1人で働いている様子だった。彼女の前にグラスを置くと、またもやカウンターの奥へと引っ込んでいく。客も俺たち3人だけだから、今の内に他の雑事でも片付けているのだろうか。
「眠れるはず、ないでしょう? 眠っているところをグサリとやられるのはごめんだわ」
昼間もそうだったが、事ある毎にクリスティアナはこういうことを言い出す。その癖、表面上は《焔》の暗殺者を心の底から怖れているようには思えないから、まるでちぐはぐだ。ただ単に強がっているだけのようにも思えるが……。
(それも、何か違うような気がするんだよなぁ……)
別に何か根拠があるわけでもない。ただ、彼女の青い瞳の中には、恐怖はないように見えた。あるのは、諦観しているかのような瞳だけだ。いずれにしても、クリスティアナがどうにも掴みどころがない女性であることには変わりはない。
「心配しなさんな。俺とタカオがいる限り、そんなことは絶対にさせない。このホテルに暗殺者が近づいてくるだけで、俺たちにはこうビビッと来るんでな」
対人センサーでもあるまいに、大袈裟だ。クリスティアナも冗談と受け取ったか、特に反応することもなくグラスを口につける。
「……そういえば、酒は飲めるのか?」
人並み程度には、と返す彼女に俺はこれは相当飲めるのだろうと確信した。こういう言い方をする人間こそが、意外やどうして強かったりするのだ。まぁ、ゲオルグ先生のように口も中身も強い場合もあるが……。そもそも、彼女が先程頼んだグラスの中身からして、確か相当に強い酒のはずである。俺なら、そんな酒を飲もうなら即座に目を回す自信があった。
いい飲みっぷりだな、お嬢さん、とゲオルグ先生が無責任に煽る。先程注意されてまたもお嬢さんと呼んでいるが、そのやりとりはこれまでの道中でも何度もあったので、彼女も諦め気味であった。
――などと考えているうちに、すでにクリスティアナのグラスは空である。どうやら相当強いらしい。かちゃ、と空のグラスを置く彼女を見て、ゲオルグ先生が嬉しげに声を漏らす。
2人の酒豪に挟まれて肩身の狭い俺は、グラスの中の氷を指でつついて転がしていた。
最初にギブアップを宣言したのは、ゲオルグ先生だった。酒に酔ったから、とは言っていたが、大嘘である。あの程度の酒でゲオルグ先生が酔うはずがない。つまり、明日に差し支えるからということと、念を押して襲撃に備えるためだろう。
俺とクリスティアナはといえば、変わらずバーのカウンターに並んで座っていた。クリスティアナはまだ部屋に戻る様子がなかったし、さすがに酒の入った女性を1人残すわけにもいかない。
それなりに飲んでいるはずなのだが、顔色1つ変えることなく涼しい表情をしているクリスティアナ。そろそろ部屋に戻って就寝することを促すべきかとも考え始めたところで、カウンターの奥からオーナーが出てきた。人懐こい笑顔を浮かべて話しかけてくる。
「お客さん達、これからオーラキアに向かうんですか?」
「ええ、まぁ。……申し訳ない、こんな遅くまで」
「構いません。実を言うと今日の泊り客もお客さん達の3人だけでしてね、私も手持ち無沙汰なんですよ。……近頃、魔物が凶暴になってきてるでしょう? そのせいかか、旅人さんが少しずつですが減っているようでしてね。うちみたいな小さなホテルだと、その影響が大きく出てきてしまいまして……」
オーナーは悔しさ半分諦め半分といった面持ちで現状を語る。元々客の入りは悪かったそうだが、ここに来てますます客が減ってしまい、従業員にも暇を出したのだそうだ。親から受け継いだ惰性でやっているような商売だったので、こうなってくると廃業も視野に入れているらしい。
「ただ、そうなるとどうしても親に申し訳が立たない、という気持ちがありましてね。もう少し踏ん張ってみようかとも思うんですよ……おっと、お客さんたちにはつまらない話でしたね」
「いや、お気になさらず」
「あまり気に病む必要はないと思うわ。魔物の活性化がそう長く続くとは思えないから」
コトリとグラスを置き、唐突に会話に参加してくるクリスティアナ。
「おや、どうしてそんなことが言えるんです?」
「魔物が活性化しているのは、魔王が復活したから。魔王が現れれば、勇者が現れるものだから。伝承のとおりよ」
「勇者、ですか。なんでもオーラキア帝国では伝説の勇者を召喚しようとしているという噂話はよく耳にしますが、どうにも眉唾でしてね。以前に魔王が復活し、勇者が現れた際の話も、今となっては伝承や御伽噺の域。当然生き証人なんていやしません。……本当に勇者なんて存在するのでしょうかね?」
それを言ってしまえば、魔王という存在にも同じことが言えるだろう。
この世界は魔王復活を何度も体験しているのかもしれないが、俺も含めて現在を生きる人々にとっては魔王復活は初めての体験だ。魔王がいったいどんな恐ろしい姿をしていて、どんな恐ろしい力を持っていて――それは伝承レベルの話でしか確認できないのである。敢えて言えば、魔王の発す瘴気とかいう力が、魔物を活性化させてしまうということだが、その点だけを見れば伝承のとおりのことが起きている。
「《勇者召喚》は異世界との間にある壁に穴を開ける最高等魔法。金色の魔獣を使役する召喚魔法や暗黒の攻撃魔法のように、時と共に失われた魔法もある中で《勇者召喚》だけは連綿と受け継がれてきたわ。魔王は勇者でなければ倒せないから、《勇者召喚》を失うわけにはいかない。……もっとも、現代では《勇者召喚》を行使できるのは帝国の宮廷魔術師達だけ。彼らを失うことは、この世界が魔王に対抗するための力を失うことに等しいから、彼らは厳重に保護されている」
「ほぅ~、こちらのお客さんはかなりの物知りのようで」
感心しきりのオーナーに対し、俺はといえばクリスティアナが雄弁なことに少し驚いていた。
「私も知ってますよ。勇者は大いなる光の力を持っていて云々……でしたっけ? でもねぇ、たった1人でなにができるのかってね、私みたいな小心者は思ってしまいますよ」
「……1人で出来ることなんて、たかが知れてる、か」
我知らず、小さく呟いていた。
俺をこの異世界に召喚した張本人、ホムレウスに魔王を倒せと言われた時から思っていたことだが、1人でいったい何ができるというのだろう。そもそも、その大いなる力というのが疑わしい。現に、《勇者召喚》によって呼び出された俺は、何の力も持っていなかったのだから。……まぁ、ホムレウスの使った魔法は本当に《勇者召喚》だったのかという疑念はあるが。
「勇者は、1人とは限らないわ」
「……なんだって?」
1人では、ない?
「あまり一般には知られていない古い伝承の1つに、こういうものがある。大いなる光の力を持つ勇者、彼の者には付き従う3人の仲間がいた、と」
「ああ、つまり勇者の従者ですね」
……なんだ、そういうことか。一瞬、勇者は他にも何人もいるのかと思ってしまった。そうであれば、俺の立場も――……。
「いやぁ、お客さんは本当にお詳しいですね。そんなこと、私もまったく知りませんでしたよ?」
「ええ、父が物知りで―――」
「! 静かにッ!」
その物音に気がついたのは、クリスティアナの瞳にわずかに悲哀が差したように見えた時だった。物音――かすかな苦鳴が耳に入った瞬間、俺は怒鳴るようにして話を中断させる。
オーナーが驚愕して何事かと目を向け、クリスティアナは相変わらずの平静さだ。
……念のため、剣を持っておいて、クリスティアナを1人でここに置いておかないで、正解だった。
それは、突如として正面玄関のガラスを突き破って飛び込んできた。オーナーから更なる驚愕の叫びが発せられ、その叫びに被さるようにして侵入者の咆哮が響く。
形状は、リザードマンに近いが、こちらの方はより野生的だ。全身に刺々しい鱗が生え、ぬるりとした尻尾が床を打つ。爬虫類そのものの細長い眼が、俺たちを見据えていた。リザードマンはそれでも武器を持っていたが、こいつらにはそんなものは持てない――というより、持つ程の知性を持ち合わせていない。
魔物――アリゲーターだ。成程、名前のとおり、トカゲというよりはワニに近い。
(何故、魔物が?)
瞬間、脳裏に浮かんだのは、標的はクリスティアナではないかということだ。こんな街中にまで侵入してきて、このホテルを狙ってくる。それなりの理由があってしかるべきだが、だとすると……何故、魔物なのだ? 《焔》はまさか魔物まで操るのか?
だが、考え事をしている暇はない、リザードマンよりは余程凶暴で知られるアリゲーターには、紳士性など欠片もないのだから。
「オーナー! 奥に引っ込んでろ! 俺たちが片付ける!」
いつの間に下りてきたのか、ゲオルグ先生が階段下で長柄両刃斧を片手に吼える。さすがは先生というべきか、あれだけ酒をくらっていてもまったく酩酊した様子はなく、この魔物達の襲撃も素早く察知していたようだ。
「クリスティアナ、貴方も下がっていろ!」
「……自分の身は、自分で護れるわ」
顔面を蒼白にして身体を震わせながらカウンター奥へと入っていったオーナーとは対照的に、クリスティアナは気丈だった。……ああ、もう!
アリゲーターは、俺たちに怒涛の勢いで襲い掛かってきた。俺はクリスティアナを背後に護るようにして移動し、剣を抜き放って構える。アリゲーターが振り上げるのは、その鋭い爪だ。あの爪にかかったら、人間の肉など容易く引き裂かれてしまう。
振り切られた爪を難なく避けると、硬そうな鱗に剣を突き入れる。上手く鱗の間にもぐりこんだ剣を、力任せに横に薙ぐと、アリゲーターは苦悶の声を上げた。
視線を動かせば、ゲオルグ先生もアリゲーター2匹と交戦中だった。先程までの酒飲みのだらしない顔が嘘のように厳しい顔つきとなり、油断なくアリゲーターを睨みつける。間断なくアリゲーターがその爪を振るい、その牙で食らいつくように突進する中、ゲオルグ先生は最小限の動作で避けていた。
しかも、反撃は苛烈だ。ゲオルグ先生が両手持ちで勢いよく両刃斧を振るったと思った瞬間、アリゲーターが2匹とも胴を両断されたうえに宙を舞っていた。その膂力は凄まじいの一言に尽きる。こちらは、俺が心配するだけおこがましいというものだ。
そうしているうちに、アリゲーターは次々とホテル内に侵入してきていた。よくぞこれだけの数がガルトの街中まで侵入してきたものだ。
次から次へと飛び掛ってくるアリゲーター共を一匹ずつ確実に仕留めつつ、背後のクリスティアナの様子を窺う――なに?
「……剣を使えるのか!?」
「人並み程度には、ね」
オーナーが護身用に備え付けていたのだろう、カウンターの内側に立てかけられていた剣をクリスティアナは抜き放っていた。感触を確かめるように軽く振るう様は、まったく危なげがなく、むしろ様になっている。それに……先程の飲みっぷりではないが、人並みということは強いということだ。
しかし、いくらなんでも護衛対象に闘わせるわけにもいかない。俺は再びクリスティアナを庇うようにして立つ。
「タカオ、気をつけろ! こいつらは魔法を――!!」
ゲオルグ先生からの警告は、少し遅かった。
アリゲーターがその3本しかない指を俺たちを指差すようにして持ち上げた瞬間、その指から一筋の流れが文字通り発射された。
「《ウォーターアロー》か!?」
魔力によって作り出した水をかき集めて圧縮し、さながら水鉄砲のように発射する魔法。水であることに違いはないが、その威力はまさに鉄砲の如くだ。
俺は背後のクリスティアナの腰を支えると、抱きかかえるようにして横っ飛びに避けた。標的を外した《ウォーターアロー》が、カウンターに激突し、大穴を開ける。
その威力に肝を冷やす中、アリゲーターは数にものを言わせて俺たちを取り囲む。
「傭兵さん、外を……!」
言われてホテルの窓の外へと目を向けると、ほんのわずかの間に外は明るくなっていた。
夜の帳はいつの間になくなり、激しく自己主張して街を明るく照らすのは家を焼く炎だ。耳を澄ませば、時折人々の悲鳴も漏れ聞こえてくる。炎の上を鳥のように飛び交っているように見えるのは、魔物――キメラか。
間違いない――この港町ガルトは、魔物の襲撃を受けている!